第14話 大江広元は、父の話を途中でやめた
承元二年(1208年)、夏。
「広元様がお見えだぞ」
宗直の声に、三郎は筆を置いた。
伏せようとした紙を、隣のまつが押さえる。
「まだ乾いていないでしょう」
「分かっています」
「今、裏返そうとしたわ」
三郎は紙を置き直した。
庭から、聞き慣れた声がした。
「皆さん、おそろいですな」
大江広元が上がってくる。
あやが座っていた場所から立ち、少し横へずれた。そこは、広元が父と話すときによく座っていた場所だった。
「今日は、お仕事?」
あやが尋ねた。
「少し、昔の話を」
「父上の?」
「ええ」
三郎は、置いたばかりの筆へ手を伸ばした。
まつが、その手を見た。
「まだ、お話は始まっていません」
「始まってからでは遅いでしょう」
広元が笑った。
「では、何を書き留めるか、よく選んでください」
三郎は、少し困った。
全部、聞きたいのだった。
◇
ちよが白湯を運び、広元の前へ置いた。
光成は直していた籠を脇へ寄せた。あやはまつの隣へ座り、三郎の紙が見える方へ少しずつ動いた。
「今日は、こちらでの直成殿のお話を伺えればと思いまして」
広元がちよへ言った。
「家でのことですか」
「ええ。私は、仕事をしているところを長く見てきました。しかし、知っているつもりで、知らないことも多いようです」
ちよは少し考えた。
「家でも、仕事の話はよくしておりました」
光成が笑った。
「そうでした」
「帰ってきて、ようやく座ったと思ったら、また紙を広げるでしょう」
まつも言った。
三郎には、その様子がすぐに浮かんだ。
父は紙を探しに立ち、母に呼ばれ、座り直してからも、まだ何か考えていることがあった。
「食事は、いつ始まったのです?」
広元が尋ねた。
ちよが答える。
「私が膳を置いてからです」
「それでも、紙を見ていたのでは」
「見ていました」
広元がうなずいた。
ちよも、少し笑った。
「ですから、こちらから家の話をしました」
「家の話を」
「宗直が何を引き受けてきたとか、光成がどこへ出かけたとか。まつが弟妹に腹を立てたことも」
「母上」
まつが口を挟む。
「腹を立てたのには、理由があります」
「もちろん。そこも話したわ」
「では、いいです」
光成が笑った。
広元も、白湯の椀へ手を添えたまま笑っていた。
◇
「父上は、聞いていたのですか」
三郎が尋ねた。
「聞いていたわよ」
ちよが答える。
「紙を見ていても?」
「見ているときは、私が話を止めたの」
三郎は母を見た。
「そうすると?」
「顔を上げるわ。そこで続きを話しました」
広元が、ゆっくりうなずいた。
「あの方も、そうしていただいていたのですな」
「何をです?」
「話を聞く支度ができるまで、待ってもらうことです」
三郎は、筆を動かしかけた。
けれど、何と書けばよいのか迷った。
父は、いつも話を聞いていた。
そう思っていた。
母の話を聞くには、母に呼ばれなければならないときもあったらしい。
「広元様は、父上とどんな話をしていたのですか」
まつが尋ねた。
「仕事の話が多かったですね」
「家のことは?」
「時折。ご自分のことより、お子たちの話になると、よく話されました」
宗直が、少し目を伏せた。
光成は籠の縁を指でなぞった。
あやだけが、すぐに聞いた。
「何て?」
広元は五人を見回した。
「その前に、聞いてみたいことがあります」
「何ですか」
三郎が顔を上げた。
「直成殿が家へ戻るのが遅いとき、皆さんはどうしていましたか」
「待っていました」
三郎はすぐに答えた。
「ずっとですか」
今度は、すぐには答えられなかった。
まつが言った。
「待ちきれずに、先に食べた日もあります」
「私は寝たことがある」
あやが言う。
光成もうなずいた。
「俺も、毎日待っていたわけではありません」
広元は、誰の答えにも同じようにうなずいた。
「そうですか」
三郎は筆を置いた。
父が帰ってくるのを待っていた。
それは本当だった。
けれど、毎日、皆で戸口を見ていたわけではない。
父が帰る前に笑っていた日も、腹を立てていた日もあった。
「なぜ、そのことを?」
ちよが尋ねた。
広元は少し迷ってから言った。
「以前、京から戻ったあとの直成殿と話したときに――」
そのとき、廊下から声がした。
「広元様。急ぎのお知らせでございます」
◇
広元が顔を上げた。
使いの者が頭を下げ、京から書状が届いたと告げた。
広元は用件を短く確かめると、椀を置いた。
「申し訳ありません。戻らねばならなくなりました」
「どうぞ、お気になさらず」
ちよが立ち上がる。
宗直も見送りの支度をした。
三郎は、途中までしか使っていない紙を見た。
「お話の続きは、また伺えますか」
広元は、三郎へ顔を向けた。
「ええ。続きを覚えておきましょう」
「私も、ここまでを書いておきます」
「では、次に伺ったとき、どこまで話したか教えてください」
三郎はうなずいた。
門を出る広元を、宗直が送っていった。
座敷へ戻ると、あやが紙をのぞき込んだ。
「何て書いたの?」
「まだ、途中です」
「あまり書いていないね」
「聞いていたので」
まつが三郎を見た。
それから、少しだけ笑った。
「今日は、それでいいんじゃない?」
三郎は紙へ目を戻した。
書き足したいことはあった。
けれど、母が話を止め、父が紙から顔を上げるところは、文字にするより、しばらく思い浮かべていたかった。
台所へ椀を運ぶ母を見てから、三郎は筆を置いたまま、紙の端だけをそろえた。
* * *
【今回登場した歴史人物】
大江広元
京都で官人として働いたのち、源頼朝の政権を文書や行政の面から支えた人物です。頼朝の死後も幕府の政務に関わりました。本作では、直成を見いだし、長くともに働いた人物として描いています。




