第76話 二階堂家は、こずえ一人に振り回される
承久元年(1219年)秋、鎌倉。
二階堂家では、朝から一つの大事件が起きていた。
「母上!」
三郎が廊下を駆けてきた。
「こずえが笑いました!」
ちよは、手にしていた針を止めた。
「それはよかったわね」
「いえ、ただ笑ったのではありません」
「赤子の笑い方に、何か種類があるの?」
「私の顔を見て笑ったのです」
三郎は真剣だった。
ちよは息子の顔を見た。
「……それで?」
「私が父親だと分かっているのではないでしょうか」
「まだ生まれて間もないでしょう」
「ですが、何かを理解しているような顔でした」
「赤子は、みんなそういう顔をするものよ」
三郎は納得しなかった。
「母上。これは書き留めておくべきでしょうか」
「何を?」
「こずえが初めて父親を認識した日です」
ちよは針仕事に戻った。
「まず、しづに聞いてみなさい」
*
三郎の部屋には、紙が三枚並べられていた。
一枚目には、こずえが生まれた日。
二枚目には、乳を飲んだ回数。
三枚目には、昨夜から今朝までの様子が細かく記されていた。
しづは、その紙を見下ろしていた。
「三郎様」
「何だ」
「これは何でしょう」
「こずえの記録だ」
「それは見れば分かります」
しづは三枚目を持ち上げた。
「『夜半、二度泣く。二度目は一度目より声が大きい』」
「事実だ」
「『朝、父の顔を見て笑う』」
「それも事実だ」
「『父を認識した可能性あり』」
「十分に考えられる」
しづは少し考えた。
それから、こずえの顔をのぞき込んだ。
「こずえ。お父様は、あなたが笑うたびに紙を一枚使うつもりですよ」
こずえは小さく口を動かした。
「ほら、三郎様。また何か言いたそうです」
三郎は筆を取ろうとした。
しづがその手を押さえた。
「今のは書かなくて結構です」
「なぜだ」
「私が言ったことまで、こずえの言葉にされては困ります」
「そんなことはしない」
「本当ですか?」
しづは紙の端を指さした。
そこには、小さな字でこう書かれていた。
『母の声に反応する様子あり』
「……三郎様」
「何だ」
「こずえより先に、私のことを観察するのをやめてください」
三郎はしばらく黙った。
「お前がこずえに話しかけると、よく落ち着くから」
しづの表情が、少し柔らかくなった。
「それは、私が母親だからでしょう」
「そうだな」
「三郎様だって、父親なのですから」
しづは、こずえを三郎に渡した。
「紙ではなく、この子の顔を見てあげてください」
三郎は両腕で娘を抱いた。
こずえは、すぐに泣き始めた。
「……しづ」
「はい」
「何か間違えたか」
「いいえ」
しづは笑った。
「お父様の顔を見て、安心して泣いているのでしょう」
「そういうものなのか」
「さあ。私も初めての子ですから」
「では、記録を――」
「三郎様」
「……分かった」
*
昼前になると、宗直が顔を出した。
「三郎。何をしている」
「こずえを見ている」
「見れば分かる」
宗直は部屋の隅に積まれた紙に目を留めた。
「……何だ、これは」
「こずえの記録です」
「仕事の書付かと思ったぞ」
「大切な記録です」
宗直は一枚を拾った。
「『父の腕に抱かれると泣く』」
三郎は顔をしかめた。
「そこだけ読まないでください」
「『母に渡すと泣きやむ』」
「兄上」
「『再び父が抱くと泣く』」
「兄上!」
宗直はとうとう笑い出した。
「お前にも、どうにもならぬ相手ができたな」
三郎は不服そうだった。
「こずえは、まだ言葉が分からないだけです」
「言葉が分かるようになったら、お前の言うことを聞くと思うか?」
「少なくとも、説明はできます」
そこへ光成がやってきた。
「三郎。赤子に説明してどうする」
「次兄上まで」
光成は紙の束を見た。
「これだけ紙があるなら、田の水の量も記録してくれ」
「これはこずえのための紙です」
「では、こずえが田を耕すようになったら頼む」
宗直がまた笑った。
三郎は、娘を抱いたまま二人をにらんだ。
「兄上方は、父親になった者の気持ちが分かっておられない」
「私は父親だぞ」
宗直が言った。
「私もだ」
光成が続けた。
三郎は黙った。
二人の兄は、満足そうにうなずいた。
*
その日の午後、あやが北条家から訪ねてきた。
「母上、こんにちは!」
声だけで、ちよには誰が来たか分かった。
「あや。今日は一人?」
「小太郎様はお仕事です。帰る前に迎えに来てくださいます」
あやは手にした包みを見せた。
「しづ姉上に、魚を持ってきました」
「ありがとう」
「こずえは、どうしていますか」
「三郎が抱いているわ」
あやは嫌な予感がした。
部屋をのぞくと、案の定、三郎が娘の顔を真剣に見つめていた。
「三郎兄上」
「何だ」
「こずえを見て、何を考えているの?」
「今朝、笑った理由だ」
「まだ考えていたの?」
あやは、しづの隣に座った。
「しづ姉上、大変ですね」
「ええ。でも、三郎様は楽しそうですよ」
「そう見えますか」
「私は、あんなに嬉しそうな三郎様を初めて見ました」
あやは兄を見た。
三郎は、こずえの小さな手を指でつついていた。
「ほら、握った」
「赤子は指を握るものよ」
あやが言うと、三郎は首を振った。
「私の指を選んで握ったのだ」
「兄上、こずえはまだ選んでいないと思う」
「なぜ分かる」
「じゃあ、私の指でも試してみよう」
あやが指を差し出した。
こずえは、その指も握った。
「ほら」
三郎は黙った。
しづは肩を震わせて笑っていた。
「三郎様。負けましたね」
「勝ち負けではない」
「そうでしょうか」
「そうだ」
しづは、三郎の顔をのぞき込んだ。
「でも、私はこずえに負けたくありません」
「何の話だ」
「三郎様を笑わせる回数です」
三郎は目を丸くした。
あやが吹き出した。
「しづ姉上、それなら今のところ勝っていると思います!」
しづは小さく笑った。
「でしょう?」
三郎は、何か言い返そうとした。
けれど、腕の中のこずえが小さく声を出したので、すぐにそちらを向いた。
「……今、笑ったか?」
しづとあやは顔を見合わせた。
「やっぱり、こずえの勝ちですね」
しづが言った。
*
夕方、北条時景があやを迎えに来た。
「ずいぶん楽しそうだったな」
「三郎兄上が、こずえの笑い方を記録しているのです」
「それは大事な仕事だ」
あやは夫を見た。
「小太郎様まで、そんなことをおっしゃるのですか」
「いや、三郎殿なら本当に大事な仕事だと思っているだろう」
「そうなのです。だから困るのです」
時景は笑った。
「だが、よいことではないか」
あやは少し考えた。
「……そうですね」
二人が門を出る頃、家の中からまた三郎の声が聞こえた。
「しづ! 今度こそ笑った!」
続いて、しづの声。
「はいはい。では、今度は私にも見せてくださいね!」
あやは振り返った。
「小太郎様」
「何だ」
「子どもが生まれると、あんなふうになるのでしょうか」
時景はしばらく考えた。
「三郎殿ほどには、ならないと思う」
「本当ですか」
「……たぶん」
あやは笑った。
二人は並んで北条家へ帰っていった。
*
夜。
こずえがようやく眠ったあと、しづは三郎の隣に座った。
「今日は賑やかでしたね」
「ああ」
「三郎様は、少し疲れたでしょう」
「お前こそ、休んだほうがよい」
「私は大丈夫です」
しづはそう言って笑ったが、少しだけ肩を回した。
三郎はその様子を見ていた。
「しづ」
「はい」
「明日は、私がもう少しこずえを見る」
「お仕事は?」
「広元様に頼まれた書付は、今日のうちに済ませた」
「もう済ませたのですか」
しづは驚いた顔をした。
「こずえの記録ばかりしていると思っていました」
「仕事は仕事だ」
「それなら安心です」
しづは三郎の肩に、そっと頭を預けた。
「三郎様」
「何だ」
「こずえが大きくなったら、今日のことを話してあげましょうね」
「何を?」
「お父様が、あなたの笑った理由を一日中考えていたことです」
「それは話さなくてよい」
「どうしてですか」
「笑われる」
しづは顔を上げた。
「いいではありませんか」
「何がだ」
「こずえに笑われるなら、幸せなことでしょう?」
三郎は答えなかった。
代わりに、眠っている娘を見た。
小さな手が、布の端を握っていた。
「……そうだな」
しづは満足そうにうなずいた。
「では、決まりですね」
「何がだ」
「明日も、こずえをたくさん笑わせましょう」
「お前もか」
「もちろんです」
しづは、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「三郎様には負けませんから」
三郎はようやく笑った。
部屋の隅には、書きかけの紙が残っていた。
『承久元年、秋。こずえ、初めて父の顔を見て笑う』
その下には、まだ何も書かれていなかった。
三郎は筆を取り、少し考えてから、一行を書き足した。
『しづも、よく笑う』
そして筆を置いた。




