第74話 後鳥羽上皇は、宮将軍の申し出を考える
建保七年(1219年)、京。
鎌倉からの使者が到着した。
源実朝が暗殺されてから、まだそれほど時はたっていない。
将軍を失った鎌倉が、次の将軍を迎えようとしていることは、京にも伝わっていた。
しかし、使者が携えてきた申し入れは、朝廷の人々を驚かせた。
皇族を、鎌倉の将軍として迎えたい。
つまり、天皇の一族である宮様を、武士たちの頂点に立てたいというのである。
後鳥羽上皇は、その申し入れを聞いて、しばらく黙っていた。
「……宮を、鎌倉へ下せと申すのか」
上皇は、天皇の位を退いた後も政治を主導する立場にあった。
いまの京では、後鳥羽上皇の意向が朝廷の政治を大きく動かしている。
「さようでございます」
近臣が答えた。
「北条義時、大江広元らが、将軍家の後継ぎとして宮様をお迎えしたいと」
「鎌倉も、思い切ったことを考えたものだな」
上皇は書状を手に取った。
「源氏の将軍家は、どうなった」
「実朝殿に御子はなく、頼家殿の御子であった公暁も討たれました」
「そうであったな」
上皇は目を伏せた。
実朝は、京の文化を深く愛した将軍だった。
和歌を詠み、朝廷の官位を重んじ、京との結びつきを強めようとしていた。
その実朝が、鎌倉の鶴岡八幡宮で殺された。
上皇にとっても、決して軽い出来事ではなかった。
「実朝が生きておれば、こうした話も急がずに済んだものを」
近臣は黙って頭を下げた。
上皇は書状へ目を戻した。
「それで、鎌倉は宮を迎えて、何をさせるつもりなのだ」
*
御所では、鎌倉からの申し入れをめぐって評議が開かれた。
公卿たちが集まり、意見を述べる。
公卿とは、朝廷で高い地位にある貴族たちのことである。
「鎌倉は、将軍家の後継ぎを失っております。御家人たちをまとめるため、尊い御血筋の方をお迎えしたいのでございましょう」
一人が説明した。
「それは分かる」
上皇はうなずいた。
「だが、宮が鎌倉へ行けば、誰が政務を行う」
「実際の政務は、これまでどおり北条義時らが担うものと思われます」
「では、宮は何をする」
誰もすぐには答えなかった。
「御家人たちの上に立ち、将軍としての権威を示されることになりましょう」
上皇は、その言葉を繰り返した。
「権威を示す、か」
「はい」
「命令を出すのは北条。土地を裁くのも北条。軍勢を動かすのも北条。それで宮は、将軍としての権威を示すのだな」
公卿たちは顔を見合わせた。
上皇は怒っているわけではなかった。
鎌倉の申し入れが何を意味するのか、確かめようとしていた。
「それでは、宮の名を借りて、鎌倉が政を行うことになるのではないか」
「そのようにも考えられます」
「朝廷の宮をいただきながら、朝廷の意向には従わぬ。そういうことにもなりかねぬな」
別の公卿が口を開いた。
「されど、上皇様。宮様をお迎えすれば、鎌倉と朝廷の縁は深まります。宮様を通じて、朝廷のお考えを鎌倉へ伝える道も開けましょう」
「なるほど」
上皇は、その意見も退けなかった。
皇族を将軍として送ることには、危うさがある。
しかし、京と鎌倉を結ぶ新しい道になる可能性もあった。
「どちらにも道理はあるな」
上皇が言った。
「だからこそ、軽々しく決めるわけにはいかぬ」
*
「そういえば、以前にも似た話を聞いたことがございます」
年配の近臣が、ふと思い出したように言った。
上皇が顔を向けた。
「似た話?」
「実朝殿に御子がなかった場合、将軍家の後継ぎをどうするかという話でございます」
「いつのことだ」
「もう十年以上も前になります」
上皇は少し眉を上げた。
「ずいぶん早いな。実朝は、まだ若かったであろう」
「はい。当時も、そこまで急ぐ必要はないという者が多かったようでございます」
「誰が、そのようなことを申していた」
近臣は記憶をたどった。
「二階堂直成という、鎌倉に仕える者でございました」
上皇は、その名を繰り返した。
「二階堂……直成」
「京で文書を扱う仕事に関わっていた者でございます。大江広元とも縁が深かったと聞いております」
「覚えがある。実朝の縁組のころにも、その名を耳にしたな」
「さようでございます」
近臣は続けた。
「将軍家の御子が生まれぬ場合に備え、京と鎌倉の縁を保つ道を考えておくべきだと、折に触れて話していたようでございます」
「宮を将軍に迎えると?」
「そこまで明確に申し上げていたかは、私には分かりませぬ。ただ、将軍家の後継ぎを、鎌倉だけの問題として考えるべきではないと」
上皇は黙った。
十年以上前。
実朝はまだ若く、将軍家の将来を悲観するには早すぎると思われていたころである。
「その直成という者は、いま何をしておる」
「すでに亡くなっております」
「そうか」
上皇は、しばらく書状を見つめた。
「その男が案じていたことが、現実になったのだな」
「結果としては、そうなります」
「先のことを考える者は、時に周りから心配しすぎだと思われるものだ」
上皇は書状を置いた。
「だが、先を案じたからといって、答えが見つかるとは限らぬ」
近臣は深く頭を下げた。
直成の名は、そこでいったん話題から消えた。
朝廷が決めなければならないのは、亡くなった男の考えではない。
いま目の前にある、鎌倉からの申し入れだった。
*
同じころ。
藤原季成は、朝廷の仕事を終えて家へ戻った。
季成は、京で文書を扱う仕事に携わっている。
妻のまつは、鎌倉の二階堂家から嫁いできた女性だった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
季成が部屋に入ると、千寿丸が走ってきた。
「父上!」
「おや、今日は元気だね」
「今日はね、あさが僕のものを取ったんだ」
「何を?」
「紙!」
季成は笑った。
「紙なら、またあげよう」
「そういうことじゃない!」
千寿丸は真剣だった。
まつが苦笑する。
「あさは、兄の持っているものが欲しいだけなのです」
幼いあさは、何も知らない顔で座っていた。
季成は娘を抱き上げた。
「なるほど。これは難しい争いだ」
「父上、ちゃんと裁いて!」
千寿丸が訴えた。
「そうだね。では、まず二人の話を聞こう」
「まだ、あさは、じょうずに話せないよ!」
「それは困った」
まつが笑った。
「朝廷のお仕事より、難しそうですね」
「今日は本当に、そうかもしれない」
季成は娘を下ろし、ようやく腰を落ち着けた。
*
夕食の後、季成はまつに鎌倉からの申し入れについて話した。
「宮様を、将軍に?」
まつは驚いた。
「そういう話が来ている」
「では、鎌倉に新しい将軍様がいらっしゃるのですね」
「まだ決まっていないよ」
「京では、難しいのでしょうか」
「とても難しい」
季成は少し考えてから言った。
「鎌倉は、将軍様が替わっても政務が続く仕組みをつくろうとしているのだろうね」
「それは、よいことではありませんか」
「そう思う。ただ、京から見れば、宮様のお名前で鎌倉がさらに強くなることにもなる」
まつは首をかしげた。
「宮様が将軍になられるのに、京が困るのですか」
「宮様が鎌倉へ行かれても、実際の政務は北条の方々が担うだろうからね」
「では、宮様は何をなさるのです?」
「それを、京でも考えているんだ」
まつは黙った。
「太郎兄上や次郎兄上なら、どう考えるでしょう」
「宗直殿と光成殿かい」
「はい。太郎兄上は、まず鎌倉を守ることを考えるでしょう。次郎兄上は、宮様が来られた後の暮らしや仕事を考えると思います」
「三郎殿は?」
「三郎は……書状が増えることを心配するでしょうね」
季成は吹き出した。
「それは、確かにそうかもしれない」
まつも笑った。
けれども、すぐに表情を改めた。
「京と鎌倉は、仲よくできないのでしょうか」
季成は妻を見た。
「仲よくするためにも、互いの考えを知る必要があるのだと思うよ」
「それなら、話し合えばよいのに」
「話し合っているんだ。だから、難しい」
まつはため息をついた。
「父上なら、何と言ったでしょうね」
その言葉に、季成は少し顔を上げた。
「そういえば……」
「どうしました?」
「今日、古い話を聞いたんだ」
「古い話?」
「お義父上が、実朝様の後継ぎについて、ずいぶん早くから心配しておられたらしい」
まつは目を丸くした。
「父上が?」
「うん。京で仕事をしておられたころのことだそうだ」
「でも、実朝様はまだお若かったのでしょう?」
「そうだね」
まつはしばらく考えた。
「父上は、昔から変なところで心配性でした」
「そうなのかい」
「はい。私たちが何かを始めると、必ず失敗したときのことまで聞くのです」
「例えば?」
「三郎が木に登ろうとしたときも、登る前から、降りるときのことを考えろと」
季成は笑った。
「それは、もっともな話だ」
「三郎は、登ってから考えると言いました」
「それで?」
「降りられなくなりました」
季成は声を立てて笑った。
「お義父上は?」
「怒るより先に、梯子を持ってきました」
まつは懐かしそうに笑った。
「そういう父上でした」
季成は、その表情を見つめた。
「では、将軍家の後継ぎについても、何かを案じておられたのかもしれないね」
「そうかもしれません」
まつはうなずいた。
けれども、父が何を知り、何を恐れていたのかまでは、知らなかった。
*
翌日、御所では再び評議が開かれた。
鎌倉からの申し入れに、どう答えるべきか。
公卿たちの意見は分かれていた。
「宮様をお迎えすれば、朝廷と鎌倉の結びつきは深まります」
「しかし、鎌倉の政務を北条が握ったままでは、宮様は名ばかりの将軍となりましょう」
「それでも、朝廷の御一族が将軍となることには意味がございます」
「その意味を、鎌倉がどう受け止めるかが問題なのです」
後鳥羽上皇は、議論を聞いていた。
鎌倉の望みは分かる。
源氏の将軍家が途絶えても、幕府を存続させたいのだ。
そのために、朝廷の権威を必要としている。
しかし、上皇にも守るべきものがあった。
朝廷は、長い年月をかけて日本の政治を担ってきた。
官位を授け、国々の秩序を定め、武士たちにもその地位を認めてきた。
鎌倉の武士たちが強くなったからといって、その権威を簡単に手放すわけにはいかなかった。
「鎌倉が安定することは、朝廷にとっても悪いことではない」
上皇が言った。
公卿たちは静かになった。
「武士たちが争えば、京にもその影響は及ぶ。頼朝が東国をまとめたことにも、意味はあった」
一人の公卿がうなずいた。
「さようでございます」
「だが、鎌倉が安定することと、朝廷が鎌倉の望むものをすべて与えることは、同じではない」
上皇は続けた。
「宮を送れば、朝廷と鎌倉の関係は変わる。その変化が何をもたらすか、よく考えねばならぬ」
「では、いかがいたしましょう」
上皇はすぐには答えなかった。
窓の外では、風が庭木の葉を揺らしていた。
「鎌倉の申し入れについては、なお検討する」
「承知いたしました」
「こちらの考えも、使者によく伝えよ」
上皇は書状を閉じた。
京にとって、宮将軍の問題は、ただ一人の後継者を決める話ではなかった。
これから朝廷と鎌倉が、どのような関係になるのか。
その行方に関わる問題だった。
*
その夜。
まつは、千寿丸を寝かしつけていた。
「あのね、母上」
「何?」
「鎌倉って、遠いの?」
「遠いわよ」
「どれくらい?」
「馬で走っても、すぐには着かないくらい」
「じゃあ、母上の母上も、遠いところにいるの?」
「そうね」
千寿丸は少し考えた。
「会いたくない?」
「会いたいわよ」
「じゃあ、行けばいいのに」
「そう簡単には行けないの」
「どうして?」
「遠いからよ」
千寿丸は不満そうな顔をした。
「さっきも言った」
まつは笑った。
「そうね。さっきも言ったわね」
隣では、あさが小さな寝息を立てていた。
まつは二人の子を見つめた。
鎌倉には、母のちよがいる。
宗直も、光成も、三郎も、あやもいる。
京には、夫の季成と、千寿丸と、あさがいる。
離れていても、家族であることは変わらない。
まつは、ふと思った。
京と鎌倉も、そうなれないのだろうか。
離れた場所で、それぞれが大切なものを守りながら、争わずに暮らす。
父なら、きっとそう願ったはずだ。
けれども、父が生前に何を考え、何をしようとしていたのか。
まつは、まだ知らなかった。
*
御所では、鎌倉への返答をめぐる検討が続いていた。
後鳥羽上皇は、机の上の書状を見つめていた。
「二階堂直成、か」
昼間に聞いた名を、ふと思い出した。
実朝に子がなかった場合を、十年以上も前から案じていたという男。
その男は、何を見ていたのだろう。
上皇には分からなかった。
そして、いまの鎌倉の者たちが、その男の考えをどこまで知っているのかも分からなかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
実朝は、もういない。
鎌倉は、新しい将軍を必要としている。
そして朝廷は、その求めに応じるかどうかを決めなければならない。
「鎌倉を守るために、宮を迎えたいという」
上皇は静かにつぶやいた。
「ならば、朝廷を守るためには、どうすべきか」
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### 登場人物紹介
**後鳥羽上皇**
朝廷の政治を主導する上皇。鎌倉からの宮将軍の申し入れを受け、皇族の立場と朝廷の権威を考える。
**藤原季成**
まつの夫。京の朝廷で文書を扱う仕事に携わる。鎌倉と朝廷の双方の事情を理解しようとしている。
**まつ**
直成とちよの長女。季成に嫁ぎ、京で暮らしている。父が生前、将軍家の後継問題を案じていたという話を初めて聞く。
**千寿丸**
まつと季成の長男。母の故郷である鎌倉に興味を持っている。
**あさ**
まつと季成の長女。千寿丸の妹。
### 歴史の補足
建保七年(1219年)、第三代将軍・源実朝が暗殺され、鎌倉幕府は将軍の後継者を失いました。
幕府は皇族を将軍として迎えることを望みましたが、後鳥羽上皇との交渉は実現せず、摂関家出身の三寅(後の藤原頼経)を迎えることになります。




