第73話 北条義時は、次の将軍を探す
建保七年(1219年)、鎌倉。
大江広元の屋敷では、朝から文書が積み上がっていた。
「……また増えた」
三郎がつぶやいた。
昨日、片づけたはずの机に、今日は昨日より高い文書の山ができている。
「三郎」
広元が声をかけた。
「はい」
「今日の評議の記録を頼む」
「承知いたしました」
三郎は筆と紙を用意した。
「ところで、広元様」
「何だ」
「この文書は、いつになったら減るのでしょう」
広元は机を見た。
「政務が減れば、減るだろう」
「政務は減りますか」
「減らぬだろうな」
三郎はため息をついた。
「では、文書も減りませんね」
「そういうことだ」
広元は平然と答えた。
三郎は、父の直成が生きていたころを思い出した。
父も、よく文書を前にしていた。
それでも、子どもたちが騒いでいると、手を止めて話を聞いてくれた。
いまになって、父がどれほど忙しかったのか、少し分かるようになっていた。
*
その日の評議には、北条義時、北条政子、大江広元、北条時房らが集まっていた。
北条時景――小太郎も、北条一門の若い者として席に加わっている。
三郎は広元のそばに座り、記録を取る役目だった。
部屋には、重い空気が漂っていた。
源実朝が暗殺されたのである。
実朝には子がいなかった。
頼朝の子孫から次の将軍を迎える道も、ほとんど閉ざされていた。
鎌倉幕府は、将軍の後継ぎを決めなければならなかった。
「将軍の座を、いつまでも空けておくわけにはいかぬ」
義時が言った。
政子が静かにうなずいた。
「御家人たちも、次の将軍が誰になるのか気にしておりましょう」
広元は文書を広げた。
「将軍家の後継ぎについて、いくつか道を考えております」
義時は、その文書を見つめた。
そして、ふとつぶやいた。
「……あの男が心配していたことが、とうとう現実になったか」
広元が顔を上げた。
「直成殿のことでございますか」
「ああ」
「実朝様に御子が生まれなかったときのことを、ずいぶん前から案じていた」
「まだ実朝様がお若いころでしたな」
「私は、心配するには早すぎると言った」
義時は苦笑した。
「あの男は、早すぎるうちに考えておかなければ間に合わぬと答えた」
広元も、かすかに笑った。
「直成殿らしい言葉でございます」
「まったく、面倒な男だった」
義時は、少しだけ目を伏せた。
「……だが、話を聞いておいてよかった」
広元は静かにうなずいた。
三郎は筆を動かしながら、父の名前が出たことに驚いていた。
父が、実朝の後継ぎについて義時たちと話していた。
そんなことは、初めて聞いた。
しかし、評議の場で詳しく尋ねるわけにはいかなかった。
三郎は、黙って記録を続けた。
*
「京から、宮様をお迎えする道がある」
広元が言った。
時房が顔を上げた。
「宮様を?」
「はい。朝廷の皇族を、将軍としてお迎えするのです」
政子は少し考えた。
「宮様が将軍となれば、御家人たちも、その権威を重んじるでしょう」
「そのように考えております」
義時が続けた。
「将軍の座には、武士たちが従うことのできる方が必要だ。しかし、鎌倉の政務を止めるわけにはいかぬ」
時房が尋ねた。
「宮様が将軍になられた後、政務はどうするのです」
広元は答えた。
「これまでどおり、鎌倉の者たちが担います」
「宮様には、政務をお任せしないのですか」
「宮様には将軍としての権威を担っていただき、日々の政務は鎌倉の者たちが責任を持つ。それが一つの考え方です」
政子がうなずいた。
「将軍が替わっても、鎌倉の政務が続くようにするのですね」
「はい」
義時は言った。
「将軍が誰になっても、御家人たちの土地を守り、訴えを裁き、政務を続けられる鎌倉にせねばならぬ」
三郎は、その言葉を書き留めた。
父がよく言っていたことに、どこか似ていると思った。
しかし、それを口にすることはしなかった。
*
小太郎が、少し遠慮がちに口を開いた。
「義時様。一つ、よろしいでしょうか」
「何だ」
「宮様を将軍としてお迎えすることは、鎌倉にとってよい道だと思います」
「うむ」
「ですが、京からは、どう見えるのでしょう」
義時は小太郎を見た。
「どういうことだ」
「宮様を将軍としてお迎えしても、実際の政務は鎌倉の者が行います。京から見れば、宮様のお名前だけをお借りするようにも見えるのではないでしょうか」
部屋が静かになった。
時房が腕を組んだ。
「なるほど。宮様をお迎えしながら、宮様には政務を任せぬということか」
「はい」
小太郎は続けた。
「鎌倉では、幕府を守るための道になります。しかし、京では、朝廷の宮様を鎌倉に預けることになります」
政子が静かに言った。
「京には、京の考えがあるでしょうね」
義時はうなずいた。
「そのとおりだ」
広元も言った。
「宮様をお迎えするには、朝廷の同意が必要です。京の方々が何を案じておられるか、確かめねばなりません」
義時は、小太郎に目を向けた。
「よいところに気づいたな」
小太郎は頭を下げた。
「恐れ入ります」
義時は少し考えた。
「……以前にも、似たことを言われた気がする」
広元が顔を上げた。
義時は何も続けなかった。
三郎は筆を止めかけたが、すぐに書き続けた。
*
評議は、さらに続いた。
「宮様をお迎えできれば、鎌倉は安定するでしょう」
時房が言った。
「だが、京が承知しなければ始まらぬ」
義時は答えた。
「まずは、申し入れてみるほかない」
政子がうなずいた。
「鎌倉のためにも、京との関係を大切にしなければなりません」
「はい」
広元は文書をまとめた。
「使者を立て、朝廷へ申し入れましょう」
義時はうなずいた。
「頼む」
三郎は、評議の結論を書き留めた。
宮将軍の構想を、京へ申し入れる。
鎌倉の将来に関わる、大きな決定だった。
*
評議が終わった後。
三郎が文書を片づけていると、広元が声をかけた。
「三郎」
「はい」
「今日の記録は、よく取れているか」
「はい。ただ、一つ気になることがございます」
「何だ」
三郎は少し迷った。
「父のことです」
広元は三郎を見た。
「直成殿のことか」
「はい。父は、実朝様の後継ぎについて、義時様とお話ししていたのですか」
広元は、しばらく黙っていた。
「話していたよ」
「そうだったのですか」
「直成殿は、将軍家の将来をずいぶん心配していた」
三郎は少し考えた。
「父は、家でも心配性でした」
広元が笑った。
「そうか」
「私が木に登るときも、登る前から降りるときのことを考えろと」
「それで、お前はどうした」
「登ってから考えました」
「降りられたか」
「……父が梯子を持ってきました」
広元は声を立てて笑った。
「なるほど。直成殿らしい」
三郎も笑った。
けれども、すぐに真顔になった。
「父は、何を心配していたのでしょう」
広元は静かに答えた。
「将軍が替わっても、鎌倉が続くことだと思う」
「鎌倉が続くこと……」
「うむ」
広元は三郎の肩に手を置いた。
「直成殿は、いろいろなことを考えていた。だが、そのすべてが思いどおりになったわけではない」
三郎はうなずいた。
「はい」
「だから、我らも考え続けねばならぬ」
「承知いたしました」
三郎は、父のことを少しだけ知った気がした。
しかし、父がなぜそこまで先のことを心配していたのか。
その理由は、まだ分からなかった。
*
夕方。
二階堂家では、あやが小太郎を待っていた。
「小太郎様、お帰りなさいませ」
「ただいま」
小太郎が部屋に入ると、あやはすぐに尋ねた。
「今日は、何のお話だったのですか」
「将軍様の後継ぎについてです」
「宮様をお迎えするというお話?」
「はい」
あやは少し考えた。
「宮様が将軍様になったら、鎌倉はどうなるの?」
「これまでどおり、政務を続けられるようにしたいのです」
「では、宮様は何をするの?」
小太郎は苦笑した。
「……今日、私も似たことを考えました」
あやは目を丸くした。
「私と同じことを?」
「はい」
「それなら、私も評議に出られるかしら」
「それは、どうでしょう」
「小太郎様より、よいことを言うかもしれませんよ」
「それは困りますね」
小太郎が笑うと、あやも笑った。
そこへ、三郎が帰ってきた。
「ただいま」
「三郎兄上!」
あやが振り返った。
「今日の評議、どうだった?」
「文書が増えた」
「それだけ?」
「大事な話もあった」
「何?」
三郎は少し考えた。
「父上のことだ」
あやは目を丸くした。
「父上?」
「義時様が、父上の話をしていた」
「どんな?」
「実朝様の後継ぎを、ずいぶん前から心配していたそうだ」
あやは首をかしげた。
「父上は、どうしてそんなことを?」
「分からない」
三郎は答えた。
「広元様も、詳しくは話されなかった」
あやは少し考えた。
「母上なら、知っているかしら」
*
ちよは、二人の話を静かに聞いていた。
「父上が、実朝様の後継ぎを心配していたんですって」
あやが言った。
「そうですか」
ちよは答えた。
「母上は、知っていたの?」
ちよは少し考えた。
「夫が、将軍家の将来を心配していたことは知っています」
「何を考えていたの?」
ちよはすぐには答えなかった。
直成は、ずいぶん前から先のことを考えていた。
実朝がまだ若かったころから。
そして、京と鎌倉が争わずに済む道を、何度も考えていた。
そのことを、ちよは覚えていた。
けれども、直成が何を知っていたのか。
なぜ、そこまで急いでいたのか。
そのすべてを、子どもたちに話すことはできなかった。
「父上は……」
ちよは静かに言った。
「皆が、安心して暮らせる鎌倉にしたかったのでしょうね」
三郎はうなずいた。
「父上らしいですね」
あやも、少し笑った。
「そうね」
ちよは、そっと左手の薬指に触れた。
あやは、それを見ていた。
「母上」
「何?」
「父上のことを考えているでしょう」
ちよは微笑んだ。
「……そうですね」
あやは、母の隣に座った。
「私も、父上に聞いてみたかったな」
「何を?」
「どうして、そんなに先のことを心配していたのか」
ちよは、娘の髪をなでた。
「そうですね」
それ以上は、何も言わなかった。
*
翌朝。
鎌倉から京へ、使者が出立した。
宮将軍を迎えるための申し入れを携えて。
義時は、使者を見送った。
広元が隣に立っていた。
「うまくいくとよいのですが」
広元が言った。
義時はうなずいた。
「そうだな」
そして、少し間を置いて続けた。
「直成殿なら、何と言うだろうな」
広元は考えた。
「京の方々の話も、よく聞いてください、と申すのではないでしょうか」
義時は苦笑した。
「いかにも言いそうだ」
二人は、しばらく使者の去った道を見つめていた。
直成が生前に案じていた将軍家の後継問題は、いま現実の政治となっていた。
しかし、鎌倉だけで答えを決めることはできなかった。
京には、京の考えがある。
朝廷にも、守るべきものがある。
その答えを求めて、鎌倉の使者は京へ向かった。
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### 登場人物紹介
**北条義時**
鎌倉幕府の執権。実朝暗殺後の将軍後継問題に直面する。生前の直成と将軍家の将来について話し合ったことを覚えている。
**北条政子**
源頼朝の妻で、実朝の母。将軍家の後継ぎを失った鎌倉の将来を案じる。
**大江広元**
幕府の政務を支える重臣。直成の考えを知る人物であり、義時とともに宮将軍構想を検討する。
**北条時房**
義時の弟。幕府の将来を考え、後継者問題の評議に加わる。
**北条時景/小太郎**
北条一門の若者で、あやの夫。京と鎌倉の双方の立場を考えながら、政治を学んでいる。
**二階堂行嗣/三郎**
直成の三男。大江広元のもとで書記を務め、評議の記録を取る。父が将軍家の後継問題を案じていたことを初めて知る。
**あや**
直成とちよの末娘で、小太郎の妻。父が何を考えていたのか、母に尋ねる。
### 歴史の補足
建保七年(1219年)、第三代将軍・源実朝が暗殺され、鎌倉幕府は後継者問題に直面しました。
幕府は皇族を将軍として迎えることを望みましたが、後鳥羽上皇との交渉は実現せず、最終的には摂関家出身の三寅(後の藤原頼経)を迎えることになります。
当時、鎌倉幕府は武士たちの所領や軍事に大きな力を持っていました。一方、朝廷も官位や将軍任命などの権威を持ち、双方は互いに関わり合う関係にありました。




