第72話 二階堂家は、直成が残したものを受け継いでいく
承久元年(1219年)秋、鎌倉。
二階堂家では、朝から三郎が騒いでいた。
「母上!」
ちよが振り返った。
「今度は何ですか」
「こずえが笑いました!」
「まあ」
「本当です!」
ちよは、三郎の腕の中をのぞき込んだ。
生まれて間もないこずえは、目を閉じて眠っている。
「……寝ていますね」
「さっき笑ったんです!」
「そうですか」
「母上、信じていませんね!」
「信じていますよ」
「では、もう一度見てください!」
「三郎」
ちよは、息子を見た。
「こずえにも、都合というものがあります」
そこへ、しづがやって来た。
「三郎、また母上を困らせているの?」
「困らせていない!」
「こずえが笑ったって、朝から何度も言っているでしょう」
「だって、笑ったんだ!」
しづは、夫の顔を見て笑った。
「分かったわ。三郎に似て、よく笑う子になるといいわね」
「そうだろう!」
「でも、泣き虫なところまで似たら困るわ」
「私は泣き虫じゃない!」
「こずえが生まれたとき、泣いていたでしょう」
「……あれは別だ」
ちよは、声を上げて笑った。
*
庭では、宗直と光成が話していた。
「三郎は、父親になっても変わらないな」
宗直が言った。
光成は、うなずいた。
「むしろ、前より騒がしい」
「父上も、あんな感じだったのだろうか」
「どうだろうな」
そのとき、門のほうから声がした。
「太郎兄! 次郎兄!」
あやだった。
北条時景と婚姻してからは、北条家で暮らしている。
今日は、生まれたばかりのこずえに会うため、朝のうちに実家を訪ねてきたのだった。
「おお、あや」
宗直が振り返った。
「今日は早いな」
「小太郎様が朝からお仕事ですので、私も早く来ました」
「時景殿は忙しそうだな」
「ええ。実朝様が亡くなってから、ずっとです」
あやは、少しだけ表情を曇らせた。
町では、今も実朝の名を口にするとき、声を低くする者が多い。
あやも、その名を出すとき、自然と声を落としていた。
次の鎌倉殿を迎えるため、義時たちは京との話し合いを進めていた。
時景も、その仕事を手伝っている。
「無理をしていなければよいが」
光成が言った。
「ちゃんと食べているか、毎日聞いてるよ」
「それはよいことだ」
「でも、小太郎様も私に同じことを聞くの」
宗直が笑った。
「似た者夫婦だな」
「そうでしょうか」
あやも笑った。
「それより、何の話をしていたのですか」
「三郎の話だ」
「また?」
あやは、声を上げて笑った。
「三郎兄は、こずえが笑ったと、昨日もずっと言っていましたよ」
宗直がうなずいた。
「今朝も三度ほど聞いた」
「私は昨日、五度!」
光成が、少し考えた。
「俺は七度だ」
あやが、目を丸くした。
「次郎兄が一番多い!」
「仕事の話をしようとしたら、毎回こずえの話になった」
三人は、顔を見合わせて笑った。
奥から、三郎の声が聞こえた。
「太郎兄上!」
宗直は、ため息をついた。
「……今度は何だ」
「こずえが笑いました!」
あやは、腹を抱えて笑った。
*
ちよは、家族の声を聞きながら、朝の支度をしていた。
宗直は、家を支えるようになった。
光成も、自分の家族を持ち、兄弟を助けている。
まつは京で、季成と子どもたちに囲まれて暮らしている。
三郎は父親になった。
あやも、北条家へ嫁ぎ、自分の家庭を持った。
子どもたちは、それぞれの道を歩き始めている。
それでも、こうして家に集まれば、昔と同じだった。
誰かが騒ぎ、誰かが叱り、誰かが笑う。
実朝が亡くなって、まだ一年も経たない。
鶴岡八幡宮の方を向くたびに、足を止める人がいる。
それでも、この家には、赤子の声がある。
ちよは、棚の端に置かれた椀を見た。
縁が一か所欠けた、直成の椀だった。
十一年前。
直成が京へ出立する前も、こんな朝だった。
三郎とあやが、父の椀をどこに置くかで言い合っていた。
父が帰ってきたときに取りやすい場所に置かなければならないと、あやは譲らなかった。
あの子たちは、何も知らなかった。
父が、どんな思いで京へ向かったのか。
鎌倉で、どれほど難しい仕事をしていたのか。
そして、なぜ北条義時とともに歩む道を選んだのか。
そのすべてを知っていたのは、ちよだけだった。
*
昼過ぎ。
北条義時が、二階堂家を訪ねてきた。
「義時殿」
宗直が出迎えた。
「お久しゅうございます」
「息災そうだな、宗直」
「おかげさまで」
義時は、奥から聞こえる声に耳を傾けた。
「……ずいぶん賑やかだな」
宗直は、苦笑した。
「三郎に娘が生まれまして」
「聞いている。時景からも報告があった」
「朝から、あの調子です」
そのとき、あやが顔を出した。
「あっ、おじさん!」
「おお、あやか」
義時は、笑った。
「今日は里帰りか」
「ええ。こずえに会いに来ました」
「そうか」
「おじさんも、こずえを見ていく?」
「そのつもりだ」
「とっても可愛いんだよ!」
「それは楽しみだ」
義時は、少し考えた。
「ところで、時景はどうしている」
あやは、目を丸くした。
「小太郎様?」
「ああ」
「朝からおじさんのお仕事をしているでしょう?」
義時は、黙った。
宗直も黙った。
あやが、首をかしげた。
「おじさん、お忘れですか」
義時は、声を上げて笑った。
「そうだった!」
宗直も笑った。
「義時殿も、お忙しいようですな」
「まったくだ」
あやは、満足そうにうなずいた。
「小太郎様にも、ちゃんと休むようにお伝えください」
「分かった、伝えておこう」
「約束ですよ」
「……お前は昔から変わらんな」
義時は、苦笑した。
「時景も大変だ」
あやは、胸を張った。
「小太郎様は、私と一緒で楽しいと言っていますよ」
義時は、ますます笑った。
「それならよい」
あやは、奥へ走っていった。
「三郎兄! おじさんがこずえを見たいって!」
すぐに、三郎の声が響いた。
「本当か!」
宗直は、額に手を当てた。
義時は、声を上げて笑った。
「直成の家だな」
宗直が、顔を上げた。
「父上の?」
「ああ」
義時は、奥を見た。
「昔から、ここへ来ると騒がしかった」
*
義時は、こずえの顔を見た。
行嗣は、娘を抱いたまま、なかなか離そうとしなかった。
「三郎」
義時が言った。
「はい!」
「少し、こちらにも見せてくれぬか」
「もちろんです!」
行嗣は、そう答えた。
けれど、動かない。
しづが、夫の袖を引いた。
「三郎」
「何?」
「義時様がお待ちよ」
「ああ!」
行嗣は、慌てて義時の前へ進んだ。
義時は、こずえをのぞき込んだ。
「小さいな」
「はい!」
「元気そうだ」
「はい!」
「お前も父親になったか」
行嗣は、少し照れた。
「はい」
義時は、笑った。
「直成が見たら、何と言うだろうな」
行嗣は、娘を見た。
「きっと、いろいろ教えてくれたと思います」
「そうだな」
義時は、少しだけ目を細めた。
「……あの男なら、そうしただろう」
義時は、こずえの小さな手を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……今年は、多くの命が消えた。だからこそ、新しい命を見ると、救われる」
行嗣は、何と答えてよいか分からず、ただ深く頭を下げた。
*
そのあと、義時は、ちよと庭に面した部屋で話すことになった。
「三郎が父親とはな」
義時が言った。
ちよは、笑った。
「私も、まだ不思議な気がいたします」
「直成が聞いたら、喜んだだろう」
「ええ」
ちよは、少し考えた。
「それから、三郎をからかったでしょうね」
義時も笑った。
「そうだな」
しばらく、二人は庭を眺めていた。
秋の風が、木々の葉を揺らしていた。
やがて、義時が口を開いた。
「……頼朝様が亡くなられてから、二十年になる」
ちよは、静かにうなずいた。
「はい」
建久十年(1199年)。
源頼朝が亡くなった。
鎌倉に武士の政権を築いた、その人がいなくなった。
それからの二十年は、決して穏やかなものではなかった。
梶原景時が滅びた。
比企能員が討たれた。
二代将軍の頼家は、将軍の座を追われ、修禅寺で命を落とした。
畠山重忠も討たれた。
和田義盛も、戦で滅びた。
そして今年。
三代将軍の実朝が、鶴岡八幡宮で殺された。
頼朝を支えた有力御家人たちは、次々と鎌倉から姿を消していった。
その争いの中で、北条家は力を強めてきた。
ちよは、静かに言った。
「……多くの方が、亡くなりましたね」
義時は、うなずいた。
「そうだな」
「頼朝様も、頼家様も、実朝様も」
「ああ」
義時の指が、膝の上で、一度だけ握りしめられた。
「梶原殿も、比企殿も、畠山殿も、和田殿も」
義時は、黙って庭を見つめた。
ちよは、続けた。
「直成殿は、あの方々が亡くなられるたびに、悩んでおりました」
「知っている」
義時は、低い声で答えた。
「何度も、言い合った」
ちよは、義時を見た。
「そうでしたね」
「直成は、私の考えに、いつも賛成していたわけではない」
義時は、少し苦笑した。
「むしろ、反対されることのほうが多かったかもしれぬ」
ちよも、少し笑った。
「直成殿らしいですね」
「頼家様のことも、御家人たちのことも、あの男は簡単には納得しなかった」
義時は、庭に目を向けた。
「鎌倉をまとめるには、誰かが決断せねばならぬ。そう考えていたのは、直成も同じだった」
「はい」
「だが、あの男は、決断のたびに人が死ぬことを嫌った」
ちよは、静かにうなずいた。
「ええ」
「私に、もっとほかの道はないのかと、何度も尋ねた」
義時は、少し笑った。
「まったく、面倒な男だった」
ちよも笑った。
「家でも、そうでした」
「そうか」
「一度考え始めると、なかなか寝ないのです」
義時は、声を上げて笑った。
「それは、私のところでも同じだった」
*
ちよは、ふと、頼朝が亡くなったころのことを思い出した。
建久十年(1199年)。
ある夜、直成は遅くに帰ってきた。
子どもたちは、もう眠っていた。
ちよは、夫に湯を出した。
「お帰りなさい、直成さん」
「ただいま、ちよさん」
直成は、いつもより疲れた顔をしていた。
「……頼朝様がいなくなった」
ぽつりと言った。
ちよは、うなずいた。
「はい」
「これから、鎌倉は大変になる」
直成は、湯を飲んだ。
「頼朝様がいたから、まとまっていた人たちがいる。あの人がいなくなれば、同じようにはいかない」
「……そうなのですね」
「御家人には、それぞれ家がある。土地がある。守りたいものがある」
直成は、庭を見た。
「誰かが、鎌倉をまとめなければならない」
ちよは、夫を見つめた。
「直成さんが、ですか」
直成は、苦笑した。
「僕一人では無理だよ」
「では、誰と?」
直成は、少し考えた。
「……義時殿だと思う」
ちよは、驚かなかった。
直成と義時は、頼朝の存命中から、ともに仕事をしていた。
二人は、よく話し合っていた。
意見が違うこともあった。
それでも、互いを信頼していた。
「義時殿を、信じているのですね」
直成は、うなずいた。
「うん」
そして、少し間を置いた。
「ただ、何でも同じ考えというわけじゃない」
「はい」
「これからも、意見が違うことはあると思う。きっと、嫌な思いもする」
直成は、ちよを見た。
「それでも、鎌倉を残したいんだ」
ちよは、尋ねた。
「なぜですか」
直成は、少し驚いた顔をした。
「なぜって……」
「頼朝様は、もういらっしゃいません」
「うん」
「直成さんは、十分に働いてこられました」
「うん」
「それでも、まだ働くのですか」
直成は、すぐには答えなかった。
やがて、奥の部屋へ目を向けた。
子どもたちが眠っていた。
宗直。
光成。
まつ。
まだ幼い三郎。
その寝息が、かすかに聞こえていた。
「……あの子たちがいるからだよ」
ちよは、黙って聞いた。
「鎌倉が争いばかりになったら、あの子たちが安心して暮らせなくなる」
直成は、静かに言った。
「僕は、あの子たちに、普通に育ってほしい」
「普通に?」
「うん」
直成は、少し笑った。
「兄弟で喧嘩して、ご飯を食べて、くだらないことで笑って」
ちよも笑った。
「それは、今もそうでしょう」
「そうだね」
「三郎なんて、毎日何かを壊しています」
「……あれは困るな」
二人は、小さく笑った。
けれど、直成は、また真剣な顔になった。
「その暮らしが続くようにしたいんだ」
ちよは、夫の手に触れた。
「危ないことも、あるのでしょう?」
直成は、黙った。
それが答えだった。
ちよは、しばらく考えた。
それから言った。
「でしたら、私も守ります」
直成が、顔を上げた。
「ちよさん?」
「あなたが外で鎌倉を守るなら、私はこの家を守ります」
直成は、何も言わなかった。
「子どもたちには、毎日きちんとご飯を食べさせます。喧嘩をしたら叱ります。泣いたら抱きしめます」
ちよは、笑った。
「直成さんが帰ってきたとき、いつもどおりの家にしておきます」
直成は、しばらく妻を見つめていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……ありがとう、ちよさん」
「夫婦でしょう」
ちよは、少しだけ怒った顔をした。
「そんなことで、いちいち頭を下げないでください」
直成は、笑った。
「分かった」
そして、二人は、奥の部屋を見た。
子どもたちは、何も知らずに眠っていた。
*
承久元年(1219年)。
ちよは、ゆっくりと息を吐いた。
「……直成殿は、あのころ、鎌倉を守ると決めたのです」
義時は、静かにうなずいた。
「覚えている」
ちよは、顔を上げた。
義時は、庭を見つめたまま言った。
「頼朝様が亡くなられたあと、直成は私のところへ来た」
「はい」
「これからは、頼朝様に頼ることはできぬ。残された者で、鎌倉を支えなければならぬ、と」
義時は、少し笑った。
「それから、私に言ったのだ」
「何と?」
「義時殿が間違えたら、僕は止めます、と」
ちよは、思わず笑った。
「……直成殿らしいですね」
「ああ」
義時も笑った。
「私も、同じことを言い返した」
「義時殿も?」
「直成殿が間違えたら、私が止める、と」
二人は、顔を見合わせた。
「それは、よいお約束でしたね」
「……守れたかどうかは、分からぬ」
義時の声が、少し低くなった。
ちよは、何も言わなかった。
鎌倉では、多くの血が流れた。
直成が望まなかったことも、起きた。
直成と義時の意見が、最後まで一致しなかったこともあった。
すべてを守ることなど、できなかった。
それでも。
ちよは、奥の部屋へ目を向けた。
そこでは、あやがこずえを抱こうとして、三郎と言い合っていた。
「三郎兄、今度こそ私の番!」
「首をちゃんと支えるんだぞ!」
「分かってる!」
「そっとだぞ!」
「分かってるってば!」
しづが笑っている。
宗直と光成も、何か言っている。
その声が、庭まで聞こえてきた。
ちよは、静かに言った。
「……義時殿」
「何だ」
「頼朝様は、もういらっしゃいません」
「ああ」
「頼家様も、実朝様も」
義時は、黙ってうなずいた。
「梶原殿も、比企殿も、畠山殿も、和田殿も……」
ちよは、一人ずつ名前を口にした。
かつて鎌倉を歩き、頼朝のもとで働き、家族を持っていた人たちだった。
「みな、いなくなってしまいました」
「そうだな」
「直成殿も、もうおりません」
義時は、庭を見つめた。
「ああ」
ちよは、奥から聞こえる笑い声に耳を澄ませた。
「でも、二階堂家は残りました」
義時が、ちよを見た。
「宗直も、光成も、まつも、三郎も、あやも。それぞれに大きくなって、家族が増えました」
ちよは、少し笑った。
「三郎など、父親になったというのに、まだ子どものようです」
義時も、思わず笑った。
「それは、直成に似たのだろう」
「ええ。困ったことに」
ちよは、笑いながら続けた。
「直成殿は、あの子たちに、普通に育ってほしいと申しておりました」
「普通に、か」
「はい。兄弟で喧嘩して、ご飯を食べて、くだらないことで笑って」
義時は、黙って聞いていた。
「今、あの子たちは、まさにそのように暮らしています」
ちよは、義時を見た。
「直成殿が、あなたと鎌倉を守る道を選んだからです」
義時は、何も言わなかった。
「もちろん、直成殿だけのお力ではありません。義時殿も、ほかの方々も、長い間、鎌倉を支えてこられました」
ちよは、少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございました」
義時は、慌てて首を振った。
「やめてくれ、ちよ殿」
「ですが」
「直成に叱られる」
ちよは、顔を上げた。
義時は、苦笑していた。
「私だけに礼を言うな、と。きっと、そう言う」
ちよは、声を上げて笑った。
「そうですね」
義時も笑った。
しばらくして、義時が言った。
「直成は、よいものを残したな」
ちよは、奥を見た。
「ええ」
そして、静かに答えた。
「私も、そう思います」
*
義時との話が終わると、宗直が、ちよのところへやって来た。
「母上」
「何ですか」
「義時殿と、何を話しておられたのですか」
ちよは、少し考えた。
「昔のことですよ」
「父上のことですか」
「ええ」
宗直は、庭を見た。
「父上は、よく義時殿と話しておられましたね」
「そうですね」
「子どものころは、何をそんなに話すことがあるのかと思っていました」
ちよは、笑った。
「今なら、少し分かりますか」
宗直は、うなずいた。
「はい。仕事の話は、尽きませんから」
「そうでしょうね」
宗直は、少し照れたように笑った。
「父上には、まだまだ聞きたいことがありました」
ちよは、息子を見た。
「……そうですね」
「でも、母上」
「何ですか」
「父上が残してくれたものは、たくさんあります」
ちよは、黙って聞いた。
「この家も、兄弟も。それから、困ったときに一人で抱え込むな、という教えも」
宗直は、奥の部屋を見た。
「三郎が困っていたら、次郎もあやも、すぐに飛んでいくでしょう」
ちよは、微笑んだ。
「ええ」
「父上が、そういう家にしてくれたのだと思います」
ちよは、しばらく息子を見つめていた。
「……宗直」
「はい」
「あなたも、立派になりましたね」
宗直は、少し困った顔をした。
「急に何ですか、母上」
「何でもありません」
ちよは、笑った。
「ただ、そう思っただけです」
*
夕方。
あやは、こずえの顔をのぞき込んでいた。
行嗣は、その隣に座っている。
「こずえ」
赤子は、眠っている。
「父上だよ」
しづが、笑った。
「三郎。また言ってる」
「だって、まだ覚えていないだろう」
「生まれたばかりだもの」
「じゃあ、何度も言わないと」
しづは、肩を揺らして笑った。
あやが、横から口を出した。
「私は、あやって覚えてほしい!」
「まず父上だ!」
「叔母上だって大事でしょう!」
宗直が、奥から言った。
「三郎、あや。夕餉の支度が始まるぞ!」
「はい!」
二人が、同時に返事をした。
光成が、笑った。
「お前たちは、本当に変わらないな」
そのとき、門のほうから声がした。
「ごめんください」
あやが、顔を上げた。
「あっ!」
門へ走っていくと、時景が立っていた。
「小太郎様!」
「迎えに来たぞ」
「今日はお早いですね!」
「義時様から、今日はもうよいと言われた」
あやは、少し考えた。
「おじさん、さっきまでここにいたのに?」
「ああ。帰り際に会った」
「何て?」
「妻を迎えに行け、と」
あやは、目を丸くした。
それから、笑った。
「おじさんらしいですね」
時景も笑った。
「まったくだ」
あやは、夫の手を取った。
「こずえは、今日も可愛かったです」
「そうか」
「三郎兄、ずっと話しかけてた!」
「それは、昨日も聞いたな」
「今日は、もっと!」
時景は、声を上げて笑った。
「そうか。では、今度は私も見に来よう」
「ええ」
あやは、家の中を振り返った。
「母上、小太郎様が迎えに来たので、帰ります」
ちよが顔を出した。
「時景殿。いつもありがとうございます」
「こちらこそ、あやがお世話になりました」
「そんな、もう家族でしょう」
時景は、少し照れたように笑った。
あやは、夫の腕を引いた。
「小太郎様、帰ろう!」
「そんなに急がなくてもよいだろう」
「今日は、話したいことがたくさんあるのです」
「こずえのことだろう?」
「それだけではありません」
「ほう?」
あやは、少し得意そうに笑った。
「おじさんの昔の話も聞いたの!」
時景は、苦笑した。
「……それは、少し怖いな」
二人は、笑いながら北条家へ帰っていった。
ちよは、その背中を見送った。
あやには、もう帰る家が二つある。
生まれ育った二階堂家。
そして、時景と暮らす北条家。
そのどちらでも、あの子はよく笑っている。
ちよは、嬉しく思った。
*
義時も、帰る支度をしていた。
門のところで、ちよが見送った。
「ちよ殿」
「はい」
「直成がいなくなってからも、二階堂家には世話になっている」
ちよは、首を振った。
「こちらこそ、義時殿にはお世話になっております」
義時は、少し考えた。
「……これからも、鎌倉は穏やかではあるまい」
ちよは、うなずいた。
「そうでしょうね」
実朝が亡くなり、鎌倉では新しい鎌倉殿を迎えるための動きが続いていた。
京との関係も、これからどうなるか分からない。
御家人たちの間にも、不安が残っている。
「頼朝様が築かれた鎌倉を、我らの代で失うわけにはいかぬ」
義時は、静かに言った。
ちよは、その言葉を聞いて、直成の顔を思い出した。
頼朝が亡くなった夜。
夫も、同じことを言っていた。
誰かが、鎌倉を支えなければならない。
あの子たちが、安心して暮らせるように。
ちよは、義時を見た。
「義時殿」
「何だ」
「直成殿は、あなたのお考えに、いつも賛成していたわけではありません」
義時は、苦笑した。
「知っている。何度も言い合った」
「御家人たちが争いで命を落とすことも、ひどく嫌っておりました」
「……そうだったな」
「それでも、直成殿は、あなたとともに鎌倉を守る道を選びました」
義時は、静かにうなずいた。
「ああ」
「頼朝様が亡くなられても、鎌倉を残さなければならない。それだけは、お二人とも同じお気持ちだったのでしょう」
義時は、ゆっくりうなずいた。
「そうだ。あの男とは、そこだけは最後まで違わなかった」
ちよは、家の奥に目を向けた。
三郎がこずえを抱いている。
しづが笑い、宗直と光成も何か言っている。
ちよは、静かに言った。
「直成殿が守ろうとした家族は、こうして残りました」
義時は、奥から聞こえる声に耳を傾けた。
「ああ」
「そして、直成殿が守ろうとした鎌倉も、まだ残っています」
ちよは、義時を見た。
「これからも、二階堂家は北条家をお支えします」
義時は、しばらく黙っていた。
やがて、深く頭を下げた。
「……ありがたい」
ちよは、微笑んだ。
「ただし」
義時が、顔を上げた。
「何だ」
「義時殿が間違っていると思えば、遠慮なく申し上げますよ」
義時は、一瞬驚いた顔をした。
それから、声を上げて笑った。
「まったく!」
ちよも笑った。
「そうでなければ、直成殿に叱られてしまいます」
「違いない」
義時は、しばらく笑っていた。
やがて、静かに言った。
「……直成が守りたかったものは、ここにあるのだな」
「はい」
「これからも、守ってまいりましょう」
義時は、深くうなずいた。
「ああ」
そして、ちよをまっすぐに見た。
「ともに、鎌倉を守ろう」
奥から、また三郎の声が響いた。
「しづ! こずえが笑った!」
「三郎、さっきも言ってたでしょう!」
宗直が何かを言い、光成も笑った。
義時は、その声を聞いて、少しだけ笑った。
ちよも、微笑んだ。
十一年前。
直成が京へ出立した朝も、この家は賑やかだった。
ちよは、心の中で夫に語りかけた。
「直成さん」
「あなたが守ろうとしたものは、今もここにありますよ」
義時が、静かに頭を下げた。
「では、また」
「はい。お気をつけて」
義時は、門を出ていった。
ちよは、その背中を見送った。
夕暮れの空の下、鶴岡八幡宮の方角から、鐘の音が一つ聞こえた。
失われた命を悼む音と、家の奥から聞こえる赤子の声が、同じ夕暮れの中で重なっていた。
ちよは、しばらくその場に立っていた。
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## 登場人物紹介
**北条義時(1163〜1224年)**
鎌倉幕府の有力者。源頼朝の死後、幕府の政治を支え、執権として大きな力を持つようになった。本作では直成と長年協力してきた同志であり、二階堂家とも親しい関係にある。
**源頼朝(1147〜1199年)**
鎌倉幕府を開いた武家政権の指導者。直成の能力を認め、重用した人物。頼朝の死後、鎌倉の政治は大きく変わっていった。
**源頼家(1182〜1204年)**
鎌倉幕府の第二代将軍。頼朝の長男。将軍の座を追われ、伊豆の修禅寺で殺害された。
**源実朝(1192〜1219年)**
鎌倉幕府の第三代将軍。頼朝の次男。建保七年(1219年)、鶴岡八幡宮で公暁に殺害された。
**梶原景時(生年不詳〜1200年)**
頼朝に重用された有力御家人。頼朝の死後、御家人たちとの対立によって鎌倉を追われ、一族とともに滅びた。
**比企能員(生年不詳〜1203年)**
頼家の外戚として力を持った御家人。北条氏との対立によって討たれた。
**畠山重忠(1164〜1205年)**
頼朝に仕えた有力御家人。武勇と誠実さで知られたが、北条氏との対立の中で討たれた。
**和田義盛(1147〜1213年)**
鎌倉幕府の初代侍所別当。頼朝以来の有力御家人だったが、建保元年(1213年)の和田合戦で敗れ、命を落とした。




