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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第七部 実朝の最期と、続いていく暮らし ――建保七年(1219年)〜承久元年(1219年)
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第70話 二階堂家は、三郎が父親になると聞いて大騒ぎする

建保七年(1219年)、鎌倉。


源実朝が鶴岡八幡宮で殺されてから、まだ幾日も経っていなかった。


町には、喪の気配が残っている。


笑い声を立てる者は少なく、道ですれ違う人々も、声をひそめて挨拶を交わしている。


どこかの寺から、読経の声が風に乗って流れてきた。


二階堂家の朝も、いつもより静かだった。


「三郎様、ちょっと座ってください」


しづは、夫の行嗣を呼び止めた。


「何でしょう」


「お話があります」


「帰ってからでは駄目ですか」


「駄目です」


「広元様のところへ行く時間が……」


「三郎様」


「はい」


しづが笑顔になった。


行嗣は、すぐに座った。


妻がこういう笑顔をするときは、まず話を聞いた方がよい。


結婚してから覚えた、大切な知恵だった。


「それで、何でしょう」


しづは、夫の隣に座った。


「赤ちゃんが、できたみたいなんです」


行嗣は、しづを見た。


「……」


「三郎様?」


「……」


「聞こえました?」


「はい」


「では、何か言ってください」


行嗣は、ゆっくり口を開いた。


「……赤ちゃん?」


「はい」


「私たちの?」


「ほかに誰の赤ちゃんだと思ったのですか」


「いえ、そういう意味では!」


しづは、口元を押さえて笑った。


「母上にも相談したんです。月のものが遅れていて、匂いも気になるようになって」


行嗣は、しづのお腹を見た。


まだ、何も変わっていないように見える。


「本当に?」


「たぶん」


「ここに?」


「そうかもしれません」


「いるのですか?」


「だから、まだ確かではないんです」


行嗣は、しづのお腹を見つめた。


実朝が倒れた日、行嗣は鶴岡八幡宮のすぐ近くにいた。


あの日から、胸の底に冷たいものが沈んだままだった。


その冷たいものの上に、小さな温かいものが、そっと置かれた気がした。


行嗣は、まだ何も変わっていないように見える腹から、目を離せなかった。


行嗣は、しばらく考えた。


それから、突然立ち上がった。


「母上!」


しづが夫の袖を引いた。


「ちょっと、三郎様」


「母上!」


「待ってください! まだ皆さんには――」


行嗣は、廊下へ飛び出していた。


しづは、額に手を当てた。


「……言う前に行ってしまいました」


けれど、口元は笑っていた。


     *


「母上!」


ちよが台所から顔を出した。


「どうしました、三郎」


「子どもができます!」


ちよは、手を止めた。


「そうですか」


「はい!」


「それは、よかったですね」


「はい!」


ちよは、息子の顔を見た。


ずいぶん嬉しそうだった。


「ただ、三郎」


「はい!」


「まだ、そうと決まったわけではありませんよ」


「はい!」


「聞いていますか?」


「はい!」


どうやら、あまり聞いていない。


「しづは?」


「部屋にいます!」


「では、まずしづのところへ戻ってあげなさい」


「はい!」


行嗣は、勢いよく走り出した。


ところが、すぐに戻ってきた。


「母上!」


「今度は何ですか」


「何をすればよいのでしょう!」


ちよは、少し考えた。


「まず、落ち着くことでしょうか」


「はい!」


まったく落ち着いていなかった。


     *


そこへ、宗直がやってきた。


「何の騒ぎだ」


行嗣が振り返った。


「太郎兄上!」


「何だ」


「私に子どもができるかもしれません!」


宗直は、行嗣を見た。


「……三郎に?」


「はい!」


「お前が?」


「はい!」


宗直は、しばらく黙った。


それから、行嗣の肩をたたいた。


「そうか。おめでとう」


「ありがとうございます!」


行嗣は、少し照れた。


宗直は、にやりと笑った。


「これで、お前も人の親か」


「まだ、そうと決まったわけではありませんが」


「自分の筆も管理できないのに」


「兄上!」


「子どもの物をなくすなよ」


「なくしません!」


「まず、自分の履物を両方履いて出かけろ」


「今日は履いています!」


行嗣は、足元を見た。


ちゃんと両方履いていた。


よかった。


宗直が笑った。


「確認するな!」


     *


光成が話を聞いたのは、少しあとだった。


「三郎に子ができる?」


「そうかもしれないんです!」


行嗣は、胸を張った。


光成は、弟を見た。


「そうか」


「はい!」


「よかったな」


「ありがとうございます!」


光成は、少し考えた。


「必要な物があれば言え」


「はい!」


「赤子の着物でも、寝かせる場所でも」


「はい!」


「家の中で危ない物は片づけておけ」


「はい!」


「それから――」


宗直が横から口を挟んだ。


「次郎、まだ生まれるのは先だぞ」


光成は、真面目な顔で答えた。


「だから、今から準備するんだろう」


行嗣は、目を輝かせた。


「次郎兄上!」


「何だ」


「ありがとうございます!」


宗直が、ため息をついた。


「……似た者同士だな」


「何がですか」


光成と行嗣が、同時に尋ねた。


宗直は、ますます笑った。


     *


その日の仕事は、大変だった。


鎌倉では、実朝の死後の対応が続いていた。


次の鎌倉殿を誰にするのか。


京の朝廷との話し合いをどう進めるのか。


御家人たちの不安をどう抑えるのか。


大江広元のもとには、今日も書付が積まれていた。


行嗣は、筆を取った。


そして、紙に向かった。


「……」


赤ちゃん。


自分の子ども。


父親。


「……」


行嗣は、紙を見た。


まだ一文字も書いていなかった。


「三郎」


広元の声がした。


「はい!」


「その紙は、いつまで白いままなのだ」


「申し訳ありません!」


「何かあったのか」


行嗣は、少し迷った。


けれど、嬉しさが勝った。


「子どもができるかもしれません!」


広元は、行嗣を見た。


「……お前にか」


「私の妻にです!」


広元は、大きく笑った。


「そうか!」


「はい!」


「それは、めでたい!」


「ありがとうございます!」


広元の笑い声に、部屋の隅の書役が驚いて顔を上げた。


実朝が亡くなってから、この部屋で誰かが声を立てて笑ったのは、初めてだった。


広元は、はっとして口を閉じた。


「……すまん。久しぶりに笑った」


「いえ」


広元は、積まれた書付に目を落とした。


「人が亡くなる年は、人が生まれる年でもある。そう思えば、少しは救われる」


行嗣は、黙って頭を下げた。


目の奥が、少し熱かった。


広元は、うなずいた。


「直成も、最初の子が生まれるころは落ち着かなかった」


行嗣は、目を丸くした。


「父が?」


「ああ」


「父も、仕事が手につかなかったのですか」


「いや、仕事はしていた」


「そうですか」


「だが、家のことが気になっていたのは確かだ」


広元は、少し懐かしそうに笑った。


「何度も、帰る時刻を気にしていた」


行嗣は、嬉しそうに笑った。


「父らしいですね」


「お前も似ている」


「そうでしょうか」


「今朝から、何度外を見た?」


行嗣は黙った。


広元は、机の書付を指さした。


「まず、それを終わらせろ」


「はい!」


「子が生まれたら、今より忙しくなるぞ」


「はい!」


「妻を大切にしろ」


「はい!」


「そして、仕事も忘れるな」


「はい!」


広元は、また笑った。


     *


昼前、北条家から二人の客が訪ねてきた。


「母上!」


門から、あやの声がした。


ちよが顔を出すと、あやが笑っていた。


その隣には、時景がいる。


「お邪魔いたします」


時景が頭を下げた。


「まあ、時景殿。お忙しいのではありませんか」


「義時様のところへ向かう途中なのです。あやがこちらへ伺いたいと言うものですから」


あやが、夫を見上げた。


「小太郎様だって、母上にご挨拶したいって言ったでしょう」


時景が笑った。


「それは、言った」


「ほら」


ちよは、二人を見て微笑んだ。


「よくいらっしゃいました」


あやは、すぐに尋ねた。


「母上、今日は皆いますか」


「太郎も次郎も三郎も、仕事へ出ましたよ」


「そうでしたか」


「どうしたの?」


「昨日、三郎兄に頼まれた紙のことを聞きたかったのです」


「紙?」


「うん。小太郎様が持っている昔の荷の記録を、三郎兄が見たいんだって」


時景がうなずいた。


「以前の荷の行き来について、確かめたいことがあるそうです。写しを持ってまいりました」


「まあ。ありがとうございます」


ちよが受け取ろうとすると、あやが先に手を出した。


「私が預かるよ。三郎兄に渡しておく」


時景は、あやに書付を渡した。


「では、頼む」


「ええ」


そのとき、家の奥から、ふみが顔を出した。


「あや。いらしていたのですね」


「ふみ姉上!」


あやが手を振った。


ふみは、少し笑いをこらえていた。


「ちょうどよいところへいらっしゃいました」


「何かありましたか」


「三郎が、父親になるかもしれないのです」


あやが固まった。


「……え?」


時景も、目を丸くした。


「行嗣殿が?」


ちよが、慌てて言い添えた。


「まだ、そうと決まったわけではないのですよ」


けれど、あやはもう聞いていなかった。


「三郎兄が!?」


ふみがうなずいた。


「ええ」


「赤ちゃん!?」


「そうです」


「しづ姉上に!?」


「そうですよ」


あやは、時景を振り返った。


「小太郎様!」


「聞こえているよ」


「三郎兄が父親になるんだって!」


「まだ、そうと決まったわけではないそうだ」


「でも、赤ちゃんだよ!」


時景は、嬉しそうな妻を見て笑った。


「そんなに嬉しいのか」


「嬉しいです」


あやは、両手を広げた。


「だって、三郎兄が父親になるのです!」


時景は、少し考えた。


「確かに、想像すると面白いな」


「でしょう!」


ちよが笑った。


「二人とも、まだしづには内緒にしているつもりだったのですよ」


あやは、首をかしげた。


「でも、もう皆知ってるんでしょう?」


「三郎が、朝から大きな声で知らせてしまったの」


時景が、声を立てて笑った。


「行嗣殿らしい」


あやは、急に真面目な顔になった。


「しづ姉上は、お元気ですか」


「少し匂いが気になるようですが、休んでいますよ」


「では、私は静かにしています」


時景が妻を見た。


「今の声を聞いてから言うのか」


「今から!」


ちよと時景が、そろって笑った。


     *


時景は、ほどなく仕事へ戻ることになった。


門のところで、あやが夫を見送った。


「小太郎様」


「何だ」


「今日は、母上のところで夕餉までいただいてもいい?」


「ああ。私は義時様のところへ戻るから、ゆっくりしておいで」


「でも、小太郎様の夕餉は?」


「家の者に頼んである」


「遅くなるなら、温め直せるものにしてね」


「分かった」


「それから、ちゃんと食べて」


時景は笑った。


「分かったよ」


あやは、少しだけ声を落とした。


「昨日も遅かったでしょう」


「ああ」


「無理しないでね」


時景は、妻の手を握った。


「気をつける。あやも、帰りは家の者と一緒にな」


「ええ」


「暗くなる前に戻れそうか?」


「皆で夕餉をいただくから、少し遅くなるかも」


「ならば、迎えを寄こす」


あやは笑った。


「ありがとう、小太郎様」


時景も笑った。


「行嗣殿には、おめでとうと伝えておいてくれ」


「ええ」


あやは、夫の姿が見えなくなるまで門に立っていた。


それから、嬉しそうに家の中へ戻った。


     *


二階堂家では、しづがちよと一緒に布を広げていた。


「母上、これくらいでよいでしょうか」


「ええ。上手ですよ」


「まだ、赤ちゃんの着物には早いかしら」


「少し早いかもしれませんね」


しづは笑った。


「三郎様が、今朝から大騒ぎで」


「ええ。聞こえていましたよ」


「もう、家中に知らせてしまったでしょう?」


「そうですね」


「私、もう少し二人だけで喜んでいたかったのに」


ちよは、しづを見た。


「怒っていますか」


「少し」


しづは、笑った。


「でも、あんなに喜んでくれるとは思わなかったから」


ちよも笑った。


「三郎らしいですね」


「本当に」


しづは、布を畳んだ。


「母上」


「何ですか」


「私、楽しみなんです」


「ええ」


「三郎様が、赤ちゃんを抱くところ」


ちよは、少し考えた。


「きっと、最初はおっかなびっくりでしょうね」


「でしょうね!」


しづは、小さく笑った。


「落としたらどうしようって、何度も聞きそう」


「ええ」


「それで、赤ちゃんが泣いたら、自分が何か悪いことをしたのかと考えるの」


「ありそうですね」


二人は、しばらく笑っていた。


しづは、自分のお腹に手を添えた。


「早く会いたいな」


ちよは、優しくうなずいた。


「ええ。楽しみですね」


そこへ、あやが顔を出した。


「しづ姉上!」


しづが振り返った。


「あや。いらしていたのですね」


あやは、しづの隣へ座った。


「聞きましたよ!」


しづは、少し赤くなった。


「三郎様から?」


「ううん。ふみ姉上から。でも、三郎兄が朝から大騒ぎだったって」


しづは、ため息をついた。


「やっぱり」


あやは、しづの顔を見た。


「お体は大丈夫ですか」


「ええ。少し匂いが気になるくらいです」


「では、魚は持ってこない方がいいですね」


「そうしていただけると助かります」


あやは、うなずいた。


「分かった。小太郎様にも、そう言っておく」


しづが笑った。


「時景様にも?」


「ええ。小太郎様も、今日は一緒に来ました」


「まあ」


「三郎兄が父親になるかもしれないって聞いて、笑ってたよ」


しづは、少し困ったように笑った。


「三郎様が大騒ぎする姿が、想像できるのでしょうね」


「ええ」


あやは、少し考えた。


「でも、しづ姉上」


「何ですか」


「嬉しい?」


しづは、静かにうなずいた。


「ええ。とても」


あやは、にっこり笑った。


「よかった」


それから、しづの手を取った。


「私も、嬉しいよ」


しづは、その手を握り返した。


     *


夕方。


行嗣は、いつもより早く帰ってきた。


「ただいま戻りました!」


あやが、門から顔を出した。


「三郎兄!」


「何だ、あや」


「今日は早いですね!」


「仕事を終わらせたからだ!」


「赤ちゃんが気になるんでしょう!」


「……そうだ!」


あやは、大きく笑った。


「正直だ!」


行嗣は、家の中へ入った。


しづが迎えに出た。


「お帰りなさい」


「ただいま!」


「今日は、ずいぶん元気ですね」


「はい!」


「仕事はちゃんとできましたか?」


「できました!」


「本当に?」


「……広元様に、少し叱られました」


しづは笑った。


「やっぱり」


行嗣は、妻の顔を見た。


「具合はどうですか」


「大丈夫ですよ」


「疲れていませんか」


「大丈夫です」


「何か食べたいものは?」


「今は、特に」


「何か欲しいものは?」


「三郎様」


「何でしょう」


「少し座ってください」


行嗣は、すぐに座った。


しづも隣に座った。


「三郎様」


「はい」


「赤ちゃんが生まれるとしても、まだ先ですよ」


「はい」


「今からそんなに慌てていたら、疲れてしまうでしょう」


「そうですね」


「だから、ゆっくり準備しましょう」


行嗣は、妻を見た。


「はい」


しづは、にっこり笑った。


「それから、もう一つ」


「何ですか」


「赤ちゃんが生まれたら、私のことも忘れないでくださいね」


行嗣は、目を丸くした。


「忘れるわけがありません!」


「本当に?」


「本当です!」


「赤ちゃんばかり見て、私を放っておいたら怒りますよ」


行嗣は、真剣な顔になった。


「絶対に忘れません」


しづは、笑った。


「では、約束ですね」


「はい」


二人は、手をつないだ。


     *


その夜。


二階堂家では、いつもより賑やかな夕餉になった。


「赤ちゃんの名前は?」


あやが尋ねた。


「まだ決めていない」


行嗣が答えた。


「男の子だったら?」


「考えていない」


「女の子だったら?」


「考えていない」


「三郎兄、何も考えていないの?」


「今から考えるんだ!」


宗直が笑った。


「まず、落ち着いてから考えろ」


光成がうなずいた。


「名前は大切だからな」


あやが言った。


「では、私も考えます」


行嗣は、慌てた。


「勝手に決めないでくれ!」


「どうして?」


「親が決めるものだから!」


あやは、少し考えた。


「では、候補だけ」


「それなら……」


行嗣が答えかけると、宗直が止めた。


「三郎。まず、しづの意見を聞け」


「……そうでした」


しづは、小さく笑った。


「私は、元気に生まれてきてくれれば、それでよいです」


ちよは、その言葉にうなずいた。


「そうですね」


ふみも、おりんも、笑っていた。


与一と梅も、まだ見ぬ赤ちゃんがどんな顔をしているのか、勝手に想像していた。


「三郎叔父上に似ているかな?」


「しづ叔母上に似ているかも!」


あやが言った。


「どっちに似ても、よくしゃべりそう!」


与一が笑った。


「それは、あや叔母上でしょう!」


「どうして私なの!」


また、笑い声が上がった。


ちよは、家族を見渡した。


実朝が亡くなってから、鎌倉には暗い話が多かった。


将軍が殺され、直成もいない。


人々の涙は、まだ乾いていない。


けれど、二階堂家には、こんな日もある。


誰かが喜び、誰かが笑い、誰かがからかわれる。


そして、まだ生まれていない子どもが、もう家族の話題の中心にいる。


人は去り、人は来る。


悲しみの上にも、新しい命の知らせは、同じように降りてくるのだった。


ちよは、ふと、直成を思い出した。


宗直が生まれると分かったとき。


あの人も、落ち着かなかった。


何を用意すればよいのか。


何を食べさせればよいのか。


まだ生まれていない子どものことを、あれこれ考えていた。


そして、ちよが笑うと、決まってこう言った。


「笑い事ではありませんよ、ちよさん」


今なら分かる。


三郎は、あの人によく似ている。


ちよは、小さく笑った。


「母上?」


あやが尋ねた。


「何でもありませんよ」


「また父上のこと?」


「ええ」


「何を思い出したの?」


ちよは、行嗣を見た。


「三郎が、お父上によく似ていると思って」


行嗣は、少し嬉しそうに笑った。


「そうですか」


「ええ」


「とても、よく似ています」


しづが、夫の顔をのぞき込んだ。


「では、赤ちゃんも直成様に似るかもしれませんね」


行嗣は、少し考えた。


「そうだといいですね」


あやが、すかさず言った。


「では、筆をなくす人が増えますね!」


「だから、なくしていない!」


行嗣の声に、家族全員が笑った。


     *


夕餉が終わると、あやは帰り支度を始めた。


門の外には、北条家から迎えの者が来ていた。


「母上、今日はありがとうございました」


「こちらこそ。しづも喜んでいましたよ」


「ええ。私も嬉しかったです」


ちよは、娘の衣を整えた。


「時景殿にも、よろしく伝えてください」


「ええ」


あやは、少し笑った。


「小太郎様、きっと三郎兄のことをまた笑うと思う」


「そうかもしれませんね」


「でも、私も笑っちゃう」


ちよは、娘を見た。


「それでよいの?」


「ええ。三郎兄が、あんなに嬉しそうでしたから」


ちよも笑った。


あやは、母の手を握った。


「また来るね」


「ええ。いつでもいらっしゃい」


あやは、家人とともに北条家へ帰っていった。


     *


北条家へ戻ると、時景が先に帰っていた。


「あや、お帰り」


「小太郎様!」


あやは、嬉しそうに駆け寄った。


「今日は早かったんだね」


「少しだけな」


「ちゃんと食べた?」


「食べたよ」


「本当に?」


「本当だ」


時景は、笑った。


「今日は、あやの方が帰りが遅かったな」


「だって、三郎兄が大変だったんだもの」


「どう大変だった?」


あやは、時景の隣に座った。


「朝から母上に大声で知らせて、太郎兄にも次郎兄にも知らせて、広元様にも話したんだって」


時景は、声を立てて笑った。


「それは、ずいぶん広まったな」


「ええ」


「しづ殿は、困っていなかったか」


「少し困ってた。でも、嬉しそうだったよ」


時景は、うなずいた。


「それなら、よかった」


あやは、少し考えてから言った。


「小太郎様」


「何だ」


「赤ちゃんって、まだ生まれてないのに、皆をあんなに嬉しくできるんだね」


時景は、妻を見た。


「そうだな」


「三郎兄なんて、もう父親みたいだった」


「まだ生まれていないのに?」


「うん。もう、いろいろ心配してた」


時景は、笑った。


「行嗣殿らしいな」


あやも笑った。


それから、夫の肩へ少し寄りかかった。


「小太郎様」


「何だ」


「今日は、一緒にいられて嬉しい」


時景は、あやの手を握った。


「私もです」


あやは、夫の顔を見た。


「明日も忙しい?」


「しばらくはな」


「そっか」


少しだけ、残念そうな顔をした。


時景は、その顔を見て笑った。


「でも、帰ってくるよ」


あやは、にっこり笑った。


「ええ。待っています」


     *


その夜。


しづは、灯りの下で縫い物をしていた。


三郎は、机の前に座ったまま、さっきから動かない。


紙には、題だけが書かれていた。


『父の心得』


その下は、まだ白い。


しづは針を止めずに言った。


「三郎様」


「何だ」


「昼は、あんなに大騒ぎをなさったのに、今は静かですね」


「……考えている」


「題だけ書いて、そこから進まなくなると思っておりました」


三郎は顔を上げた。


「見ていたのか」


「いいえ。三郎様のことですから、そうなさるだろうと」


しづは針を置いた。


「筆は、あちらの棚に出してあります。ですが、今夜は書かなくてもよいと思います。書き始めたら、朝まで終わらないでしょう」


三郎は反論できなかった。


しづは、三郎の隣に座った。


「怖いのですか」


三郎は、しばらく黙っていた。


「……怖い」


「はい」


「何も分からないまま、父になる」


「私も、母になるのは初めてです」


しづは、小さく笑った。


「ですから、分からないところは、二人で間違えましょう。間違えたら、あとで書いておけばよいのです」


「二人で、間違える」


「はい。間違いの手柄を、三郎様一人に渡すつもりはありません」


三郎は、目を瞬いた。


「手柄なのか」


「ええ。譲りません」


しづは、澄ました顔で縫い物を取り上げた。


三郎は、少し遅れて笑った。


机の上の紙には、まだ題しか書かれていなかった。


けれど三郎は、もうそれを急いで埋めようとはしなかった。


     *


同じころ、二階堂家。


ちよは、片づけを終えて、静かになった家の中を見渡していた。


鎌倉の先行きは、まだ分からない。


次の鎌倉殿が誰になるのか。


京からどんな返事が届くのか。


御家人たちがどう動くのか。


誰にも、答えはなかった。


ちよは、昼間の三郎の顔を思い出し、小さく笑った。


「直成さん」


誰もいない部屋で、夫の名を呼んだ。


「三郎が、父親になるかもしれませんよ」


返事はなかった。


それでも、ちよは微笑んだ。


「きっと、あなたと同じくらい大騒ぎしますね」


奥の部屋から、行嗣の声が聞こえた。


「しづ、赤ちゃんの着物は、いつ用意すればよいのでしょう!」


「三郎様! まだ先ですよ!」


ちよは、思わず吹き出した。


「……もう、始まっているようですね」


夜の二階堂家に、ちよの小さな笑い声が残った。


---


## 登場人物紹介


**大江広元(おおえのひろもと/1148〜1225年)**


源頼朝の時代から鎌倉幕府の政務を支えた人物。実朝の死後も幕府の行政に深く関わりました。本作では直成を見いだした人物であり、行嗣の仕事上の師でもあります。


**二階堂行嗣(にかいどう・ゆきつぐ)/三郎**


直成とちよの三男。大江広元のもとで文書や訴訟に携わっています。妻のしづから懐妊の可能性を告げられ、喜びのあまり家族や広元に知らせてしまいます。


**しづ**


行嗣の妻。懐妊の兆しがあり、ちよに相談しています。夫とともに新しい命を迎える日を楽しみにしていますが、現時点では懐妊は確定していません。


**あや**


直成とちよの末娘。建保六年(1218年)に北条時景と婚姻し、北条家で暮らしています。夫とともに二階堂家を訪れ、行嗣としづの知らせを喜びます。


**北条時景(ほうじょう・ときかげ)/小太郎**


あやの夫。北条義時のもとで政務や連絡調整を担う架空の人物。あやと仲のよい夫婦であり、二階堂家とも親しく付き合っています。

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