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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第七部 実朝の最期と、続いていく暮らし ――建保七年(1219年)〜承久元年(1219年)
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幕間36 ちよは、直成が家の命運を義時に託す日を忘れない

元久元年(1204年)、鎌倉。


義時が来る日の朝、直成さんは文を読み返していた。


長い文ではなかった。


ちよが朝の支度を終えて戻ってきても、夫は同じところに座っていた。


「直成さん」


直成さんが顔を上げた。


「今日は、何を決めるのですか」


夫は文を畳んだ。


「僕たちが、誰と生きていくかを決める」


ちよは向かいに座った。


廊下の向こうから、子どもたちの声が聞こえている。


次郎が三郎に何か言い、まつが二人を静かにさせようとしていた。そのまつへ、あやが別のことを尋ねている。


直成さんは、声のする方を一度見た。


「義時殿と結ぶ」


「北条と、ですね」


「北条の中でも、義時殿とです」


ちよは夫へ目を戻した。


北条を率いているのは、義時の父、時政である。


夫は、その息子を選ぶと言っていた。


「親子が、違う方を向くことになったら?」


「僕は、義時殿の側に立ちます」


直成さんは答えた。


「それを、今日、お伝えするのですね」


「ええ」


「義時殿が敗れたら」


夫の返事が止まった。


外で、あやが笑った。


直成さんは、その声を聞いてから答えた。


「僕だけでは済みません」


ちよは膝の上で手を重ねた。


「所領も、役目も失うかもしれません。敵と見られれば、この家へ兵が来ることもあるでしょう」


夫の声は低かった。


「子どもたちにも、危険が及びます」


「……直成さんにも、ですね」


直成さんが顔を上げた。


ちよは夫を見つめた。


「私は、所領や役目のことだけを心配しているのではありません」


「分かっています」


「本当に?」


直成さんは、すぐには答えなかった。


ちよは続けた。


「頼家様は、伊豆で亡くなりました。鎌倉では、誰がどのように命を失うのか、分からないのでしょう」


「そうですね」


「直成さんが北条の方々と対立して、命を狙われることになったら……」


ちよは言葉を止めた。


考えただけで、恐ろしかった。


頼家が亡くなったと聞いてから、ちよは何度も同じことを思い浮かべていた。


夫が仕事へ出かける。


いつものように見送る。


けれど、夕方になっても帰ってこない。


そして、誰かが知らせを持ってくる。


そんなことが、本当に起きるかもしれない。


「私は、直成さんを失いたくありません」


直成さんは、黙って聞いていた。


「子どもたちにも、父親を失わせたくありません。宗直も、次郎も、まつも、三郎も、あやも。まだ、あなたが必要なのです」


ちよは、夫の顔を見た。


「私にも、必要なのです」


直成さんは、ゆっくりと手を伸ばした。


「ちよさん」


「はい」


「僕も、この家で生きていたいです」


その言葉を聞いて、ちよは少しだけ顔を上げた。


「ちよさんと一緒に、子どもたちの成長を見ていたい。宗直がどんな父親になるのかも、見てみたいです」


ちよは、小さく笑った。


「きっと、直成さんより心配性ですよ」


「それは大変ですね」


二人は少し笑った。


けれど、直成さんはすぐに真面目な顔へ戻った。


「だからこそ、今のうちに決めておきたいのです」


「何をですか」


「僕がいなくなっても、この家が頼れる相手を」


ちよは、夫の手を握り返した。


今ここにいる夫を守りたい。


これからも、ずっと一緒に暮らしたい。


その気持ちは、少しも変わらなかった。


けれど、夫は自分がいなくなったあとの家族のことまで考えている。


それも、家族を愛しているからなのだろう。


「それでも、義時殿を選ぶのですね」


「ええ」


直成さんは、ちよをまっすぐに見た。


「今なら、まだ曖昧にしておくこともできます。時政殿にも義時殿にも、よい顔をしておくことはできるでしょう」


「その方が、安全ではありませんか」


「しばらくは、そうかもしれません」


直成さんは、畳んだ文を見た。


「ですが、いずれどちらかを選ばなければならなくなる。そのとき、誰にも信じてもらえない家になっていたら、もっと危ない」


ちよは、夫の言葉を聞いた。


直成さんは続けた。


「だから、今決めます。誰と働き、誰と鎌倉を支えるのかを」


ちよは、ゆっくりうなずいた。


その決断が、家族の命運を左右することを理解した。


     *


「直成さんは、これから起きることを、覚えているのですか」


ちよは小さな声で尋ねた。


部屋には、二人しかいなかった。


直成さんは畳んだ文を見た。


「時政殿と義時殿が、いつまでも同じ側にいるわけではない。そのことは覚えています」


「いつ、何が起きるかは?」


「はっきりとは分かりません」


夫は、少し間を置いた。


「それだけではありません」


ちよは待った。


直成さんの指が、文の端を押さえた。


「実朝殿のこともあります」


ちよは、夫を見た。


頼家が亡くなったあと、二人で話したことだった。


実朝も、将来、鶴岡八幡宮で命を失う。


夫が知っている未来の出来事だった。


「以前、お聞きしましたね」


「ええ」


「実朝様を、お救いしたいのでしょう」


直成さんは、うなずいた。


「頼家殿のことは、危ないと思っていました。それなのに、守れなかった」


ちよは何も言えなかった。


夫にとって、頼家は書物に載った名前ではなかった。


話をし、教え、成長を見てきた相手だった。


実朝も、同じように顔を知っている。


「実朝殿を守るために、できることはします」


直成さんが言った。


「ですが、守りたいと思うだけでは、守れないことがある」


夫は文から手を離した。


「もし鎌倉殿を失えば、次に誰を立てるのか、誰の判断に従うのかで、また家々が割れるかもしれません。そのとき、僕が生きているとも限らない」


ちよは、夫の最後の言葉に顔を上げた。


「直成さんが?」


「僕も、いつまでも子どもたちの前には立てません」


直成さんは、声のする方を見た。


「僕がいなくなっても、この家が話を持っていける相手を残したいのです」


ちよは夫の横顔を見た。


今日、義時と結ぼうとしている理由が、少しずつ分かってきた。


今の争いを避けるためだけではない。


もっと先で、この家が立っていられるようにする。


夫自身にも見通せない、その先のためだった。


「義時殿なら、必ず守ってくださるのですか」


ちよが尋ねた。


「必ずとは言えません」


「では、何を頼りに決めるのですか」


「ともに働いてきたことです」


今度は、返事が早かった。


「義時殿は、頼朝様が何を残そうとしていたかを知っています。鎌倉が割れれば、どれほど多くの家が危うくなるかも」


直成さんはちよを見た。


「僕は、あの人と鎌倉を残したいのです」


「家を守るためにも?」


「ええ」


夫の判断が正しいか、今ここで確かめることはできない。


けれど、何を恐れ、何を見て選ぼうとしているのかは聞いた。


「直成さん」


「はい」


「私も、今日の話を聞きます」


「反対してもよいのですよ」


「納得できないことは、申し上げます」


直成さんは少し顔を緩めた。


「そうしてほしいです」


ちよは夫を見つめた。


「ただ、一つだけ、お約束ください」


「何でしょう」


「私と子どもたちのために、直成さんご自身の命も大切になさってください」


直成さんは、しばらくちよを見ていた。


そして、うなずいた。


「約束します」


ちよは、その答えを聞いてから立ち上がった。


客を迎える支度が残っていた。


廊下へ出る前に、もう一度振り返った。


「実朝様のことは、ほかの人には?」


「話していません」


ちよはうなずいた。


夫の記憶から聞いた話を、そのまま誰かへ伝えることはできなかった。


今、危険が迫っている証しがあるわけでもない。


それでも、聞く前の自分には戻れなかった。


     *


宗直が庭で家人と話していた。


元服したばかりの息子は、客を迎える支度を一つずつ確かめている。


直成さんが廊下から呼んだ。


「宗直。今日は、お前も座りなさい」


「はい」


「二階堂家の、これからの話をする」


息子の顔が引き締まった。


ちよは、その顔を見た。


先日、義時に烏帽子を着けてもらった。


今日は、その結びつきが何を意味するのかを聞かせる。


「母上もですか」


「ええ」


ちよは答えた。


「私も、聞きます」


     *


義時は、一門につながる家の主と、その息子を連れてきた。


家の主とは、以前から付き合いがある。


船で運ばれる荷を扱い、商人とも行き来する家だった。義時との結びつきが深いことも、ちよは知っていた。


少年は父の隣で、手をついた。


「小太郎です」


ちよが挨拶を返すと、あやが後ろから顔を出した。


少年のそばの包みを見ている。


「何を持ってきたの?」


「あや」


まつが呼んだ。


「先に、ご挨拶でしょう」


あやは慌てて座った。


小太郎は包みを父へ渡し、その様子を見た。


口元が少し動いた。


ちよは二人を見ていた。


今日、どんな話が自分たちをめぐって行われるのか、二人はまだ知らない。


まつに頼み、子どもたちを隣の部屋へ移してもらった。


あやは包みの中を気にしていたが、あとで見せてもらえると聞いて立ち上がった。


小太郎も父に促され、礼をしてから後に続いた。


     *


直成さんは、子どもたちが出ていくまで待った。


それから義時へ向き直った。


「宗直の烏帽子親を引き受けてくださったこと、改めて礼を申し上げます」


義時がうなずく。


「今日は、その先を話したい」


「はい」


直成さんは背筋を伸ばした。


「二階堂家は、義時殿とともに鎌倉を支えます」


義時は何も言わなかった。


隣の男も、夫を見ている。


「僕の役目も、この家の立場も、曖昧にしたままにはいたしません」


「私と結ぶ意味を、承知しているか」


「承知しています」


「北条には、父がいる」


「存じています」


「父と私の判断が違ったとき、お前はどうする」


ちよは夫の手を見た。


膝の上で、指が一度、強く重なった。


「義時殿の側に立ちます」


直成さんは言った。


義時の顔から、わずかに残っていた柔らかさが消えた。


「今、ここで言ったことは、あとで取り消せる話ではないぞ」


「そのつもりで、申し上げています」


義時は、さらに尋ねた。


「もし父と私が争い、私が敗れたらどうする」


直成さんは答えなかった。


義時が続けた。


「私についた者は、父に敵と見なされる。役目を失うだけでは済まぬかもしれん」


「承知しています」


「お前の所領も、この屋敷も、失うことになろう」


「はい」


「それでも、私につくと言うのか」


直成さんは、静かに答えた。


「はい」


義時は、直成さんを見つめた。


「なぜだ」


「頼朝様と一緒に働いて、なぜ鎌倉が必要なのか一番理解していると思っているからです。」


直成さんは言った。


「僕は、義時殿と鎌倉を支えたいのです」


「負ければ、家族も危ういぞ」


「分かっています」


直成さんは、そこで一度、ちよを見た。


「だからこそ、妻にも話しました」


ちよは、義時へ向き直った。


「私も、承知しております」


義時の視線が、ちよへ移った。


「奥方まで、危険を引き受けると言うのか」


ちよは、すぐには答えなかった。


家の奥から、子どもたちの声が聞こえた。


「怖くないとは、申しません」


ちよは答えた。


「私たちには、五人の子どもがおります。夫の判断が間違っていれば、あの子たちまで危険にさらされます」


義時は黙って聞いていた。


「そして、私は夫を失うことも恐れております」


直成さんが、ちよを見た。


「私は、この人と夫婦になり、五人の子どもを育ててまいりました。これからも、一緒に暮らしていきたいと思っております」


ちよは、義時へ目を向けた。


「ですから、お願いがございます」


「何だ」


「これからも夫の異論に、耳を傾けていただきたいのです」


義時は、少しだけ目を細めた。


「直成殿の異論は、昔から聞いておる」


「存じております」


「聞いたうえで、退けることもあるぞ」


「それも承知しております」


ちよは頭を下げた。


「ただ、意見が違うからといって、互いを敵とすることのないよう、お願い申し上げます」


義時は、しばらく答えなかった。


やがて、直成さんを見た。


「お前は、よい奥方を持ったな」


直成さんは静かに頷いた。


「はい。僕も、そう思っております」


ちよは、少しだけ顔を伏せた。


こんな場で、夫からそのように言われるとは思わなかった。


義時は、ちよへ目を戻した。


「奥方の心配は分かった」


「ありがとうございます」


「だが、私も、必ず直成殿を守れるとは約束できぬ」


「……はい」


「私につけば、かえって危ない目に遭うこともある」


ちよは、その言葉を聞いて、胸が苦しくなった。


それでも、義時が危険を隠さずに話してくれたことは分かった。


「承知しております」


ちよは答えた。


「そのうえで、夫とともに歩みます」


義時は、しばらく何も言わなかった。


宗直が後ろで身じろぎした。


ちよは振り返らなかった。


息子にも、今の言葉を聞いていてもらう必要があった。


     *


「なぜ、そこまで決める」


義時が尋ねた。


直成さんは少し間を置いた。


「頼家殿を、守れませんでした」


部屋が静かになった。


義時は目をそらさなかった。


「義時殿と僕の考えが、すべて同じだったとは思っていません」


「そうだろうな」


「今も、あの方を失ってよかったとは思えません」


ちよは夫の横顔を見た。


直成さんは、言葉を選びながら続けた。


「それでも、鎌倉で働くことをやめられない。頼朝様と残そうとしたものも、この家の暮らしも、ここにあるからです」


義時がゆっくり息を吐いた。


「私につけば、気に入らぬ判断も見ることになる」


「そのときは、異論を申し上げます」


「言えば、私が変えるとは限らん」


「承知しています」


直成さんは答えた。


「それでも、申し上げます。義時殿が聞きたくないことを、僕まで言わなくなれば、僕がそばにいる意味がありません」


義時はしばらく直成さんを見ていた。


「お前は、私に従いに来たのではないのだな」


「ともに働きに来ました」


直成さんは、そこで一度、宗直を見た。


「そのために、この家の立場を決めます。義時殿が危うくなったときだけ、関わりがなかったとは申しません」


ちよは夫の声を聞いた。


朝、二人で話した決断が、相手へ渡った。


義時は、すぐには返事をしなかった。


隣の部屋から、あやの問いかける声がした。


夫も義時も、そちらを見なかった。


     *


義時が、隣の男へ目を向けた。


男は姿勢を改めた。


「その結びつきを、家同士でも確かなものにしたいと考えております」


小太郎と、あやの縁談だった。


幼い今、夫婦にする話ではない。


成長したあと、二つの家を結ぶことを考えている。


だが、婚姻を確約するには、二人はまだ幼すぎた。


ちよは尋ねた。


「この話が進めば、二階堂家は、義時殿に近い家と見られますね」


男がうなずいた。


「はい」


「あなたの家も、私たちと結んだ家になります」


「そのつもりで、参りました」


ちよは男の顔を見た。


娘の将来の婚姻相手になるかもしれない少年の父だった。


同時に、この家が危うくなったとき、どうするのかを確かめなければならない相手でもあった。


「祝いの日に行き来するだけの縁では、困ります」


「分かっております」


「家が困ったときにも、話を聞いていただきたいのです」


男はすぐには答えなかった。


義時を見ず、自分で考えていた。


それから頭を下げた。


「こちらが困ったときにも、お願いいたします」


直成さんがうなずいた。


「もちろんです」


ちよは、その返事を聞いた。


相手が危うくなれば、こちらも関わる。


家同士が結びつくことには、その重さもある。


隣の部屋で、あやが笑った。


ちよは膝の上の手を握り、それからゆっくりほどいた。


     *


「義時殿」


直成さんが呼んだ。


「僕に何かあったときは、この家の話を聞いてください」


宗直が顔を上げた。


「僕と働いた者の家だからと、それだけで何でも認めてほしいのではありません」


義時は黙っている。


「この者たちが困ったとき、僕がいないからと、門の外へ置かないでいただきたい」


直成さんは息子へ顔を向けなかった。


「宗直は、まだ経験が浅い。弟妹も幼い。僕だけの付き合いで終われば、この家は、僕がいなくなった日に頼る先を失います」


ちよは夫の言葉を聞いた。


この場では、夫は未来の話をしない。


自分のいない日にも、家が続くように。


そのために、今、できる約束を求めている。


義時が宗直を見た。


「お前は、今日の話をどう聞いた」


「父が、家を守るために決めたことだと聞きました」


「父が決めたから、お前も従うか」


宗直は黙った。


ちよは答えを待った。


「私は、義時殿に烏帽子親を務めていただきました」


宗直は答えた。


「はい」


「ですが、それだけで決めたわけではありません」


宗直は父を見た。


「父上は、頼朝様のころから鎌倉のために働いてこられました。義時殿とも、長く仕事をなさっています」


義時は黙って聞いていた。


「その父上が、家のことも考えて、義時殿と働くと決められた。その理由を、私も聞きました」


宗直は、少し息を整えた。


「私も、義時殿と働きたいと思います」


義時がうなずいた。


「ですが、今は、父ほど鎌倉を知りません」


「それでよい」


義時は答えた。


「知っているふりをするな。父がいなくても、聞きに来い」


宗直が頭を下げた。


義時は直成さんへ目を戻した。


「この家からの話を聞く。お前のいないときもだ」


そして、ちよを見た。


「奥方も。宗直だけで抱え込ませるな」


「はい」


ちよは答えた。


直成さんが深く頭を下げる。


ちよも隣で頭を下げた。


     *


顔を上げてから、ちよは言った。


「あやのことも、申し上げます」


男がこちらへ向き直った。


「家同士の結びつきが、どれほど大切かは分かりました。そのうえで、あの子たちが互いを知る時間をください」


直成さんは黙って聞いていた。


「まだ幼い二人です。今ここで、将来の婚姻まで決めてしまうことはしたくありません」


男は、ちよを見た。


「では、縁談は」


「将来のこととして、考えておきたいのです」


ちよは答えた。


「これからも行き来を重ねて、互いを知る。そのうえで、成長したときに本人たちの気持ちを確かめたいと思います」


男は、少し考えた。


義時が口を開いた。


「それでよいのではないか」


ちよは義時を見た。


「家同士の付き合いは、今日から始めればよい。婚姻の話は、その先のことだ」


男は、ゆっくりうなずいた。


「承知いたしました」


「小太郎を連れて、これからも伺います」


「私たちも、伺います」


ちよは答えた。


「成長したときには、本人たちの話を聞いてください。実際に夫婦として暮らすのは、あの子たちです」


男は頭を下げた。


「はい」


ちよは、もう一度頭を下げた。


娘を守るために考えた縁だった。


その娘が、どんな人と暮らすのかを知らずにいることまで、受け入れるつもりはなかった。


     *


隣の部屋へ行くと、あやが小太郎へ尋ねていた。


「船に載せたら、器は転がらない?」


「箱に入れるんじゃないかな」


「箱の中で転がるでしょう」


「間に、何か入れる」


「何を?」


小太郎は少し考えた。


「聞いておく」


「誰に?」


「家で、荷を扱う人に」


あやはうなずいた。


「では、次に教えて」


少年も、もう一度うなずいた。


脇では、次郎が三郎の結んだ紐をほどいていた。


「これでは、引いたら取れる」


「引かなければ」


「荷を持ったら、引くことになるだろう」


まつが二人の間から器を遠ざけた。


「それを、器のそばで試さないで」


ちよは戸口で足を止めた。


いつもの声だった。


朝、夫と話していたときにも聞こえていた。


「母上」


あやが顔を上げた。


「小太郎が、また来るって」


小太郎は、きちんと手をついた。


「聞いてから、参ります」


「ええ」


ちよは答えた。


「お待ちしています」


少年は父に呼ばれると、すぐに立った。


だが、部屋を出る前に振り返った。


「何を入れるか、だったね」


あやがうなずく。


「忘れないでね」


「もう覚えたよ」


ちよは、二人のやり取りを見ていた。


将来、この二人がどんな関係になるのかは、まだ分からない。


けれど、今日の二人は、互いに話をして、次に会う約束をしている。


それでよいと思った。


     *


客を見送ったあと、直成さんは門の内側に立っていた。


ちよがそばへ行っても、すぐには家へ戻らなかった。


やがて夫は門に手を置いた。


「決めましたね」


ちよが言った。


直成さんはうなずいた。


「ええ」


「怖さが、なくなったわけではありません」


「僕もです」


直成さんがこちらを見る。


ちよは門の外へ目を向けた。


義時たちの姿は、もうなかった。


今日の約束が、これから誰に伝わるのか。


それを聞いた人が、二階堂家をどう見るのか。


ちよには分からない。


夫にも、分からないのだろう。


「直成さん」


「はい」


「私は、今日のことを忘れないと思います」


直成さんは、少し不思議そうな顔をした。


「そうですか」


「ええ」


ちよは夫を見た。


「義時殿に頭を下げたことも、宗直が自分の考えを申し上げたことも」


「はい」


「そして、直成さんが私に、怖いとおっしゃったことも」


直成さんは、少し笑った。


「怖いですよ」


「そうでしょうね」


ちよも笑った。


「直成さんは、いつも落ち着いているように見えますけれど」


「そんなことはありませんよ」


「知っています」


ちよは、夫の手へ自分の手を添えた。


「だから、私もそばにおります」


直成さんは、ちよを見た。


「ありがとうございます」


「私は、直成さんと一緒に暮らしたいのです」


「ええ」


「これからも、ずっと」


直成さんは、その手を握り返した。


「僕もです」


ちよは、ようやく少し安心した。


政治の争いが、これからどうなるのかは分からない。


義時を選んだことで、二階堂家が危険にさらされる日もあるかもしれない。


けれど、今日の決断は、夫が一人で決めたことではなかった。


ちよも、宗直も、その意味を聞いた。


危険を承知したうえで、家族の未来を考えた。


「実朝様のことも、これから気をつけて見ていきましょう」


ちよは声を落とした。


直成さんがうなずいた。


「ええ。覚えている死を、ただ待つつもりはありません」


「はい」


「変えられることがあれば、変えたいです」


ちよは、夫の手を握り直した。


頼家を失った悲しみは、消えていない。


実朝への恐れも、今、二人の間にあった。


それでも夫は、今日、一つを決めた。


家の中から、宗直の声がした。


弟たちへ片づけを頼んでいる。


まつが何か言い、あやが小太郎の話を始めた。


「戻りましょう」


ちよは言った。


「明日も、あの子たちは朝から騒ぎます」


直成さんは家の方へ顔を向けた。


「ええ」


二人で門を閉めた。


木と木が合わさる音がした。


ちよは手を離し、夫と並んで歩き出した。


今日、夫は義時に二階堂家の命運を託した。


その決断が正しかったかどうかは、まだ誰にも分からない。


ただ、ちよには一つ、決めたことがあった。


もし、いつか夫がいなくなり、自分がこの家の返事をしなければならなくなっても、今日聞いた話を忘れまい。


誰かの言葉にただ従うのではなく、相手の話を聞き、自分で考える。


夫が家族に伝えようとしてきたことを、自分も守っていこう。


家の中には灯りがあり、五人の子どもの声があった。


「母上!」


三郎の声がした。


「次郎兄上が、僕の紐をほどいた!」


「ほどかないと、荷が落ちるだろう!」


「落ちなかったかもしれない!」


ちよは、思わず笑った。


隣で直成さんも笑っていた。


その笑顔を、ちよは見上げた。


今日も、夫がここにいる。


家族が、ここにいる。


今は、それが嬉しかった。


---


## 本話の人物について


**北条義時(1163〜1224年)**


鎌倉の政治を支えた武士。北条時政の子で、北条政子の弟。本作では、直成と鎌倉を支える同志として描く。


**源実朝(1192〜1219年)**


源頼朝と北条政子の子で、頼家の弟。兄に代わって鎌倉の将軍となった。本作では、直成が教えた相手の一人として描く。


**北条小太郎と父**


本作独自の架空の人物。義時と結びつきの深い北条傍流の家に属し、船で運ばれる荷や商人との取引に関わる。


小太郎はあやより少し年下。本話では、将来の婚姻を見据えて、両家が縁談について話し合う。ただし、幼い二人の婚姻を確約したものではなく、成長後に本人たちの意思を確かめることが前提となっている。

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