幕間35 ちよは、太郎が宗直になっても背負いすぎるのを見る
元久元年(1204年)、鎌倉。
太郎の元服の日、本人より先に起きていたのは直成さんだった。
ちよが目を覚ますと、夫はすでに衣を整え、膝の上に両手を置いていた。
「早いですね」
「眠れなかった」
「太郎が?」
「僕が」
ちよは起き上がった。
昨夜、太郎は何度も明日の支度を確かめていた。直成さんは、そのたびに、もう寝なさいと言っていた。
言った本人が眠れていなかったらしい。
「直成さんが元服するわけではありませんよ」
「分かっている」
「では、どうして」
直成さんは少し考えた。
「太郎が生まれたときも、眠れなかったなと思って」
ちよは夫の顔を見た。
あのときは、生まれたばかりの息子を抱くだけで大騒ぎになった。
首を支えてくださいと言えば、首しか見なくなる。体も、と言えば、今度は腕を動かせなくなる。
あれから、五人の子を抱いた。
さすがに、今は赤子を抱いて固まることもない。
けれど、長男が初めて迎える日は、やはり初めてだった。
「今日は、抱かなくていいでしょう」
「さすがに嫌がるだろうな」
「私も止めます」
直成さんが笑った。
ちよは、その笑顔を見てから朝の支度へ向かった。
*
太郎は、庭にいた。
家人が運ぼうとしていた物を、自分で持ち上げている。
「太郎」
ちよが呼ぶと、息子は振り返った。
「何ですか」
「今日は、その衣を汚さないでください」
「あちらへ運ぶだけです」
「それは、こちらでいたします」
家人が手を伸ばした。
太郎は一度、荷と相手の顔を見比べた。ようやく手を離す。
そこへ、ふみが来た。
幼いころから家を行き来している、二階堂一族の遠い親族の娘だった。ちよには、今日も見慣れた顔である。
ただ、ふみは太郎を見ると、足を止めた。
「何か持とうとしていたでしょう」
「もう置いた」
「今日は、置いている方が仕事です」
太郎が困った顔をした。
ちよは笑いそうになって、手元の衣を整えた。
ふみは挨拶を済ませると、こちらへ来た。
「何かお手伝いすることはありますか」
「あります。太郎が仕事を拾わないように見ていてください」
「それなら、さっきからしています」
「母上」
太郎の声が、後ろからした。
二人で振り返ると、息子は何も持たずに立っていた。
「よろしいです」
ちよが言う。
「何もしていません」
「今日は、それでよいの」
*
北条義時が来ると、家の中が少し静かになった。
今日は、太郎の烏帽子親を務めてもらう。
元服は、子どもから大人へ移る節目の儀式である。髪や衣を改め、烏帽子というかぶり物を着ける。その際に仮の親となるのが、烏帽子親だった。
家へ何度も来ていた義時が、その役を引き受けた。
ちよは、挨拶をする太郎の背中を見た。
肩に力が入っている。
小さなころ、義時の膝の近くへ座り、父たちの話を聞いていた息子だった。今は、正面から礼をしている。
「そんなに固くならなくてもよい」
義時が言った。
「はい」
返事をしても、背中は固いままだった。
次郎が後ろで小さく笑った。
まつに肘でつつかれ、すぐに黙る。
三郎は、いつもより近くから兄を見ようとしていた。あやはその隣で、烏帽子ばかり見ている。
「触ってはいけませんよ」
ちよが小声で言うと、あやは顔を上げた。
「まだ触ってない」
「まだ、と思ったから言ったの」
あやは両手を膝へ戻した。
その向こうで、直成さんがこちらを見た。
口元が少し動いていた。
*
儀式の間、太郎は静かだった。
ふだんは、誰かが動けば自分も動く。物が落ちれば拾い、呼ばれれば立ち、困った声がすれば振り返る。
今日は、自分のために人が動いている。
ちよには、それに耐えているようにも見えた。
義時の手で烏帽子を着けてもらうと、息子の顔が変わった。
顔立ちは、朝と同じだった。
けれど、幼いころから見てきた額や頬の上に、大人の姿が整っている。
名は、宗直となった。
直成さんが前から考えていた名だった。
「宗直」
義時が呼ぶ。
「はい」
息子はすぐに答えた。
ちよは、膝の上の指を重ねた。
太郎と呼ばれて振り返った子が、新しい名で返事をしている。
義時は、その顔をしばらく見た。
「困ったときには、父にも私にも話せ」
「はい」
「分からぬことを、そのまま引き受けるなよ」
宗直が少し顔を上げた。
直成さんが横から言う。
「それは、よく聞いておきなさい」
「父上もです」
宗直が答えた。
一瞬、部屋が静かになった。
義時が先に笑った。
「もう言うようになったな」
直成さんは息子を見て、それからうなずいた。
「そうだな。僕も気をつけよう」
ちよは、こらえていた息をゆっくり吐いた。
息子は、父の言葉を聞くだけの子ではなくなっていた。
*
儀式が終わったあと、義時が直成さんのそばへ来た。
ちよは少し離れたところで、客に出す湯を用意していた。
「立派になられましたな」
義時が宗直を見て言った。
「まだまだですよ。何でも自分で引き受けようとしますから」
「父親に似たのでしょう」
「それは困りましたね」
義時が笑った。
直成さんも笑ったが、少しして表情を改めた。
「義時殿。本日は、ありがとうございました」
「何を今さら」
「宗直のことを、これからもよろしくお願いいたします」
義時は、直成さんを見た。
「無論です。烏帽子親を引き受けたのですから」
少し間を置いて、義時が続けた。
「直成殿。先日の話については、私の考えは変わりません」
「承知しております」
ちよは、湯を注ぐ手を止めかけた。
先日の話。
頼家の死について、直成さんがもう少し調べたいと申し出たことだろう。
義時は、それを認めなかった。
「それでも、また申されるのでしょうな」
義時が言った。
直成さんは、少し笑った。
「お聞きいただけるのでしたら」
義時は苦笑した。
「聞くことと、従うことは別ですぞ」
「存じております」
「私にも、守らねばならぬものがあります」
「僕にもあります」
二人は顔を見合わせた。
義時は少し黙ってから、宗直の方を見た。
「今日のような日は、よいものですな」
「ええ」
「この子らが大人になったときにも、鎌倉があるようにせねば」
「そう思っております」
直成さんは頷いた。
義時も、静かに頷き返した。
ちよは湯を運びながら、その様子を見ていた。
頼家の死をめぐって、二人の考えが違うことは知っている。
それでも義時は、今日、宗直の烏帽子親を務めてくれた。
夫もまた、義時を信頼している。
そのことに、少し安心した。
けれど、義時が帰ったあとも、ちよの胸には不安が残った。
今は、二人とも笑っている。
しかし、北条家の中にも、さまざまな考えを持つ人がいる。
義時と話し合えるからといって、北条家の誰もが直成さんの異論を受け入れてくれるとは限らない。
頼家は、将軍だった。
その頼家でさえ、伊豆へ移され、命を失った。
まして直成さんは、将軍でも北条家の一門でもない。
もし、夫が北条家にとって都合の悪いことを調べ続けたら。
もし、誰かが夫を邪魔だと考えたら。
人知れず命を奪われることも、あるのではないか。
ちよは、膝の上で手を握りしめた。
怖かった。
直成さんがある日、仕事へ出たまま帰ってこなくなることが。
そして、直成さんに何かあれば、宗直も無事では済まないかもしれない。
今日、烏帽子親となった義時との結びつきは、二階堂家にとって大きな支えになる。
けれど、北条家の争いに巻き込まれれば、その結びつきが家族を危うくすることもある。
太郎も、次郎も、まつも、三郎も、あやも。
まだ幼い子どもたちがいる。
ちよは、その誰も失いたくなかった。
そして、何よりも。
夫を失いたくなかった。
直成さんは、人の話を聞く人だった。
相手の立場を考え、何とか皆が納得できる道を探そうとする。
けれど、一度大切だと思ったことは、簡単には諦めない。
その誠実さを、ちよは愛していた。
だからこそ、その誠実さが夫の命を危うくするかもしれないことが、たまらなく怖かった。
ちよが顔を上げると、直成さんは宗直と話していた。
息子の肩に手を置き、何かを言って笑っている。
今朝、眠れなかったと言っていた夫だった。
長男の元服が嬉しくて、誰よりも早く起きてしまった人だった。
ちよは、その笑顔を見つめた。
こんな日を、これからも一緒に迎えたい。
次郎の元服も、三郎の元服も。
まつやあやが嫁ぐ日も。
孫が生まれたら、今朝のように眠れなかったと言って、二人で笑いたかった。
だから、どうか。
直成さんがこれからも毎日、この家へ帰ってきますように。
ちよは、胸の内でそう願った。
*
家はいつもの騒がしさを取り戻した。
「宗直兄上」
まつが、少し改まって呼んだ。
宗直が振り返る。
まつは満足そうにうなずいた。
「ちゃんと振り返った」
「呼んだのだから、振り返るだろう」
「慣れたのかと思って」
「今、慣れようとしている」
次郎が口を挟む。
「俺は太郎兄上でいいか」
「いい」
「では、私も」
三郎が言った。
あやも、すぐに続いた。
「私も」
宗直は三人を見た。
「何のために確かめたんだ」
ちよが笑うと、直成さんも笑った。
ふみだけは、少し離れたところから宗直を見ていた。
目が合うと、ふみは顔を下げた。
ちよは、その前に盆を持った。
何か運ぶものがあれば、そちらへ目を向けていられる。
*
客の帰ったあと、宗直はまた仕事を探し始めた。
片づける物を持とうとする。
今度は、ふみが先に手を置いた。
「こちらは、私が」
「重いだろう」
「二人で持てばいいでしょう」
宗直は、盆の反対側を持った。
ちよは廊下の端で、それを見ていた。
二人が歩き出す。
宗直の方が速い。
「待って」
ふみが言った。
「何だ」
「私も持っています」
「ああ」
歩く速さが、少し落ちた。
ちよは、その小さな変化を見届けた。
盆を置いて戻ってくると、直成さんが宗直を呼んだ。
「少し、座りなさい」
ふみが下がろうとしたので、ちよはそばへ招いた。
「ふみも。聞いていてください」
宗直が父を見る。
ふみは膝をそろえて座った。
直成さんは、二人の顔を順に見た。
「ふみとの縁談は、家の間でも話している。だが、暮らすのはお前たちだ」
宗直の手が、膝の上で止まった。
「お前の返事を、僕たちはまだ聞いていない」
ちよは息子を見た。
小さなころから、ふみが来れば一緒に遊び、帰ればまた次の日に会うつもりでいた。
その相手と、これからも暮らす。
いつものことに近いようで、同じではない。
宗直は、ふみへ顔を向けた。
「私は、ふみと夫婦になりたいです」
声は、ちよが思っていたよりはっきりしていた。
ふみが顔を上げる。
「どうして?」
宗直が止まった。
直成さんも、少し止まった。
ちよは、ふみの方を見た。
ふみは真面目だった。
「家で話が進んでいるから?」
「それだけではない」
「では?」
宗直は少し考えた。
「一緒にいると、話しやすい」
ふみは黙って聞いた。
「帰ってきたときに、いてほしいと思う」
ちよは、手元へ目を落とした。
ふみの返事が、少し遅れた。
「……それなら、先に言ってください」
「今、言った」
「今まで、言っていません」
「そうだな」
宗直が認めた。
ふみは一度、ちよを見た。
それから、宗直へ向き直る。
「私も、あなたと夫婦になりたいです」
宗直の肩から、力が抜けた。
ちよにも、それが見えた。
直成さんは口を開きかけて、閉じた。
ふみが言い添えたからだった。
「ただし、帰ると言った日は、帰ってきてください」
「まだ、そんなことは」
「今日も、何度か仕事を拾おうとしていました」
宗直は、もう言い返さなかった。
直成さんが小さく笑った。
ちよは夫を見る。
「あなたもです」
「僕にも来たか」
*
夜、家の中が静かになってから、直成さんが言った。
「宗直か」
ちよは、片づけた衣を重ねた。
「まだ、呼び慣れませんね」
「僕もだ」
「明日の朝は、太郎と呼びそうです」
「それでいいだろう」
直成さんは少し笑った。
「名が変わっても、息子だ」
ちよはうなずいた。
今日、宗直は新しい名で返事をした。
ふみと夫婦になりたいとも言った。
その一方で、荷を持とうとして止められ、兄と呼ばれて弟妹にからかわれた。
変わったところと、変わらないところが、一日の中にあった。
「直成さん」
「何だい」
「ふみと二人で盆を運んでいました」
「そうか」
「歩く速さを落としていましたよ」
直成さんがこちらを向いた。
ちよは、その顔へ笑いかけた。
「二人で持っていると、気づいたから」
直成さんは少し黙り、それからうなずいた。
「……僕たちも、そうだったかな」
「何がですか」
「一緒に暮らし始めたころ、僕は自分の速さで歩いてばかりいた気がする」
ちよは、少し考えた。
「今でも、時々そうですよ」
「そうか」
直成さんが困ったように笑った。
ちよも笑った。
けれど、昼間のことが頭から離れなかった。
義時と話していた夫。
互いに笑いながらも、考えを譲らなかった二人。
「直成さん」
「うん?」
「今日、義時殿とお話しになっているところを見ていました」
直成さんは、ちよを見た。
「そうでしたか」
「お二人は、これからも一緒にお仕事をなさるのでしょうね」
「ええ。そのつもりです」
「……北条の方々と、お争いになることはありませんか」
直成さんは、すぐには答えなかった。
ちよは、夫の顔を見つめた。
「私は、怖いのです」
「ちよさん」
「義時殿のことを疑っているわけではありません。今日も宗直のために、ありがたいことをしてくださいました」
「ええ」
「でも、頼家様のことがありましたから」
直成さんは黙って聞いていた。
「政治の争いは、いつ誰の命を奪うか分かりません。直成さんに何かあったらと思うと……」
ちよは、そこで言葉を止めた。
直成さんがそっと手を伸ばした。
「ちよさん」
「はい」
「心配をかけていますね」
「……ええ」
ちよは、その手を握った。
「私は、直成さんが好きなのです」
直成さんが少し驚いた顔をした。
「……はい」
「だから、一緒に暮らしていたいのです。宗直が大人になる日を、今日のように二人で喜びたいのです」
直成さんは、ちよの手を握り返した。
「僕もです」
「本当に?」
「もちろん」
夫は少し笑った。
「今日だって、ちよさんが隣にいてくれたから、あんなに嬉しかったのだと思います」
ちよは顔を上げた。
「そういうことを、急におっしゃるのですね」
「急でしたか」
「ええ」
「……では、次からは先に知らせます」
ちよは思わず笑った。
「それでは、少し違います」
直成さんも笑った。
ちよは、その笑顔を見ていた。
何度も見てきた顔だった。
けれど、見るたびに嬉しくなる。
夫婦になってから、ずいぶん年月がたった。
五人の子どもにも恵まれた。
それでも、ちよは、直成さんと二人でいる時間が好きだった。
「直成さん」
「はい」
「どうか、無理をなさらないでください」
「……気をつけます」
「義時殿とお考えが違っても、どうか話し合ってください」
直成さんは頷いた。
「そのつもりです」
「私にも、お話しくださいね」
「はい。約束します」
ちよは、少しだけ夫の肩に寄りかかった。
直成さんは何も言わず、そのままでいてくれた。
外で戸が鳴った。
ちよが立とうとすると、廊下から息子の声がした。
「閉めておきます」
直成さんが声を返す。
「ありがとう、宗直」
少し間があった。
「はい」
今度の返事は、昼より少し照れたように聞こえた。
ちよは座り直した。
夫と二人で、息子が戸を閉める音を聞いていた。
新しい名をもらった息子。
その息子の将来を、今日、義時に託した。
北条家との結びつきが、この先、二階堂家をどこへ導くのか。
まだ、誰にも分からなかった。
ただ、ちよは願った。
宗直にも、ふみにも、ほかの子どもたちにも、今日のような幸せな日が何度も訪れますように。
そして、そのたびに、隣に直成さんがいてくれますように。
ちよは、夫の手をそっと握った。
直成さんも、握り返してくれた。
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## 【本話の人物・言葉について】
**北条義時**
源頼朝の政治を支え、頼朝の死後も鎌倉の運営に関わった武士。北条時政の子で、北条政子の弟。本作では直成の同志として描く。
**元服・烏帽子親**
元服は、男子が大人の仲間入りをする儀式。烏帽子親は、その際に仮の親となる人物。元服後も、烏帽子親と烏帽子子として結びつきを持った。




