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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第七部 実朝の最期と、続いていく暮らし ――建保七年(1219年)〜承久元年(1219年)
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幕間34 夫は、教え子の死を受け入れられない

元久元年(1204年)、鎌倉。


実朝が亡くなる、十五年前のことだった。


その朝、二階堂家では、三郎が兄に怒られていた。


「だから、勝手に持っていくなと言っただろう」


太郎が、机の上を指さしている。


「借りただけだよ」


「借りるなら、ひと言言え」


「言おうと思ったんだ」


「いつ」


「返すとき」


「それは借りる前ではない!」


ちよは、台所から顔を出した。


「今度は何ですか」


「母上、三郎が私の筆を持っていきました」


「一本だけだよ」


「三本あったものが二本になっている!」


「兄上は数が数えられるんだね」


太郎が口を開けた。


言い返す言葉が見つからなかったらしい。


横から、まつが言った。


「三郎。兄上をからかっていないで返しなさい」


「姉上まで」


「それに、筆の先が割れているわ」


「それは、兄上が前から使っていたからだよ」


「三郎!」


今度は太郎の声が大きくなった。


ちよは、ため息をついた。


五人も子どもがいれば、朝から静かな日など、まずない。


あやはまだ幼く、何が起きているのか分からないまま、三郎の後ろで楽しそうに笑っていた。


「三郎、兄上に返しなさい」


「はい」


「太郎も、そんなに怒らない」


「母上、これは仕事の筆です」


「でしたら、子どもの手の届かないところに置いてください」


「はい」


太郎は、ようやく黙った。


ちよが振り返ると、直成さんが廊下に立っていた。


いつから見ていたのだろう。


笑っている。


「あなた。見ていたのなら、止めてください」


「いや。太郎も父親になると、こういう苦労をするのだろうと思って」


「まだ先の話でしょう」


「そうだった」


直成さんは、ますます笑った。


「太郎。筆を取られたくらいで怒っていると、子どもが大きくなったとき大変だぞ」


「父上の筆を三郎が取っても、同じことをおっしゃいますか」


「もちろんだ」


「では、今度は父上の筆を借りることにします」


「それは困る」


「父上!」


家族が笑った。


ちよも笑った。


そのときは、まだ、いつもの朝だった。


***


昼過ぎ、直成さんのもとへ知らせが届いた。


伊豆の修禅寺にいた源頼家が亡くなったという。


ちよがその話を聞いたのは、直成さんが使いの者を帰したあとだった。


夫は、縁側に座っていた。


庭を見ている。


けれど、何を見ているのか分からなかった。


「直成さん」


呼んでも、すぐには返事がなかった。


「……頼家様が、亡くなられたそうです」


「はい」


ちよは、隣に座った。


頼家は、源頼朝の嫡男だった。


父の死後、鎌倉殿となったものの、御家人たちとの対立が深まり、前年には将軍の地位を失っていた。


そして伊豆の修禅寺へ移されていた。


まだ若かった。


「病でしょうか」


ちよが尋ねると、直成さんは首を横に振った。


「分かりません」


しばらくして、続けた。


「ただ、あの状況で亡くなったのなら、何があったのか確かめなければなりません」


声は静かだった。


その静かさが、ちよには気になった。


「直成さんは、頼家様をご存じだったのですよね」


「ええ」


「頼朝様のころから」


直成さんは、膝の上で手を組んだ。


「小さいころから知っています」


そして、少し笑った。


「よく質問をする子でした」


「そうなのですか」


「ええ。こちらが一つ答えると、次を聞いてくる」


ちよは、思わず家の中を見た。


「三郎のようですね」


「三郎より、もう少し負けず嫌いでした」


「それは大変です」


直成さんは、ようやくちよを見た。


ほんの少しだけ、表情が和らいだ。


「負けたくないのですよ。何でも」


「父上が頼朝様では、比べられることも多かったでしょうね」


「そうでしょう」


直成さんは、また庭へ目を戻した。


「僕は、あの子に教えたことがあります」


ちよは黙って聞いた。


「人をまとめるときには、まず相手の話を聞くこと。何を守りたいのか、何を恐れているのか、確かめること」


「直成さんが、いつも子どもたちにおっしゃることですね」


「ええ」


直成さんは、うつむいた。


「けれど、あの子には、うまく伝わらなかった」


「……」


「頼家様は、父上のようになりたかったのだと思います。早く認められたかったのでしょう」


ちよは、頼朝の死後の直成さんを思い出した。


あのとき夫は、長いあいだ悲しんでいた。


頼朝は、直成さんにとって特別な人だった。


今度亡くなったのは、その息子だった。


しかも、直成さんが教えたことのある若者だった。


「もっと話を聞いてやればよかった」


直成さんが言った。


「もっと早く、何かできたのではないか」


ちよは、すぐには答えなかった。


やがて、夫の手に自分の手を重ねた。


「直成さん」


「はい」


「教えたことが、すべてそのとおりになるのなら」


ちよは、家の中を見た。


「うちの三郎は、今ごろ太郎の筆を勝手に持ち出したりしていません」


直成さんが、顔を上げた。


「そうですね」


「子どもは、教えられたことを聞くときもあれば、聞かないときもあります」


「ええ」


「それでも、教えるのをやめるわけにはいきませんね」


直成さんは、しばらく黙っていた。


「ちよさんは、時々、僕よりずっと厳しいことを言います」


「そうでしょうか」


「ええ」


「では、三郎に筆を返させるのは、これから直成さんのお役目にしましょう」


「それは別の話です」


「同じ話です」


直成さんは、小さく笑った。


けれど、笑顔は長く続かなかった。


***


数日後。


頼家の死について、さまざまな話が鎌倉へ伝わってきた。


修禅寺で殺されたという話もあった。


誰が命じたのか。


どこまでの者が知っていたのか。


確かなことは、まだ分からなかった。


直成さんは、聞いた話を一つずつ書き留めていた。


ちよが部屋へ入ると、机の上には紙が並んでいた。


「お休みにならないのですか」


「もう少し」


「昨夜もそうおっしゃいました」


「そうでしたか」


直成さんは筆を置いた。


「直成さん」


「はい」


「北条の方々とは、お話しになりましたか」


「義時殿とは話しました」


「どのようなお話を?」


直成さんは、机の上の書付を見た。


「頼家様のことを、もう少し確かめたいと申し上げました」


「義時殿は?」


「今は、そのために人を動かせないと」


「お断りになったのですね」


「ええ」


直成さんは小さく頷いた。


「鎌倉には、今すぐ決めなければならないことがある。頼家様のことを調べるために人を動かせば、かえって争いを招くかもしれない、と」


ちよにも、義時の心配は分かった。


頼家を支持する者も、北条を支持する者もいる。


一つの家が争いを始めれば、ほかの家まで巻き込まれるかもしれない。


「それは、直成さんも心配なさっていることでしょう」


「ええ。義時殿のお考えも分かります」


「ですが、納得はなさっていない」


直成さんは、少し困ったように笑った。


「ちよさんには、隠せませんね」


「長く一緒に暮らしておりますから」


ちよは夫の隣に座った。


「直成さん」


「はい」


「このままでは、北条の方々とお争いになるのではありませんか」


直成さんは顔を上げた。


「義時殿とは、長くお仕事をご一緒になさっています。けれど、今度のことは、いつものお仕事とは違うのでしょう」


「そうですね」


「北条の方々にも、それぞれのお立場があります。直成さんが頼家様のことを確かめようとなされば、快く思わない方もいらっしゃるのではありませんか」


直成さんは、しばらく考えていた。


「その心配はあります」


ちよは膝の上で手を重ねた。


夫が頼家を大切に思っていたことは、よく知っている。


教え子を失い、何があったのかも分からないままにしておくことが、どれほどつらいか。


だから、調べることをやめてほしいとは思わなかった。


けれど、夫が北条家と対立すれば、役目や所領を失うだけでは済まないかもしれない。


命を狙われることさえ、あるかもしれなかった。


そのことを考えると、胸が苦しくなった。


「直成さん」


「はい」


「私は、直成さんが心配なのです」


直成さんは、ちよを見た。


「家のことも、子どもたちのことも心配です。けれど……」


ちよは、一度言葉を止めた。


夫の前では、きちんと話しておきたかった。


「私は、直成さんに、無事に帰ってきていただきたいのです」


直成さんは何も言わなかった。


「頼家様のことをお調べになるのも、義時殿に異論をおっしゃるのも、直成さんがよくお考えになってのことでしょう」


「はい」


「でも、私は、そのたびに、直成さんが帰ってこられなくなるのではないかと心配になります」


直成さんは、ゆっくりと筆を置いた。


ちよは続けた。


「私は、直成さんと一緒に暮らしていたいのです」


言ってから、少し恥ずかしくなった。


長く夫婦として暮らし、五人の子どもにも恵まれた。


今さら、こんなことを言うのもおかしいかもしれない。


けれど、夫を失うかもしれないと思うと、黙ってはいられなかった。


直成さんは、ちよの手を取った。


「ちよさん」


「はい」


「僕も、ちよさんと一緒に暮らしていたいです」


ちよは顔を上げた。


直成さんは、まっすぐにこちらを見ていた。


「ちよさんと子どもたちのいる家へ、毎日帰ってきたい。それは、僕も同じです」


「……でしたら」


「ええ。忘れません」


直成さんは、ちよの手を握ったまま続けた。


「ですが、頼家様のことも、諦めたくはないのです」


ちよは、小さく頷いた。


分かっていた。


夫がそう答えることも。


「義時殿は、鎌倉を守ろうとしています。僕も同じです」


「はい」


「ですが、守るために何をしてもよいとは、僕は思いません」


直成さんは、机の上の書付へ目を向けた。


「頼朝様が残した鎌倉を守るために、頼朝様の息子を失った。それでよかったとは、僕には言えません」


ちよは黙って聞いていた。


「義時殿には、これからも違うと思ったことを申し上げるつもりです」


「義時殿がお怒りになっても?」


直成さんは、少し困った顔をした。


「……できれば、怒らせたくありませんね」


ちよは思わず笑った。


「でしたら、もう少しお言い方をお考えになってください」


「気をつけます」


「本当に?」


「努力します」


その答えが、いかにも夫らしかった。


ちよは、ため息をついた。


人の話を聞き、相手の立場を考える。


それでも、譲れないことがあれば、黙ってはいられない。


ちよが好きになったのは、そういう人だった。


夫の優しさも、少し頑固なところも、不器用なほど真面目なところも、長い年月の中でますます愛おしくなっていた。


だからこそ、失うのが怖かった。


「直成さん」


「はい」


「どうか、お一人で抱え込まないでください」


「はい」


「私にも、お話しください」


直成さんは、少し笑った。


「ちよさんには、いつも聞いていただいていますね」


「これからも、聞きます」


「ありがとうございます」


ちよは夫の肩に、そっと寄りかかった。


直成さんが驚いたようにこちらを見る。


「……どうしました?」


「少し、このままでいさせてください」


「ええ。もちろん」


夫の手が、ちよの手を包んだ。


北条家との関係が、この先どうなるのか。


ちよには分からなかった。


けれど、今は夫が隣にいる。


その温かさを、もう少し感じていたかった。


***


その日の夕方。


直成さんが部屋から出てくると、三郎が廊下で待っていた。


「父上」


「何だ」


「兄上の筆を返しました」


「そうか。偉いな」


「でも、兄上が怒っています」


「なぜ」


「筆の先が割れていたから」


直成さんは、息子を見た。


「それは、お前が悪いのではないか」


「でも、父上」


「何だ」


「兄上の筆は、最初から少し割れていたんだ」


「……そうなのか」


「だから、どこまでが僕のせいか分からない」


直成さんは、黙った。


ちよは、後ろで笑いをこらえた。


三郎は、真剣だった。


「父上は、分からないことは確かめろって言ったでしょう」


「言った」


「だから、兄上に確かめてほしい」


直成さんは、額に手を当てた。


「三郎」


「はい」


「お前は、僕の教えを都合よく使うのが上手だな」


「父上に似たんだよ」


今度こそ、ちよは笑ってしまった。


直成さんも、困ったように笑った。


「よし。では、太郎を呼んできなさい」


「父上が調べてくれるの?」


「三人で話を聞こう」


「分かった!」


三郎は、嬉しそうに走っていった。


直成さんは、その背中を見送った。


「子どもを教えるというのは、難しいものですね」


ちよは、隣で笑った。


「今ごろお気づきですか」


「毎日、新しく気づきます」


庭の向こうでは、次郎が何かを直していた。


まつが、あやの手を引いて歩いている。


太郎の声が聞こえた。


「三郎! 今度は何だ!」


「父上が、三人で話を聞こうって!」


「父上まで!」


いつもの二階堂家だった。


直成さんは、しばらくその光景を見ていた。


やがて、小さな声で言った。


「頼家様にも、もう一度、話を聞いてやりたかった」


ちよは、何も言わなかった。


ただ、夫の隣に立っていた。


頼家は、もう戻らない。


その事実を変えることはできない。


けれど、直成さんには、まだ守らなければならない人たちがいた。


ちよは、庭で遊ぶ子どもたちを見た。


直成さんが大切にしているものは、鎌倉だけではない。


この家にもある。


そして、ちよにとっても。


この家と、そこへ帰ってくる夫が、何より大切だった。


***


その夜、子どもたちが寝静まったあと。


直成さんは、ようやく書付を片づけた。


ちよは湯を用意し、夫の隣に座った。


「直成さん」


「はい」


「少し、お聞きしたいことがあります」


「何でしょう」


「実朝様のことです」


直成さんは、ちよを見た。


「実朝様ですか」


「ええ」


ちよは、少し間を置いた。


「以前、直成さんから、実朝様も将来、殺されると伺いましたね」


直成さんの表情が変わった。


「……覚えていましたか」


「ええ。いつのことだったかは、もう覚えておりませんけれど」


直成さんは黙っていた。


「頼家様のことがありましたから、気になったのです」


「そうですか」


「直成さんは、実朝様をお救いしたいとお考えなのでしょう」


直成さんは、ゆっくり頷いた。


「ええ」


「頼家様のようには、したくないのですね」


「はい」


直成さんは、しばらく黙っていた。


「頼家様のことは、以前から知っていました。僕のいた時代の歴史に、亡くなったことが残っていましたから」


ちよは、夫の顔を見た。


「それで、何とかしようとなさった」


「ええ」


「でも、救えなかった」


直成さんは頷いた。


「……そうです」


ちよは、それ以上、頼家のことを尋ねなかった。


夫がどれほど後悔しているかは、ここ数日の様子を見れば分かった。


「実朝様は、どのように亡くなられるのですか」


「鶴岡八幡宮で殺されます」


ちよは、少し驚いた。


「八幡宮で?」


「ええ。参拝を終えたところを襲われます」


ちよは、しばらく黙っていた。


鎌倉の人々が祈りを捧げる場所だった。


将軍がそこで殺されるなど、誰が考えるだろう。


「お救いする方法は、あるのでしょうか」


直成さんは、すぐには答えなかった。


「……考えています」


「何か、できそうですか」


「まだ分かりません」


直成さんは、湯呑みを見つめた。


「僕が知っているのは、後の時代に伝わった歴史です。事件が起きるまでの事情を、すべて知っているわけではありません」


「そうでしたね」


「それに、僕がここにいることで、何かが変わっているのかもしれません」


ちよは頷いた。


直成さんは、未来の出来事を知っている。


けれど、未来を自由に変えられるわけではない。


頼家の死が、そのことを示していた。


「直成さん」


「はい」


「一つ、お尋ねしてもよろしいですか」


「何でしょう」


「実朝様をお救いするために、北条の方々と争わなければならなくなったら、どうなさいますか」


直成さんは、ちよを見た。


「……難しいことを聞きますね」


「ええ」


ちよは、静かに答えた。


「ですが、考えておかなければならないことだと思います」


直成さんは、しばらく黙っていた。


「義時殿も、実朝様を守りたいと思っているはずです」


「そうでしょうね」


「ですから、まずは話し合うつもりです」


ちよは頷いた。


「それでも、お考えが違ったら?」


直成さんは、少し考えた。


「……できる限り、両方を守る道を探します」


ちよは、その答えを聞いて、夫らしいと思った。


直成さんは、すぐに誰かを切り捨てることができない。


頼家のことも、そうだったのだろう。


実朝についても、諦めずに方法を探すつもりなのだ。


ちよは、そんな夫を大切に思っていた。


けれど、ちよには別の心配があった。


昼間、夫が話した義時との意見の違いが、頭から離れなかった。


今はまだ、二人はともに鎌倉を守ろうとしている。


しかし、これから先も、そうしていられるのだろうか。


「直成さん」


「はい」


「実朝様をお救いしたいというお気持ちは、私にも分かります」


「ええ」


「私も、あの方には生きていていただきたいと思っています」


直成さんは頷いた。


ちよは続けた。


「ただ、実朝様をお救いするために、二階堂家まで争いに巻き込まれることになったら、どうなさいますか」


直成さんは、黙った。


「太郎も、次郎も、まつも、三郎も、あやもおります」


「ええ」


「家に仕える者たちもいます」


「分かっています」


ちよは、夫の顔を見た。


「私には、その人たちも大切なのです」


直成さんは、しばらく考えていた。


「もちろん、僕も同じです」


「ええ。存じています」


ちよは穏やかに答えた。


「ですが、直成さんのことも、同じように大切なのです」


直成さんが、ちよを見た。


「昼間も申し上げましたけれど、私は直成さんを失いたくありません」


「はい」


「子どもたちが大きくなる姿を、これからも一緒に見ていたいのです」


ちよは、少し笑った。


「太郎が父親になったら、今朝のお話を思い出して、一緒に笑いたいですし」


直成さんも、小さく笑った。


「そうですね」


「三郎が大きくなっても、きっと困らされるでしょうね」


「それは、間違いなさそうです」


二人は笑った。


ちよは、その笑顔を見つめた。


こんな時間を、これからも重ねていきたかった。


「直成さん」


「はい」


「実朝様のことをお考えになるとき、どうか、この家のことも忘れないでください」


直成さんは、ちよの手を取った。


「忘れることはありません」


「それなら、よいのです」


ちよは、静かに頷いた。


それ以上、夫を問い詰めるつもりはなかった。


***


直成さんが実朝を救いたいと思う気持ちは、ちよにも分かっていた。


頼家を救えなかった。


今度こそ、何とかしたい。


そう考えるのは、直成さんにとって自然なことだった。


ちよも、実朝には生きていてほしかった。


頼朝の二人の息子が、相次いで命を失うなど、あまりに悲しい。


実朝が殺されることを知っていながら、何もしないでいるのはつらいだろう。


けれど、ちよには五人の子どもがいる。


太郎にも、次郎にも、まつにも、三郎にも、あやにも、それぞれの人生がある。


この家に仕える人々にも、守るべき暮らしがある。


実朝を救おうとして北条家と争えば、その人たちまで危うくなるかもしれない。


そして、直成さん自身も。


ちよは、夫の顔を見た。


頼家を救えなかったことを、今も悔やんでいる人。


義時と意見が違っても、自分が正しいと思うことを諦められない人。


そんな夫を、ちよは愛していた。


だから、夫が苦しむ姿を見るのもつらかった。


まして、命を失うことなど考えたくもなかった。


直成さんは、まだ救えるかもしれない命を見ている。


ちよは、そのために失うかもしれない命も見ていた。


夫と同じものを大切に思っていても、同じ順番で守れるとは限らない。


ちよは、そのことを分かっていた。


そして、直成さんもまた、簡単に考えを変える人ではなかった。


「直成さん」


「はい」


「私は、直成さんが実朝様をお救いしようとなさることを、止めたいわけではありません」


直成さんは、ちよを見た。


「ええ」


「ただ、お一人で決めないでください」


ちよは、夫の手に自分の手を重ねた。


「私にも、相談してください」


直成さんは、ゆっくり頷いた。


「約束します」


ちよは、少しだけ微笑んだ。


「ありがとうございます」


***


しばらくして、直成さんが言った。


「ちよさん」


「はい」


「僕は、未来を知っているつもりでいました」


ちよは黙って聞いた。


「頼朝様が亡くなることも、頼家様が亡くなることも、知っていました」


「ええ」


「それなのに、何もできなかった」


直成さんは、うつむいた。


「知っていることと、変えられることは、違うのですね」


ちよは、夫の横顔を見た。


「そうかもしれません」


「……情けない話です」


「私は、そうは思いません」


直成さんが顔を上げた。


ちよは、静かに続けた。


「直成さんが頼家様を大切に思っていらしたことは、頼家様にも伝わっていたのではありませんか」


「……どうでしょう」


「それは、私にも分かりません」


ちよは、少し間を置いた。


「でも、教えたことがすぐに役立たなくても、いつか誰かの中に残ることはあると思います」


直成さんは、ちよを見た。


「誰かの中に、ですか」


「ええ」


ちよは、家の奥へ目を向けた。


「太郎も、次郎も、まつも、三郎も、あやも。今は父上のお話を十分に理解できなくても、大きくなってから思い出すことがあるでしょう」


直成さんは、しばらく黙っていた。


「……そうだとよいですね」


「ええ」


ちよは微笑んだ。


「私は、そう思っています」


直成さんは、ようやく少し笑った。


***


夜も更けてきた。


ちよは、夫に休むよう勧めた。


直成さんは書付を片づけ、灯火を消した。


横になると、夫はしばらく黙っていた。


ちよも、何も言わなかった。


やがて、直成さんが小さな声で言った。


「ちよさん」


「はい」


「実朝様のことは、まだ諦めていません」


ちよは、目を開けた。


「ええ」


「何か、できることがあるはずです」


ちよは、夫の手を探した。


直成さんが、その手を握った。


「直成さん」


「はい」


「どうか、無理だけはなさらないでください」


「はい」


ちよは、それ以上言わなかった。


夫が実朝を救えなかったとしても、夫まで失うわけにはいかない。


直成さんは、やがて眠りについた。


ちよは、しばらく目を閉じずにいた。


実朝がいつ殺されるのか。


夫から聞いたことはあったが、年までは覚えていなかった。


ただ、鶴岡八幡宮で命を失うという話だけは、忘れられなかった。


ちよは、隣で眠る夫の顔を見た。


頼家の死を悲しみ、実朝の未来を案じている人。


自分が選んだ夫だった。


その優しさも、諦めの悪さも、ちよはよく知っていた。


だからこそ、守りたいと思った。


直成さんと出会い、夫婦になり、子どもたちが生まれた。


賑やかな毎日を過ごすうちに、いつの間にか、夫が隣にいることが当たり前になっていた。


けれど、本当は当たり前のことなど一つもないのかもしれない。


頼朝も、頼家も、もう帰ってこない。


直成さんも、いつか帰ってこなくなるのだろうか。


そう考えた途端、胸が苦しくなった。


ちよは、そっと夫の手を握り直した。


直成さんは眠ったまま、その手を握り返した。


その温かさに、少しだけ安心した。


明日も、この人と一緒に朝を迎えたい。


明後日も、その次の日も。


子どもたちの騒ぐ声を聞きながら、二人で笑っていたい。


ちよが望んでいるのは、そんな毎日だった。


外は静かだった。


家の奥では、五人の子どもたちが眠っている。


明日になれば、また誰かが騒ぎ、誰かが叱られるだろう。


ちよは、その当たり前の朝を思い浮かべた。


そして、夫の手を握ったまま、目を閉じた。


---


## 登場人物紹介


**源頼家(1182〜1204年)**


源頼朝の嫡男で、鎌倉幕府の第二代将軍。父の死後に将軍となったが、御家人たちとの対立や政変を経て、1203年に将軍の地位を失い、伊豆の修禅寺へ移された。翌1204年に死亡した。『吾妻鏡』などには殺害を伝える記述がある。本作では直成の教え子として描いている。


**源実朝(1192〜1219年)**


源頼朝の次男で、鎌倉幕府の第三代将軍。兄の頼家が将軍の地位を失った後、将軍となった。和歌を好み、京都の文化にも関心を持った。1219年、鶴岡八幡宮で暗殺された。本作では直成がその将来を案じる人物として描いている。


**源頼朝(1147〜1199年)**


鎌倉幕府を開いた武将。御家人たちをまとめ、鎌倉を中心とする政治秩序を築いた。直成を見いだし、政治の仕事に関わらせた人物として描いている。


**北条義時(1163〜1224年)**


北条時政の子。頼朝の死後、鎌倉の政治の中心へ進んでいった。本作では直成とともに鎌倉を支える同志として描くが、二人の政治判断が常に一致するわけではない。

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