おばあちゃんの手帳
少し休んだあとは、いつものように夜の準備を始めた。
『こもれび』の看板を外して、『おぼろ月』へ掛け替える。
軒下の灯を点け、暖簾を掛ければ、昼とは違う出汁の匂いが店の中へゆっくりと広がっていく。
明日は、里守同士の話し合いがある。
そう思うと、どうしても二階のことが気になった。
ちゃんと話はまとまるだろうかとか。
どんな人が来るんだろうとか。
けれど、店を開けてしまえば、そんなことばかり考えている暇もない。
その夜の『おぼろ月』は、いつもより少し静かだった。
吹雪のせいか客足は少なかったけれど、それでも何人かが暖簾をくぐる。
温かいものを食べて。
酒を飲んで。
今日あったことを話しながら、時々笑う。
そうして、いつものように帰っていった。
明日、この店の二階で二つの里の今後について話し合われるなんて。
今夜ここへ来た人たちは、もちろん知らない。
私も今は、それでいいと思った。
やがて最後のお客さんを見送り、暖簾を外す。
軒下の灯を消して、『おぼろ月』の看板も片付けた。
店の中へ戻ると、残っていた洗い物を済ませる。
厨房を片付けて、明日の仕込みも軽く確認する。
そうしてようやく、今日の店仕事が、全部終わった。
「終わったー」
「まだ戸締まり」
「分かってる」
おじいちゃんに言われながら、入口の鍵を確認する。
今度こそ、本当に一日の仕事が終わった。
店の灯りを落として住居の方へ戻ると。
「にゃ」
「あ。たび」
廊下の先から、たびが顔を出した。
「……たび?」
頭の上に、うっすら埃が乗っている。
ひげの先にも。
背中にも、どこで付けてきたのか白っぽい埃がまだらについていた。
「今日はずっと何してたの?」
「にゃ」
「いや、その格好で何もしてないは無理あるでしょ」
たびは気にした様子もなく、ピンと尻尾を立てると、そのまま奥へ歩いていく。
「どこ行くの?」
「にゃ」
ついてこい、と言っているように見える。
仕方なく後を追うと。
たびが向かったのは、住居の奥にある物置だった。
「そこ?」
あまり頻繁には使わない場所だ。
季節外れの道具や昔使っていた食器。
空になった箱。
おばあちゃんの物も、まだいくつか残っている。
たびは少しだけ開いていた戸の隙間から、するりと中へ入った。
「たび?」
返事はない。
代わりに。
がさ。
がさがさ。
「何してるの」
嫌な予感しかしない。
灯りを点けて中へ入る。
棚と箱の間から。
キジ柄の尻尾だけが見えていた。
「ちょっと。変なところ入らないでよ」
「にゃ」
次の瞬間。
ごとん。
「わっ」
何かが床へ落ちた。
たびが棚の裏から出てくる。
「もう。何落としたの」
しゃがみ込む。
床に落ちていたのは、一冊の古い手帳だった。
「……これ」
表紙は、少しくすんだ深緑色。
角は擦れて。
紙も少し黄ばんでいる。
拾い上げて開く。
最初のページを見た瞬間。
「あ」
すぐに分かった。
丸みがあるのに、どこか癖の強い字。
おばあちゃんの字だ。




