重なったまじない
入口に吊るした香草の束が、かすかに揺れている。
「あ」
敷居の外。
雪の上に、小さな人影が立っていた。
深い色の外套。
胸元には、葉と月の紋章。
「ユノンくん」
「水森美月殿」
ユノンくんが、いつものように姿勢を正す。
「寒いでしょ。中入って」
「では、失礼いたします」
小さな身体が、敷居をまたぐ。
外套の肩には細かな雪が残っていて。
中へ入った途端、暖かな空気に触れたそれが、少しずつ溶けていく。
ユノンくんは入口の端で靴についた雪を軽く落としてから、もう一度こちらへ向き直った。
「長より、伝言を預かって参りました」
「ユクルさんから?」
「はい」
私はカウンターの奥を見る。
おじいちゃんも、新聞を置いてこちらへ来た。
「先日のお話についてです」
ユノンくんが続ける。
「ユクル様と先方の里守で話し合いをすることが決まりました」
「……決まったんだね」
「はい」
なんだか。
急に胸の奥が少しだけ緊張する。
「場所は?」
おじいちゃんが聞く。
「長はこちらへ伺えれば、と」
「ここ?」
思わず店の中を見回す。
カウンター。
厨房。
「一階じゃ落ち着かんな」
「じゃあ……」
見上げる。
二階。
昼間は、お客さんが珈琲を飲んだり、ケーキを食べたりしている場所。
「二階、使う?」
おじいちゃんも階段を見る。
「そうするか」
「じゃあ片付けとかなきゃ」
「普段から片付いてるだろ」
「そういう問題じゃないの」
「何の問題だ」
ユノンくんが、少しだけ困ったように私たちを見ている。
「あ、ごめん。いつ来るんですか?」
「明日の夜とのことです」
「明日」
もう一度、二階を見る。
「……なんか、緊張してきた」
「まだ早い」
「だって明日だよ」
「今日は今日の店をやれ」
おじいちゃんが言う。
その直後。
からん。
「こんにちはー」
「あ」
今度こそ、人間のお客さんだった。
ユノンくんが、すぐに動く。
戸の脇。
壁際の目立たないところへ、さっと身を寄せた。
こういう時の動きは、やっぱり慣れている。
今の『こもれび』には、いつものまじないがかかっている。
人ならざるものの気配を薄めて。
そこにいても、不自然なものとして強く意識されにくくするためのもの。
だから。
本当なら、それだけでも十分なはずだった。
ユノンくん自身も、ちゃんと目立たない場所へ隠れている。
なのに。
入ってきたお客さんの視線が、ユノンくんの方へ向きそうになった瞬間。
――気づかないで。
そう思った。
ほんの一瞬。
身体の奥で、何かが動く。
さっき砂糖壺へかけた時と同じ感覚。
ユノンくんの周りに薄い何かが、すっと重なった。
「いらっしゃいませ」
私はいつものように笑って、顔を上げる。
お客さんの視線が店の中を通り過ぎる。
カウンター。
厨房。
窓際。
そして。
ユノンくんのいる場所も見た。
はずなのに、そのまま何事もなく、階段へ向かっていく。
「二階、空いてます?」
「はい。どうぞー」
階段を上がっていく背中を見送る。
「……」
今の——?
私は、ユノンくんを見る。
本人も少し不思議そうな顔をしていた。
「美月」
おじいちゃんの声がする。
「なに?」
「今の、分かったか」
「……目逸らし?」
「ああ」
「でも、何もしてないよ」
「してた」
「え」
おじいちゃんが、わずかに眉を寄せる。
「さっきのを、そのまま重ねた」
私は自分の手を見る。
ただ、気づかれたくないと思っただけだ。
「……できてた?」
「できてた」
「じゃあ、やっぱり上達して――」
「調子に乗るな」
「またそれ」
さっきと同じ言葉なのに。
おじいちゃんの顔は。
さっきより少しだけ、真面目だった。
里守同士の話は、明日。
でも今日はまだ、いつもの『こもれび』だ。
それから午後は、何人かのお客さんが来た。
二時を過ぎる頃、最後のお客さんを見送って。
そのあとは、吹雪のせいか誰も来なかった。
三時。
カップを片付けて、カウンターを拭いて。
入口の札を『CLOSED』へ戻す。
今日の『こもれび』は、これで終わり。
外では、朝から続いていた雪も少しだけ弱まっていた。




