意識の外へ
◇
その日の『こもれび』は、朝から静かだった。
窓の外では、雪が横殴りに降っている。
風が吹くたび、積もった雪まで巻き上げられて、向かいの景色が白く霞んだ。
「今日は暇だね」
カウンターの中で、洗ったカップを拭きながら言う。
「この天気じゃな」
おじいちゃんが窓の外を見る。
午前中に来たのは、仕事の途中らしい男性が二人。
珈琲を飲んで。
パンを食べて。
昼を少し過ぎる頃には、また店の中が静かになった。
時計を見る。
「見るな」
「今のは、お客さん来ないかなって見ただけ」
「この前も似たようなこと言ってたな」
「……気になるんだから仕方ないでしょ」
三人がおぼろ月へ来たのは、一昨日だ。
あの夜のあと。
天気を見ながら、カックさんたちは自分たちの里へ戻っていった。
里守へ話をするために。
どうなっただろう。
そんなことを考えていると。
「暇なら、少しやるか」
「なにを?」
「まじない」
おじいちゃんが顎で、入口の方を示した。
「最近、まともに練習してないだろ」
「雪かきの時にも使ったけど」
「あれは練習じゃない。必要だから使っただけだ」
「そういうもの?」
「そういうもんだ」
そこまで言われれば、反論する理由もない。
「何やるの?」
「目逸らし」
「目逸らし?」
「ああ」
「でも、似たようなのなら『こもれび』で毎日やってるよね」
「似てるが、少し違う」
「どう違うの?」
「『こもれび』のまじないは、馴染ませる方だ」
おじいちゃんが入口の方を見る。
「人ならざるものがいても、不自然に思われにくくする。見えなくするわけじゃない」
「ああ……」
「目逸らしは、もっと狭く、深いところへかける」
「隠す方?」
「そうだ。見えなくするんじゃない。見ても、意識に残らないようにする」
「……なるほど」
「それに、『こもれび』のは型が決まってるだろ」
「型?」
「看板があって、香草があって、どこまで効かせるかも決まってる」
毎朝やっている、あのまじない。
店へ来る人ならざるものの気配を少しだけ薄めて、人の中へ馴染ませるもの。
確かに。
使うものも、効かせる場所も、最初から決まっている。
「今日は、それを使わない」
おじいちゃんが、カウンターの端に置いてある白い砂糖壺を指した。
「これだけに、目逸らしをかけろ」
「香草も看板もなし?」
「なし」
「……難しそう」
「だから練習する」
「分かった」
砂糖壺を見る。
白くて。
丸くて。
いつもそこにあるもの。
それを、見えなくするんじゃない。
そこにあっても。
目が滑るように。
意識の端から、少しだけ外れるように。
「……」
指先に力を集める。
ほんの少し。
薄い何かが、砂糖壺の周りに広がったような感覚がした。
「どう?」
「自分で見てみろ」
一度、目を逸らす。
それから、カウンターへ視線を戻した。
「……あ」
砂糖壺は、ちゃんとそこにある。
見えている。
なのに——。
意識して探さなければ、そこに何が置いてあったのか少し曖昧になる。
「これで合ってる?」
「まだだ。気を抜くな」
「うん」
そのまま、しばらく保つ。
一分。
二分。
思っていたより、難しくない。
むしろ。
「……あれ?」
「どうした」
「前より、楽かも」
力を入れている感じがしない。
ただ、ここは見なくていい。
そう思っているだけ。
それなのに。
砂糖壺は、ちゃんと意識の外へ沈んでいる。
おじいちゃんが、少しだけ眉を寄せた。
「美月」
「なに?」
「もういい。解け」
「まだ保てるけど」
「いいから」
声が、少し低い。
私はおじいちゃんを見る。
「何かおかしい?」
「少し広がってる」
「広がってる?」
周りを見る。
砂糖壺の隣に置いてあった、小さなミルクピッチャー。
それから、畳んで置いていた布巾。
言われて初めて。
そこにあったことを思い出した。
「……ほんとだ」
「砂糖壺だけにしろって言っただろ」
「そのつもりだったんだけど」
「だから、もう解け」
「分かった」
指先から力を抜く。
途端に、カウンターの上に置かれたものが、一気に目へ入ってきた。
砂糖壺。
ミルクピッチャー。
布巾。
最初から、そこにあったのに。
「……変な感じ」
「まだ加減が甘い」
「でも、目逸らし自体はできてた?」
「できてはいる」
「じゃあ、少しは上達してるのかな」
「調子に乗るな」
厳しい。
けれど——さっきのおじいちゃんの顔が、ほんの少しだけ気になった。
「もう一回やる?」
「今日はいい」
「どうして?」
「客が来る」
私は入口を見る。
「この天気で?」
からん。
答えるように、入口のベルが鳴った。
「……本当に来た」
「言っただろ」
「聞こえてたの?」
「足音がな」
「先に言ってよ」
そう言いながら、入口へ顔を向ける。
そこに立っていたのは、人間のお客さんではなかった。




