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こもれびと、おぼろ月  作者: 日旅こつめ


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おぼろ月のおまじない

ほどなくして、佐々木さんが壁の時計を見上げた。

「そろそろ帰らないと、カミさんに怒られるな——」

 そう言って、名残惜しそうに財布を取り出す。

「今日は三杯だったか」

「四杯ですね」

「最後の一杯はノーカウントだ」

「そんな制度ありませんよ」

 私は笑いながら伝票を手に取った。

 佐々木さんの家は、ここから歩いて五分ほどのところにある。

 勘定を済ませると、上着をしっかりと着込み、ちらつく雪の中へ帰っていった。

 そうしているうちに、鹿野さんも熱燗を飲み切って席を立つ。

「俺もそろそろ帰る」

「今日は早いですね」

「今夜は冷えるからな」

 私が伝票を手に取ろうとすると、鹿野さんが先に小さな布袋をカウンターへ置いた。

「今日はこれで」

 中を覗く。

「……きのこ?」

「秋に採ったやつだ。乾かしてある」

 おじいちゃんが袋を受け取り、中を確かめる。

 乾いたきのこを鼻先へ近づけ、香りを確かめる。

「上物だな。今日の分じゃ多い。残りは次に回すか?」

「もちろん」

「また飲む気満々ですね」

「悪いか」

 鹿野さんの口元に、ほんの少し笑みが浮かんだ。

「じゃあな」

「はい。気をつけて」

 私は入り口まで鹿野さんを見送る。

 暖簾をくぐり、外へ一歩出た、その瞬間。

 鹿野さんの姿が、ふっと揺らいだ。

 次にそこに立っていたのは、一頭のエゾシカだった。

 立派な角を傾け、こちらを一度だけ振り返る。

「車には気を付けてください。また来てくださいね」

 声をかけると、鹿野さんは返事の代わりに小さく鼻を鳴らし、ちらつく雪の向こうへ歩いていった。

 私はその背中を見送りながら、暖簾を見上げる。

 この店には、おばあちゃんから教わった、少し特殊なまじないが施されている。

 看板を掛ける。

 灯りを点ける。

 そして、最後に暖簾を整える。

 それが、『おぼろ月』を開くための合図だ。

 人ならざるものは、この暖簾をくぐれば、人に近い姿や大きさで過ごすことができる。

 人間の目にも、その違いはどこか曖昧に映るらしい。

 角が見えても、飾りか何かだと思う。

 少しくらい妙なところがあっても、気のせいで済ませてしまう。

 だから佐々木さんも、鹿野さんの角を見て「帽子か」なんて言っていた。

 正体を隠すための術、というよりは。

 人と、人ではないものが、同じ場所で気兼ねなく過ごすための術。

 おばあちゃんは、そう言っていた。

 私にはまだ、おばあちゃんほど強い術は使えない。

 それでも、この店の術だけは、小さい頃から何度も教わってきた。

 ただ、それでも私は、いつも少しだけ不安になる。

 いつか誰かの正体が、人間にばれてしまうんじゃないかと——。

 だから毎日、きちんと掛ける。

 きちんと灯す。

 きちんと整える。

 おばあちゃんに教わった通りに。

 それさえ忘れなければ、大丈夫。

 この暖簾は、人と人ならざるものの境を曖昧にしてくれる。

 そして、悪意を持ってここへ入ろうとするものがいれば、その足を自然と止める。

 私は暖簾の端をもう一度だけ直した。

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