群れを走らせる理由
今日中に。
なるべく早く。
できれば午前中に。
前の職場でも、そんな言葉を何度聞いたか分からない。
頼まれた仕事を片づければ、次の仕事が来る。
早く終わらせれば、そのぶん余裕ができるわけではなかった。
空いたところに、また何かが詰め込まれるだけだった。
おじいちゃんが焼き網の上のほっけをひっくり返す。
脂の乗った大きな身がじゅうじゅうと音を立て、こんがりと香ばしい焼き目を見せた。
「美月ちゃん?」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げる。
葉月さんがこちらを見ていた。
その隣から、知佳さんが私の顔を覗き込む。
「聞いてる?」
「あ、はい。聞いてますよ」
「絶対聞いてなかった」
「ちょっとだけ、昔を思い出してました」
「昔?」
「会社員だった頃の」
「ああ、そういえば美月ちゃんも会社勤めしてたんだっけ」
「少し前までですけどね」
そう答えて、私は空いた小鉢を下げた。
「美月ちゃんだけだよ、分かってくれるの。葉月なんて自然保護の仕事で、ほとんど山にいるじゃん」
「それはそれで大変なのよ」
葉月さんが苦笑する。
「でもさあ、こっちは『今日中』って言われたから、必死になってやったのに。結局、急がなくてよかったんだよ? なんか馬鹿みたいじゃない?」
知佳さんが、空になりかけたジョッキを眺めながらぼやいた。
すると、それまで黙っていた鹿野さんが、熱燗の杯を置いた。
「それは良くないな」
「ですよね?」
「群れを走らせるなら、それなりの理由がいる」
知佳さんが顔を上げる。
「……群れ?」
「ああ。危ないと知らせれば、みんな走る。何もなかったなら、それでいい。だが、最初から危なくもないのに何度も走らせていたら、そのうち誰も合図を信じなくなる」
「……それ、動物の話?」
「そうだが」
「私、会社の話してるんだけど」
「似たようなものじゃないのか?」
一瞬の間があって。
「ははっ!」
佐々木さんが先に吹き出した。
「確かになあ。肝心なときに誰も部長の話、聞かなくなっちまうぞ」
「……それは、ちょっと困るかも」
知佳さんも呆れたように笑う。
でも、その笑い声は、さっきより少しだけ軽かった。
「ほっけ焼けましたよ」
焼き立てで脂がパチパチとはじけるほっけを差し出すと、知佳さんは「わぁ、美味しそう!」とさっきよりずっと軽い声で箸を伸ばした。
醤油をたらりとかけると、油の乗った身と溶け合って香ばしい匂いがする。
知佳さんと葉月さんは、ふっくらした身を箸でつまみ、口に入れる。
「あー……生きててよかった」
「知佳ちゃんは、死んだり生き返ったり、忙しいね」
私が会社を辞めた理由については、それ以上、誰も聞かなかった。
ありがたいような。
少しだけ、寂しいような。
自分でも、よく分からなかった。




