暖簾の向こうへ
◇
日が暮れた。
看板を『おぼろ月』へ掛け替えて、軒下の灯を付ける。
暖簾を掛ければ、今日も夜の店が始まる。
今日は、少しだけ落ち着かない。
「美月」
「分かってる」
おじいちゃんに言われる前に答える。
「まだ何も言ってない」
「どうせ、そわそわするなって言うんでしょ」
「言おうとはした」
「ほら」
カウンターの中では、いつも通り仕込みが進んでいる。
煮物。
焼き物。
湯気の立つ鍋。
いつもの『おぼろ月』。
なのに。
今日は、そこへ初めて来る人たちがいる。
山の向こうから来た三人。
「来るかな」
「来るって言ったんだろ」
「そうだけど」
時計を見る。
「見るな」
「一回しか見てない」
「さっきから三回目だ」
「……見てた?」
「見える位置にいる」
ですよね。
そんなことを話していると。
暖簾の向こうで、気配が止まった。
「あ」
今度こそ。
戸の向こうに、四つの小さな影が見えた。
私は手を拭いて、入口へ向かう。
からん。
戸を開けると、冷たい空気が店の中へ流れ込んできた。
「こんばんは」
雪の上に立っていたハルさんが、こちらを見上げる。
「ハルさん。こんばんは」
「お邪魔します」
その後ろには。
カックさん。
レラさん。
ニタイさん。
三人とも、暖簾や軒下の灯りを珍しそうに見上げていた。
「……ここか」
カックさんが言う。
「はい。『おぼろ月』です」
「普通の家にしか見えない」
「店です」
「そういう意味じゃない」
また始まった。
「とりあえず、こっちまで来てください。寒いでしょ」
そう言って、私は手招きする。
ハルさんが雪の上を歩いてくる。
三人も、その後ろに続いた。
軒下の灯りが届くところまで来た、その時。
「……っ」
レラさんが足を止めた。
「何だ、これ」
カックさんの声が上がる。
ハルさんの身体が、すっと人と同じ大きさへ変わる。
それに続くように。
小さかった三人の身体も、ゆっくりと大きくなっていく。
腕が伸びて。
足が伸びて。
目線が、どんどん高くなる。
「動かなくても大丈夫ですよ」
ハルさんだけは、慣れた様子だった。
「先に言え」
「人と同じくらいの大きさになるとは言いましたよ」
「聞いたけどよ。こんな感じだとは思わねえだろ」
カックさんが、自分の手を見つめる。
レラさんも両手を広げて、何度か指を動かしていた。
「……変な感じ」
「痛くないですか?」
「それはない」
ニタイさんは何も言わず、自分の身体を確かめている。
やがて顔を上げて。
軒下の灯りと、暖簾を見た。
「この辺りから、まじないが働いているんですか?」
「そうです」
答えてから。
なんだか、不思議な感じがした。
山では、ずっと見下ろしていた三人が。
今は。
ほとんど私と同じ高さに立っている。
……いや。
カックさんだけは、少し高い。
カックさんも、それに気づいたらしい。
私の顔をじっと見る。
「……お前、こんな小さかったのか」
「小さくないです」
「俺より小さいだろ」
「今だけでしょ」
「今だけでも小さい」
「うるさいな」
「もう始めるの?」
レラさんが呆れたように言った。
その横で、ハルさんが小さく笑う。
「美月」
店の中から、おじいちゃんの声が飛んできた。
「戸、開けっぱなしにするな。寒い」
「あ」
そうだった。
「寒いので、中へ入りましょう」
「あ、そうですね」
私は戸を大きく開けた。
「どうぞ」
三人が、初めて店の中へ足を踏み入れる。




