いつもの夜
看板を『おぼろ月』へ掛け替えて、軒下の灯を付ける。
暖簾を掛ければ、今日も夜の店が始まる。
最初に暖簾をくぐったのは、鹿野さんだった。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ。昨日はありがとうございました」
「ああ」
いつもの席へ座った鹿野さんを見て、ふと思い出す。
「あ」
「何だ」
「ブラシどうでした?」
鹿野さんの眉が動いた。
「もう一つあってもいい」
「そんなに気に入ったんですか?」
「悪くない」
「……本当に使ったのか」
隣で仕込みをしていたおじいちゃんが、少し意外そうに顔を上げた。
「使うに決まってるだろ」
「俺はてっきり、邪魔になると思ってた」
「ちょうどいい」
悪くないどころか——ちゃんと使い込んでいるらしい。
「じゃあ、今度見つけたら買っておきますね」
「頼む」
「二本もいるのか?」
「いる」
「そうか」
おじいちゃんが妙に納得した顔で頷いた。
「そういえば」
私はおしぼりを置きながら聞いた。
「あの三人、ちゃんと里に着いたかな」
「ハルが連れていったんだ。問題ないだろ」
「この雪だと、山に残ってなくてよかったですね」
「ああ」
鹿野さんが、窓の向こうの山へ目を向ける。
「向こうの里は、これから大変だろうけどな」
「……ですよね」
「まずは話すしかない」
「今は、ユクルさんたちに任せるしかないか」
「そういうことだ」
その夜も、いつもの客が一人、二人と暖簾をくぐった。
酒を出して。
料理を出して。
話を聞いて。
『おぼろ月』の夜は、いつものように更けていった。




