山の奥にいるもの
鹿野さんが鼻先を山の奥へ向ける。
「こっちだ」
「分かるんですか?」
「匂いが残ってる」
「人?」
「少し違う」
鹿野さんがしばらく空気の匂いを嗅ぐ。
「人に似た匂いもある。でも、人間じゃない」
ハルさんの顔が少し硬くなった。
「行ってみましょう」
葉月さんが言う。
「ここから先も、しばらくなら案内できます」
折れた枝を辿るように、さらに奥へ進む。
雪は、さっきより深くなっていた。
しばらくして。
「待て」
鹿野さんが足を止めた。
「どうしました?」
「ここ」
前足の先。
雪の上に、細い筋があった。
「あ……」
一本ではない。
二本。
平行に近い細い線が、雪の上を伸びていた。
「これ」
しゃがみ込む。
「鹿野さんが言ってた跡?」
「たぶんな」
ハルさんが近づいて、じっと見る。
そして。
自分が引いてきた小さなソリを振り返った。
「……似てるね」
「やっぱりソリ?」
「可能性は高いと思う」
ハルさんが雪の上の筋に手を近づける。
「でも、僕のものとは幅が違う」
「どのくらい?」
「少し広いね。それに、板の形も違う」
よく見ると線の内側に、小さなくぼみがいくつも残っている。
「足跡?」
「そうだね」
ハルさんの声が低くなる。
「少なくとも、一人ではないと思う」
「何人くらい?」
「そこまでは」
鹿野さんが横から雪の匂いを嗅ぐ。
「三つ……いや、もっとあるな」
「そんなに?」
「古い匂いも混じってる」
鹿野さんが顔を上げる。
「何日か、ここを行き来してる」
枝。
ソリの跡。
小さな足跡。
そして。
人里で少しずつなくなっていた野菜。
偶然と言うには——少し多い。
「この跡、どっちへ続いてるんでしょう」
私が言うと、ハルさんが山の奥を見る。
「確かめてみよう」
二本の細い筋は、木々の間を縫うようにして、さらに奥へ続いていた。
私たちは、その跡を追った。
さっきまでより、雪が深い。
鹿野さんの背中に乗ったハルさんが、時々足元を見ながら進む。
「まだ続いてます」
「新しい?」
「さっきのものよりは」
どれくらい新しいのかまでは、私には分からない。
ただ、進むにつれて、雪の上の筋が少しずつはっきりしている気がした。
「鹿野さん?」
前を歩いていた鹿野さんが、急に止まった。
耳が動く。
「どうしたんですか?」
「静かに」
低い声だった。
反射的に口を閉じる。
葉月さんも足を止めた。
しん、とした山の中。
風が木々を揺らす音。
その向こうで、かすかに。
がさ。
何かが動いた。
鹿野さんが顔を上げる。
「いる」
胸の奥が、少しだけ早くなる。
「何が?」
「分からん」
鹿野さんが鼻を動かした。
「でも、近い」
ハルさんが鹿野さんの背中から下りる。
雪の上へ立つと、帽子の庇に手を添えた。
「僕が先に話をする」
「ハルさん?」
「もし、僕たちと同じなら。その方がいいでしょう」
同じ。
その言葉に、さっき見た小さな足跡が頭に浮かぶ。
ハルさんが一歩前へ出た。
「誰かいますか?」
返事はない。
「僕は、この山のこちら側にある里の者です」
少し間を置く。
「話をしたいだけです」
まだ、何も聞こえない。
気のせいだったのかな。
そう思った時。




