山の向こう側
「それで、美月」
ハルさんが私を見る。
「鹿野さんは何を見たの?」
「あ、うん」
私は、数日前に聞いたことを思い出す。
「山の南側。人里に近いところで、変な跡があったって」
「跡?」
ハルさんが聞き返す。
「雪の上に、細い筋みたいなのが続いてたらしいです。人の足跡でも、鹿とか狐の跡でもなくて」
「どのくらいの幅だった?」
「そこまでは聞いてないです」
「一本、二本?」
「それも……」
「ハル」
ユクルさんが苦笑する。
「美月が見たわけじゃないんだから」
「あ。ごめん」
「いえ」
でも、ハルさんの矢継ぎ早な質問が気になった。
「何か心当たりがあるんですか?」
「まだ何とも……」
ハルさんが少し考える。
「ただ、何かを引いて運んだ跡なら、形で分かることもある」
「そり、とか?」
「そうだね」
おじいちゃんの眉が、ほんの少し動いた。
「他には?」
「葉月さんが、低いところの枝が折られてるのを見たって。雪とか風じゃなくて、わざと折った感じだったそうです」
今度はリラさんが顔を上げる。
「折り方は?」
「それも詳しくは……」
「里によっては、枝を目印に使います」
「目印?」
「はい。後から来る者に、道を知らせるために」
「うちでは、ほとんどやらないね」
ユクルさんが言った。
「少なくとも、今は」
おじいちゃんも黙って聞いている。
「あと、雪が丸く溶けてるところがあったって。何か熱いものを置いたみたいに。でも、火の匂いはしなかったそうです」
ハルさんとリラさんが顔を見合わせた。
「……暖を取った跡かもしれません」
ハルさんが言う。
「火を使わずに?」
「里によっては、温めた石を持ち歩くところもあります」
「そんなのあるんだ」
「あるよ。でも、それだけで決めつけるのは早いね」
やっぱり。
三人とも、知らないわけではない。
でも——知っている跡とも言い切れないらしい。
「それと、もう一つ」
「まだあるのか」
おじいちゃんが言う。
「佐藤さんの倉庫で、野菜が少しずつなくなってるんだって」
「野菜?」
ユクルさんが顔を上げる。
「じゃがいもと人参。小さいのとか、傷があるやつばっかり」
「荒らされたんですか?」
「それが、箱は倒れてないし、袋も破れてないって」
ハルさんの表情が変わる。
「……選んでいる」
「私も、そう思った」
「売り物にならないものだけですか?」
リラさんが聞く。
「うん」
「なら」
リラさんが少し迷ってから続ける。
「捨てるものだと思った可能性はあります」
「あ」
確かに。
人間なら。
売り物にならなくても、自分たちで食べたり、加工したりする。
でも。
それを知らない誰かなら。
「……いらないものだと思った?」
「かもしれません」
店の中が、少し静かになる。
おじいちゃんが腕を組んだ。
「美月」
「ん?」
「鹿野が跡を見たのも、南側だったな」
「うん」
「佐藤の畑も、山から下りてくるならそっちだ」
「……あ」
そこで初めて。
ばらばらだったものが、少しだけ近づいた気がした。
昼間に聞いた、林道の話。
山の中の、知らない跡。
折られた枝。
溶けた雪。
そして。
人里で少しずつなくなる野菜。
「おじいちゃん」
「だから、まだ分からんと言ってる」
先に釘を刺された。
「偶然かもしれん。ただ」
おじいちゃんがユクルさんを見る。
「あの道の先で何か起きてるなら、無関係とは言い切れん」
ユクルさんの表情から、さっきまでの笑みが消えた。
「……朔太郎」
「ああ」
「山の向こう側だね」
私は二人を見る。
「向こう側?」
ユクルさんが、ゆっくりこちらを向いた。
「私たちの里があるのは、主にこちら側なんだ」
指先で、カウンターの上に線を引くようにする。
「尾根を越えた向こうには、別の里がある」
「別の……里?」
「そう」
その言葉に、ハルさんもリラさんも黙った。
「でも」
リラさんが静かに言う。
「向こうの者だと決まったわけではありません」
「分かってるよ」
ユクルさんが頷く。
「だから、確かめないとね」
おじいちゃんも何も言わなかった。
ただ。
その顔は。
昼間、あの男の人から山の話を聞いた時と、同じだった。
話がひと段落したところで。
「ハルさん」
「はい?」
「お茶、冷めますよ」
「あ」
すっかり忘れていたらしい。
私は温かいお茶と、軽く炙った鮭、それから小さな椀のあら汁をハルさんの前に置いた。
「ありがとう」
ハルさんが椀を両手で包む。
一口飲んで。
ふっと肩の力を抜いた。
「温まるね」
「でしょう」
その横では、ユクルさんとリラさんがまだ小さな声で話していた。
どれも、まだ何かが分かったわけじゃない。
ただ。
偶然で片づけるには、少しずつ数が増えている。
「一度、見に行った方がいいかもしれませんね」
ハルさんが言う。
「そうだね」
ユクルさんも頷いた。
「まずは、跡があった辺りを確かめよう」
「それがいいだろう」
おじいちゃんが答える。
「鹿野くんにも声をかけた方がいいな。最初に見つけたのはあいつだからな」
「じゃあ、僕から聞いてみます」
「私も行く」
そう言うと、おじいちゃんがこちらを見た。
「美月もか」
「だって、ここまで聞いたら気になるよ」
「山だぞ」
「分かってる」
少しの間。
おじいちゃんが私を見る。
「……無理はするなよ」
「うん」
「何がいるかも分からん。確認だけして、危なそうなら戻ってこい」
「分かった」
その横で、ハルさんが小さく笑った。
「僕も一緒ですから」
「なら、まあいい」
「そこは少し信用してください」
「してるから任せるんだろ」
ハルさんが、一瞬黙った。
それから、少しだけ笑った。
ユクルさんまでつられるように笑う。
その声を聞きながら、私はふと窓の外へ目を向けた。
暗い夜の向こうには、山の影がぼんやりと浮かんでいる。
あの向こうに、いったい何がいるんだろう。
考えていると、窓の外を白いものがひとつ横切った。
「あ、雪」
まだ積もるほどではない。
地面に落ちれば、すぐに消えてしまうくらいの雪だ。
それでも、もう十一月も終わりに近い。
こうしている間にも、冬は少しずつ近づいている。
結局、その夜はそれ以上の答えは出なかった。




