仕立て屋のリラ
◇
それから、数日後。
夕方。
空が暗くなり始める頃、私は昼の看板を外した。
『喫茶 こもれび』から。
『小料理屋 おぼろ月』へ。
軒下の灯りをつけて、暖簾を掛ける。
最後に、戸口へ立った。
「今夜も、ここへ来るものが安心して過ごせますように」
小さく唱えると、敷居の向こうで空気がわずかに揺れた。
見た目には、何も変わらない。
でも。
店の中と外との境目が、ほんの少し柔らかくなる。
人ならざるものが、この店を訪れたとき。
人と同じ目線で、同じ戸を開けられるように。
おばあちゃんが店に残した術を。
私が、今日も繋いでいく。
「よし」
札を裏返す。
CLOSEDから、OPENへ。
今夜の『おぼろ月』が始まった。
それから、しばらくして。
からん、と入口のベルが鳴った。
「こんばんは」
「こんばんは」
「あ。ユクルさん」
入ってきたのはユクルさんと、見慣れない女性だった。
年は、見た目だけなら四十代くらいだろうか。
少しくすんだ緑色の服に、腰には小さな革の道具入れ。
長い髪は邪魔にならないよう、後ろできっちりまとめられていた。
「今日はお連れさんですか?」
「ああ。紹介しようと思ってね」
ユクルさんが隣を見る。
「里で仕立て屋をしている、リラだよ」
「リラです。初めまして」
「水森美月です。よろしくお願いします」
頭を下げると、リラさんも丁寧に頭を下げた。
そして。
顔を上げた途端、その視線がカウンターの上で止まる。
「あ」
「?」
見ている先を追う。
珈琲カップの下に敷いていた、あのコースターだった。
「もしかして」
「はい」
リラさんが、少しだけ嬉しそうに笑った。
「それ、私が作りました」
「えっ!」
思わずコースターを持ち上げる。
「リラさんだったんですか?」
「はい。届いたと聞いて、安心しました」
「すごくかわいいです。昼も夜も使ってますよ」
「本当ですか?」
さっきまで落ち着いていた顔が、一気に明るくなる。
「よかった……」
「そんなに心配だったんですか?」
「人間用の大きさで作るのは、初めてだったので」
リラさんがコースターを手に取る。
人間の大きさになった今なら普通の布に見えるけれど。
本来の彼女からすれば、かなり大きな仕事だったはずだ。
「途中で何度も、大きすぎるんじゃないかと思いまして」
「コースターですからね」
「小夜さまには、このくらいと言われていたんですけど」
両手を広げる。
「私たちからすると、敷物ですから」
「おじいちゃんも同じこと言ってました」
「だろうな」
厨房から声が返ってきた。
リラさんが少し笑う。
「小夜さまに頼まれてから、ずいぶん経ってしまいました」
「……そうだったんですね」
「作ってはいたんです。でも、そのうちに……」
言葉が止まる。
何を言おうとしたのかは、分かった。
「でも、朔さまと美月さまがお店を続けていると聞いて」
リラさんがコースターを指先で撫でる。
「なら、完成させないと、と思いました」
「ありがとうございます」
改めて見る。
葉っぱ。
木の実。
三日月。
一針ずつ、丁寧に縫われた模様。
おばあちゃんが使うはずだったものを。
今は、私が使っている。
「大事に使います」
「使ってください。道具は使われてこそですから」
「職人っぽい」
「仕立て屋ですから」
真顔で返されて、ユクルさんが笑った。
「リラは布の話になると長いよ」
「長、余計なことを言わないでください」
「あれ。ユクルさん、怒られてる」
「いつものことだよ」
「いつもではありません」
即座に否定された。
どうやら、里でもこんな感じらしい。




