小さな困りごと
「ごちそうさん」
声に振り返ると、男の人の皿はきれいに空になっていた。
「おいしかったよ」
「ありがとうございます」
「珈琲も、もう一杯飲みたいところだけどなあ」
男の人が腕時計を見る。
「そろそろ戻らんと」
「お仕事ですか?」
「ああ。資材積んで、また向こうまで戻らないとな」
会計を済ませ、男の人は厚手の上着を着直す。
「またこっち来ることあったら寄るわ」
「ぜひ。お待ちしてます」
「今度もオムライスにするかな」
「他にもありますよ?」
「うまかったからいいんだよ」
笑いながら、男の人は戸を開けた。
「ごちそうさん」
「ありがとうございました。お気をつけて」
からん、とベルが鳴る。
冷たい風が少しだけ入り込んで、すぐに戸が閉まった。
私は空になったカップと皿を下げる。
隣町の山。
南側の林道。
今まで、ほとんど人が入っていなかった場所。
考えても、まだ何も分からない。
とりあえず皿を重ねた、そのとき。
からん。
入れ替わるように、もう一度ベルが鳴った。
「こんにちはー」
「あ、佐藤さん。いらっしゃいませ」
今度は、見慣れた顔だった。
入ってきた佐藤さんは、今日は何も抱えていなかった。
「今日はちゃんと客だよ」
私の視線に気が付いたのか、佐藤さんが笑いながら手を振る。
「ありがとうございます」
佐藤さんはいつもの席へ腰を下ろした。
「珈琲でいいですか?」
「ああ。それと、なんか甘いものある?」
「今日はりんごのケーキがありますよ」
「じゃあ、それお願い」
「はーい」
珈琲とケーキを出すと、佐藤さんは満足そうにフォークを手に取った。
「こういうの、たまに食いたくなるんだよね」
「甘いものは大事ですよね」
「体重が気になっちゃうけどねえ」
笑いながら返される。
しばらくして。
珈琲を飲んでいた佐藤さんが、ふと思い出したように言った。
「そういや、最近うちの納屋で変なことあってさ」
「変なこと?」
「じゃがいもと人参が減ってるみたいなんだよ」
「……盗まれたんですか?」
「それがねえ」
佐藤さんは首を傾げた。
「正直、何個かなくなったくらいなら分からんのよ。規格外のやつを箱にまとめて置いてるだけだから」
「じゃあ、なんで気づいたんです?」
「床に転がってたの」
「床に?」
「そう。じゃがいもが三つくらいと、人参が一本。朝行ったら納屋の床に落ちててさ」
「動物が入ったとか?」
「最初は私もそう思ったんだけどね」
佐藤さんが珈琲をひと口飲む。
「箱がひっくり返されたわけでもないし、袋が食い破られてるわけでもない。上から何個か持ってったみたいなんだよ」
「へえ……」
「しかも、持ってくならもっといいの持ってけばいいのにな」
「いいの?」
「売り物にならない小さいやつとか、傷のあるやつばっかりだしね」
「……なんでだろう」
「さあねえ。別にあれくらいなら構わないんだけど」
佐藤さんは笑った。
「誰が持ってってるのかは、ちょっと気になるね」
私は、さっきまでここにいた男の人の話を思い出す。
隣町の山。
今年から延びる作業道。
そして昨日聞いた。
細い筋。
折れた枝。
丸く解けた雪。
関係があるのかどうかは、まだ分からない。
「……美月ちゃん?」
「あ、いえ。なんでもないです」
そのとき、佐藤さんが眉間を押さえた。
「頭痛いんですか?」
「ええ。ここ何日かちょっとね。寒くなったせいか、肩も凝ってて」
「ちょっと待っててください」
「ん?」
私は奥へ行って、小さな布袋を一つ持って戻った。
「これ、どうぞ」
「なんだい、これ」
「匂い袋です」
中には、乾燥させたラベンダーとカモミール。
それから、ほんの少しだけレモンバーム。
「頭痛を治すものじゃないですけど、疲れたときに香りを嗅ぐと、少し楽になるかもしれません」
「へえ」
「寝るとき、枕元に置いてもいいですよ」
佐藤さんが袋を鼻元へ近づける。
「……いい匂いするね」
「でしょ?」
「これ、いくら?」
「今日はいいです。いつものお礼」
「じゃあ、お言葉に甘えようかね」
佐藤さんは匂い袋を上着のポケットへしまった。
「そういえば、小夜さんもこういうのくれたわ。なんだか不思議と、体が軽くなるのよね」
「おばあちゃんも?」
「ああ。忙しい時期になるとねえ。『無理して倒れたら畑も困るでしょ』って」
店の中に、佐藤さんの笑い声が響いた。
佐藤さんがケーキを食べ終わると、席を立った。
「じゃあ、またね。匂い袋、使ってみるわ」
「はい。無理しないでくださいね」
「美月ちゃんもね」
佐藤さんはお会計を済ませ、店を出ていった。
からん、とベルが鳴る。
私は戸の向こうへ消えていく背中を見送った。
おばあちゃんも、同じようなことをしていたんだ。
そう思うと。
手の中に残っていた、乾いた薬草の香りが少しだけ近く感じられた。




