いつもと違う山
その日の夜。
『おぼろ月』の営業が始まる。
からん、と入口のベルが鳴る。
「邪魔するぞ」
「こんばんは」
「あ」
暖簾をくぐってきた二人を見て、私は思わず声を上げた。
「鹿野さん。葉月さん。今日は二人一緒なんですね」
「たまたま、山を下りるときに一緒になったんだ」
「ちょうどよかったんです」
二人が揃って首を傾げる。
「何がだ」
「お二人に、お土産があるんですよ」
「土産?」
鹿野さんの眉がわずかに上がる。
葉月さんも、少し驚いたように瞬きをした。
「私にも?」
「はい。旭川へ行ったときに見つけて」
私はカウンターの奥へ回り、しまっておいたものを取り出す。
「まず、鹿野さん」
「俺からか」
「どうぞ」
差し出したのは、硬めの毛が付いたブラシ。
鹿野さんが黙った。
「……なんだ、これは」
「背中掻きです」
「掃除用に見えるが」
「おじいちゃんと同じこと言った」
厨房から鼻で笑う音が聞こえた。
「だから言っただろ」
「でも、木に括り付けたら使えそうじゃないですか?」
鹿野さんはブラシを持ち上げ、しばらく眺める。
「鹿の姿だと、背中届かないところあるでしょ?」
「ある」
「あるんだ」
思わず聞き返す。
「肩甲骨の少し後ろが届きにくい」
「具体的……」
鹿野さんはもう一度ブラシを見る。
「……悪くないかもしれん」
「ほら!」
「まだ使ってないだろ」
おじいちゃんが言う。
「使えば分かる」
鹿野さんはそう言って、意外と大事そうにブラシを自分の脇へ置いた。
私は少し得意になりながら、今度は葉月さんを見る。
「葉月さんには、これ」
畳んであった麻布を差し出す。
「まあ」
葉月さんが両手で受け取った。
指先で布の表面を撫でる。
「麻ですね」
「山で何かに使えるかなと思って。枝をまとめたり、植物を覆ったり……でも、使い道は葉月さんに任せます」
「ありがとうございます」
葉月さんは布を広げ、しばらく眺めていた。
「ちょうど欲しかったんです」
「本当ですか?」
「ええ。風の強い場所に若木が何本かあるので、冬囲いに使えそうです」
「よかった」
「それに、道具を包むのにも使えますね」
「やっぱり私が思ってたのと違う使い方もするんだ」
葉月さんがくすりと笑う。
「物は、使う者が一番いい使い方を決めればいいんですよ」
「……それ、おじいちゃんにも似たようなこと言われた」
「そうか?」
「『使えそうと必要なのは違う』って」
「当たり前だ」
「はいはい」
鹿野さんが横からブラシを眺めながら言う。
「俺のは必要だ」
「もう気に入ってるじゃないですか」
「まだ分からん」
「絶対気に入ってる」
「使ってから決める」
葉月さんが笑う。
「次に来たとき、感想を聞かれますよ」
「……面倒なものをもらったな」
「聞きますからね」
「ほらな」
そう言いながらも。
鹿野さんはブラシを手放さなかった。
「で、今日は何にします?」
「私は梅酒で」
「俺はいつもの熱燗」
「かしこまりました。食べるものは?」
「任せる」
「私もお願いします」
「はい」
まず出したのは、ほうれん草としめじのお浸し。
それから、里芋と鶏肉を炊いたものに、大根と油揚げの煮物。
ごぼうは薄く衣をつけて揚げて、塩を少しだけ振った。
ししゃもは炙るように焼いて。
仕上げに、鮭のあらを使った温かい汁物も添える。
気づけば、二人の前には小さな皿や鉢がいくつも並んでいた。
「……頼みすぎたか?」
「任せるって言ったの鹿野さんですよ」
「そうだったな」
「……そういえば」
熱燗を口へ運びかけた鹿野さんが、不意に言った。
「最近、山の下の方で妙な跡を見る」
「妙な跡?」
葉月さんの表情が少し変わる。
「……私も、少し気になっていることがあります」
私は持っていた皿を止めた。
森と人里の境目近く。
朝になると、雪の上に細い筋のような跡が何本も残っているそうだ。
人間の足跡でも、鹿でも、狐でもない。
「何か引きずった跡みたいなんだが、途中で消える」
「消える?」
「ああ。林の中に入ったと思ったら、そこで急になくなる」
「私が気になっているのは、枝の方です」
葉月さんが言う。
「低い位置の枝が、何本か折られているんです」
「動物じゃなくて?」
「違うと思います。折れ方が不自然で」
風で折れたわけでも。
雪の重みで折れたわけでもない。
誰かが、意図的に折ったように見えるらしい。
「それと」
鹿野さんが酒を置いた。
「雪が丸く解けてる場所もある」
「丸く?」
「小さい。これくらいだ」
鹿野さんが、指で輪を作る。
「何か熱いものでも置いたみたいにな」
「焚き火?」
「火の匂いはしない」
「じゃあ何だろう……」
葉月さんも首を傾げる。
「私も分からないんです。ただ、ここ数日、同じ辺りで続いていて」
「人間の匂いは?」
「少しする」
鹿野さんが答える。
「でも、それだけじゃない」
「それだけじゃない?」
「知らない匂いが混じってる」
私はおじいちゃんを見る。
さっきまで黙って料理をしていたおじいちゃんも、いつの間にかこちらを見ていた。
「……いつからだ」
「三、四日前くらいだな」
「場所は?」
「山の南側。人里に近い方だ」
おじいちゃんは少しだけ眉を寄せた。
「何か分かるの?」
「いや」
短く答える。
「まだ分からん」
それきり、おじいちゃんはまた厨房へ戻った。
でも。
その横顔が、さっきまでとは少しだけ違って見えた。




