また来ます
昼を少し過ぎた頃。
からん、と入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げる。
「あ」
入ってきた女性を見て、私は一瞬だけ手を止めた。
見覚えがある。
数日前。
夜の『おぼろ月』へ、雪を肩に乗せて入ってきた人。
豚汁を食べながら、何も言わずに泣いていた女性だった。
「あの……」
「こんにちは」
私が先に言うと、女性は少しだけ安心したように笑った。
「この前は、すみませんでした」
「何がです?」
「……泣いたりして」
「ああ」
私は少し笑った。
「気にしないでください」
女性は少しだけ俯いてから、今度は自分でコートを脱いだ。
髪も、あの夜より少し整っている。
それでも、顔にはまだ疲れが残っていた。
「今日は、お食事ですか?」
「はい」
女性はメニューを見る。
しばらく迷ってから、顔を上げた。
「今日は、ちゃんと食べられそうです」
その言葉に。
私は何となく、嬉しくなった。
「じゃあ、何にしましょうか」
私は、それだけを聞いた。
女性はもう一度メニューを見る。
「トーストとグラタンをお願いします」
「はい」
「あと、珈琲も」
「かしこまりました」
厨房へ向かう。
理由は聞かない。
何があったのかも、まだ知らない。
でも。
あの夜は、出された豚汁を食べるだけだった人が。
今日は、自分でメニューを見て。
自分で食べるものを選んでいる。
グラタンを焼き上げ、トーストと一緒に運ぶ。
表面のチーズには、ところどころきつね色の焼き目がついている。
縁では、まだ小さくふつふつと音を立てていた。
厚めに切ったトーストは、表面がこんがりと焼けている。
バターの香りと、熱々のグラタンから立つ湯気が混ざって、ふわりと鼻をくすぐった。
その横には、『木いちご』のジャムを小さな器に入れて添えた。
赤いジャムが、こんがり焼けたトーストの隣で鮮やかに映えている。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
女性は湯気の立つグラタンとトーストを見て、少しだけ目を細めた。
最初のひと口は、ゆっくりだった。
それから。
トーストをちぎって、ジャムにつけて食べ。
グラタンをそっと口へ運ぶ。
ときどき、珈琲を飲む。
私はなるべく気にしないようにしながら、カウンターの中で仕事を続けた。
しばらくして皿を下げに行くと、どちらもきれいに空になっていた。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「食べられましたね」
「はい」
女性は、小さく笑った。
「あの夜よりは、だいぶ」
「それならよかったです」
それ以上は聞かなかった。
会計を済ませると、女性は自分でコートを羽織った。
入口へ向かいかけて、ふと足を止める。
「あの」
「はい?」
「また、来ます」
一瞬だけ驚いてから、私は笑った。
「はい。お待ちしてます」
「……ありがとうございます」
からん、とベルが鳴る。
戸の向こうへ出ていく背中は、あの雪の夜よりも少しだけまっすぐに見えた。
元気になったのかは、まだ分からない。
きっと、そんなに簡単なものでもない。
でも。
今日は、自分でここまで来て。
食べたいものを選んで。
ちゃんと食べて、帰っていった。
今は、それでいい気がした。
そのあとも、何人かのお客さんがやってきた。
珈琲を飲んでいく人。
ケーキを頼む人。
少しだけ話をして帰る人。
いつもの午後が、ゆっくりと過ぎていく。
窓から差し込む光が少しずつ傾いてきた頃。
最後のお客さんを見送って、私は入口の札を裏返した。
OPENから、CLOSEDへ。
「今日も終わりっと」
カップを片付け、テーブルを拭いていく。
窓辺では、ローズマリーの葉の陰から草の精がこちらを覗いていた。
「こもれびは、ここまでね」
頭の葉っぱが、ぴくりと揺れる。
昼の店はこれでおしまい。
少し休んだら、今度は、夜の支度が始まる。




