一日の終わりに
洗い物を終える頃には、店の中から料理の匂いも少しずつ薄れていた。
「じゃあ、掃除するか」
「はーい」
おじいちゃんと手分けして、閉店作業を始める。
カウンターを拭いて。
椅子を整えて。
厨房のコンロ周りも、油が残らないようにしっかり磨く。
床には、細かな食べかすや、濡れた靴の跡。それに、どこから入ってきたのか小さな葉っぱまで落ちていた。
「今日は、よく汚れてるね」
「雪の日だからな」
「葉っぱまであるけど」
「誰かが連れてきたんだろ」
「誰だろうね」
箒で床を掃きながら、私は小さく笑った。
最後に入口まで来る。
おぼろ月の看板を外し、表の灯りを落とす。
暖簾を外したら、おぼろ月の閉店の合図。
木札をひっくり返して、『OPEN』から『CLOSED』へ。
それから、固く絞った布で戸口をゆっくり拭いた。
右から左へ。
一度。
もう一度。
おばあちゃんに教わった、いつものやり方。
一日の間に店へ入ってきたものを、良いものも悪いものも、いったん外へ流す。
大げさな魔法じゃない。
ただ、明日またここを開けるための、小さな区切りだ。
「よし」
布を桶へ放り込む。
「終わった?」
「ああ」
おじいちゃんが店の奥へ続く戸を開けた。
途端。
「にゃあ」
「あ」
待ってましたと言わんばかりに、たびがこちらへ歩いてきた。
「お待たせ」
「にゃ」
私の足元を一周してから、たびは当たり前のような顔で店の中へ入っていく。
「こら。今掃除したばっかりなんだけど」
聞こえていないふりをしている。
「絶対分かってるよね?」
「にゃあ」
「返事だけはいいんだから」
たびはカウンターの前まで行くと、ぴょん、と椅子へ飛び乗った。
さらにそこからカウンターへ。
「たび」
「にゃ」
「そこも拭いたの」
「にゃあ」
「……もういいや」
諦めると、たびは満足そうに目を細めた。
おじいちゃんが鼻で笑う。
「負けてるな」
「おじいちゃんが言ってよ」
「聞くわけないだろ」
「飼い主なのに」
「お前もだろ」
それはそうだった。
店の片付けを終えて、住居側へ戻る。
残っていた豚汁を二人分だけ温め直した。
「まだ食べるのか」
「働いたからお腹空いたの」
さっきまで、お客さんに出していたのと同じ豚汁。
それなのに、こうして自分で食べると、また少し違う味がする。
たびには、いつもの猫用のご飯。
ぬるま湯を少し入れてやると、夢中になって食べ始めた。
「今日もよく待ってたね」
「にゃ」
「店の方、気になってたでしょ」
たびは顔も上げずに食べ続ける。
「ユクルさんたちの話も聞いてた?」
「にゃあ」
「やっぱり」
「最後の客のことも気にしてただろ」
おじいちゃんも豚汁をすすりながら言う。
「にゃ」
たびがようやく顔を上げた。
「ほら」
「『あの人大丈夫かな』って」
「違う」
「え?」
「『ちゃんと食べて帰ったから大丈夫だろ』だ」
「そこまで言った?」
「言った」
「にゃあ」
「ほら、やっぱり私の言った通りじゃん」
「俺の言った通りだろ」
「どっち?」
たびはしばらく私たちを見比べる。
「にゃ」
「……どっちでもいいって」
「だな」
私は笑って、残っていた豚汁をもうひと口食べた。
たびも何事もなかったように、ご飯へ戻る。
三人でそんな話をしながら、静かな夜の続きを過ごした。
今日あったことを、わざわざ話題にすることはしなかった。
ユクルさんのこと。
吉原さんの話。
鹿野さんの群れ。
ハルさんと、おじいちゃんの昔のこと。
それから、最後に来た女性。
いろんなことがあったけれど。
今はただ、温かい豚汁と、たびがご飯を食べる音がある。
それで十分だった。
おじいちゃんに「先に寝る」と言われたあと、私は離れへ戻った。
「たび、行くよ」
「にゃ」
たびが先に廊下を歩いていく。
離れの部屋へ入り、暖房を少し強くする。
机の上には、乾燥させたハーブの瓶がいくつか並んでいた。
ラベンダー。
カモミール。
少しだけ、レモンバーム。
「今日は……これかな」
棚から、小さな木箱を取り出す。
中には、手のひらに収まるくらいの布袋が何枚か入っていた。
おばあちゃんが昔使っていたものと、同じ形。
「さて」
乳鉢に乾燥させた葉を少し入れる。
ごり。
ごり。
ゆっくりとすり潰していく。
甘いような。
少し青いような。
柔らかな匂いが、部屋の中に広がった。
たびが机の上へ前足をかける。
「駄目だよ」
「にゃ」
「食べ物じゃないからね」
鼻をひくひくさせている。
「絶対狙ってるでしょ」
たびは知らん顔をした。
私は笑いながら、すり潰したハーブを布袋へ少しずつ入れていく。
眠るためのおまじない。
といっても、これを枕元へ置いたからといって、すぐ眠れるわけじゃない。
眠れない夜に。
少しだけ呼吸がゆっくりになるように。
考えごとが止まらないときに。
ほんの少しだけ、心が静かになるように。
それくらいのもの。
袋の口を細い紐で結ぶ。
最後に、指先で小さく円を描いた。
「今日の疲れが、眠っているあいだにほどけますように」
ぽつりと唱える。
布袋が、ほんの一瞬だけ柔らかく温かくなった。
「よし」
机の端へ置く。
たびがすぐに近づいて、匂いを嗅いだ。
「どう?」
「にゃあ」
「合格?」
「にゃ」
「じゃあ、合格ってことで」
たびはくるりと身体を丸め、机の端で座り込んだ。
灯りの下で、尻尾の先がふたつに分かれているのが見える。
私は椅子の背にもたれた。
窓の外では、まだ雪が降っている。
「……私も寝ないとね」
「にゃあ」
「分かってるって」
机の端には、今作ったばかりの小さな布袋。
眠っているあいだに、今日の疲れが少しでもほどけるように。
「……もう一つだけ」
そう呟いて、私は新しい布袋を手に取った。
たびが、呆れたように鳴く。
「にゃあ」
「本当にこれで最後だから」
そして——夜は更けていった。




