それで十分な夜
「……ありがとうございます」
女性は小さく頭を下げる。
そしてまた、豚汁を食べる。
一口。
もう一口。
途中で何度か涙を拭いながら、それでも最後まで食べた。
空になった椀を、しばらく見つめていた。
「……おいしかったです」
「よかったです」
女性は少しだけ口元を緩めた。
まだ、笑顔と呼ぶには頼りないものだった。
「……ごちそうさまでした」
「はい」
私は伝票を手に取り、女性の前へ置いた。
「お会計、こちらです」
「……はい。あの……おにぎりの分は?」
「それは、おまけだ」
おじいちゃんは片付けの手を休めずに言った。
女性は財布を取り出した。
少しだけ震える手で、小銭を数える。
「……これで」
「はい。ちょうどいただきます」
私は受け取ったお金をレジへしまった。
女性は立ち上がり、コートの襟元を整える。
入口まで行ってから、ほんの少しだけ振り返った。
「……ありがとうございました」
「お気をつけて」
戸が開く。
冷たい風と一緒に、雪が舞い込んできた。
女性はそのまま、雪の中へ歩いていく。
私はしばらく、その背中を見送った。
やがて姿が見えなくなる。
戸を閉めると、店の中がまた静かになった。
「……何があったんだろうね」
思わず呟く。
「さあな」
おじいちゃんは、それだけ答えた。
「聞かなかったけど……それで、よかったのかな」
おじいちゃんは少しだけ考えてから、鍋の蓋を閉めた。
「食べて、帰った」
「うん」
「それで十分な夜もある」
私は何も言わず、さっきまで女性が座っていた席を見る。
空になった椀。
使われたティッシュ。
そして、窓の向こうで降り続ける雪。
何があったのかは、分からない。
ただ。
あの人がここで豚汁を食べている間だけは、少しだけ休めたのなら。
それでいいのかもしれない。
私は空になった椀を下げた。
「……洗ってくるね」
「ああ」
いつものように、水を出す。
食器が触れ合う小さな音が、静かな店に響いた。




