温かいものを
店の中が、また静かになった。
「……さて」
「今日は、ずいぶん賑やかだったな」
おじいちゃんが厨房から言う。
「そうだね」
ユクルさんが来て、吉原さんが来て、鹿野さんが来て。
最後にはハルさんまで来た。
「豚汁、まだある?」
「まだあるぞ」
「よかった」
私は鍋の蓋を少しだけ開ける。
白い湯気が、ふわっと上がった。
店の中には、まださっきまでの温かさが残っている。
外は雪。
風も少し強くなってきた。
もうこんな時間だし、今日はこのまま静かに終わるかな。
そう思っていた。
そのとき。
からん。
入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
反射的に声をかける。
けれど。
入ってきた女性を見て、私は言葉を止めた。
年齢は、私よりも少し年上のように見える。
髪は少し乱れていて、コートには溶けかけた雪が残っていた。
手袋を外すこともせず、入り口に立ったまま、店の中を見ている。
何かを探しているようにも、何を探しているのか、自分でも分からないようにも見えた。
「あの……」
女性が小さな声を出す。
「はい」
「……まだ、いいですか」
「もちろんです」
そう答えると、女性は少しだけ頷いた。
それから、一番入口に近い席へ座る。
コートも脱がない。
ただ、俯いている。
「何か、食べますか?」
女性はしばらく黙っていた。
やがて、かすかに首を横に振る。
「……あんまり、食べられないかも」
「そうですか」
私は無理に勧めなかった。
けれど、鍋の方を見る。
「豚汁ならありますよ」
女性の目が、ほんの少しだけ動いた。
「……豚汁」
「はい。温かいですよ」
「……お願いします」
「はい」
私は小ぶりの椀を手に取った。
豚汁を、いつもより少し控えめによそう。
白い湯気と一緒に、生姜の匂いがふわりと立ち上った。
湯気の立つ椀を、女性の前へ置いた。
「熱いので、気をつけてくださいね」
女性はしばらく椀を見つめてから、ようやく手袋を外した。
私の横で、おじいちゃんが、まかないに取っておいた銀だらをほぐし始めた。
ご飯に混ぜて、小さなおにぎりをひとつ作る。
「食えそうなら、これも」
女性の前に、そっと置いた。
「……いいんですか」
「無理なら残せ」
「……ありがとうございます」
女性は両手で椀を包んだ。
しばらく、そのまま動かなかった。
湯気だけが、静かに上へ昇っていく。
やがて、箸を持つ。
大根をひとつ。
ゆっくり口へ運ぶ。
「……」
噛む。
飲み込む。
そして、小さなおにぎりを片手で持ち、頬張る。
そのあたりで。
ぽた、と。
椀の中へ何かが落ちた。
私は何も言わなかった。
女性も何も言わない。
ただ、俯いたまま、豚汁を食べている。
ぽた。
また一滴。
今度はテーブルの上に落ちた。
女性は慌てて袖で目元を拭った。
「……すみません」
「大丈夫ですよ」
それ以上は、聞かなかった。
おじいちゃんも、何も言わない。
ただ、カウンターの端に置いてあったティッシュの箱を、女性の近くへそっと置いた。




