見て、聞いて
「こんばんは」
「あれ?」
暖簾をくぐって入ってきた人に、私は顔を上げた。
「ハルさん?」
「うん。こんばんは、美月」
「どうしたんですか? 今日は遅いですね」
「ちょっと探してたんだ」
「何を?」
ハルさんは店の中を見回した。
そして、カウンターに座っているユクルさんを見つける。
「ああ」
小さく息をついた。
「やっぱりここだった」
「ハル」
ユクルさんが、少し気まずそうに笑った。
「こんばんは、長」
「……こんばんは」
「長」
「何?」
「何も言わずに里を出るときは、一言ください」
「抜け出してないよ」
「では、何も言わずにいなくなった理由を教えてください」
「ちょっと息抜き」
「それを抜け出したと言うんです」
私は思わず吹き出した。
「ハルさん、探してたんですか?」
「うん。夕方から姿が見えなくてね」
「長なのに、探されるんですね」
「長だから探されるんだよ」
ハルさんは苦笑しながら、ユクルさんの隣へ腰を下ろした。
「それに、明日は話し合いがあるって言ってたでしょう?」
「……準備はこれからする」
「本当ですか?」
「たぶん」
「長」
「はい」
ユクルさんが少しだけ背筋を伸ばす。
その様子がなんだか可笑しくて、私は笑いを堪えた。
「ハルさん、何か食べます?」
「え?」
「まだなら、豚汁ありますよ」
「じゃあ、少しだけ……いただこうかな」
「長も『少しだけ』って言ってましたよ」
「私は本当に少しだけだよ」
「もう結構食べてますけど」
「……そうだったかな」
ハルさんが小さく笑った。
「長、ちゃんと食べてますね」
「朔太郎に食べろって言われたから」
「それなら安心しました」
私は新しい椀を用意して、豚汁をよそう。
湯気の向こうで、ハルさんがユクルさんへ視線を向けた。
「それで?」
「何が?」
「今日は、何を考えていたんです?」
ユクルさんは少し黙った。
「……人の話を聞くことについて」
「人の話を?」
「うん」
私はハルさんの前に豚汁を置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
ハルさんが椀を両手で包む。
「何かあったんですか?」
「さっき、ここで人間の客と話してたんだ」
「人間の?」
「会社を経営している人でね。私が今考えていることと、少し似た悩みを持っていた」
「そうでしたか」
「私が里を良くしたいと思ってやっていることでも、みんなが同じように思ってくれるとは限らない」
ハルさんは黙って聞いている。
「便利にしたい。暮らしやすくしたい。そう思っているんだけど……それで不安になる者もいる」
「はい」
「今までやってきたことが変わってしまうかもしれない。自分の居場所がなくなるかもしれない。そう思うんだって」
ハルさんが豚汁をひと口すすった。
「……それは、分かります」
「ハルも?」
「ええ」
ハルさんは少し考えてから続けた。
「変わること自体が嫌なのではなく、変わった先が見えないことが怖いんでしょうね」
「うん」
「私たちも、そういう声は何度か聞いています」
ユクルさんが顔を上げる。
「やっぱり、そうなんだね」
「はい」
ハルさんは穏やかに頷いてから、ふと厨房の方へ目を向けた。
「昔も同じだったぞ」
おじいちゃんが、鍋をかき混ぜながら言った。
「昔?」
「ユクルが外と関わるって言い出した頃だ」
ユクルさんが少しだけ目を細める。
「あのときも、喜んだやつばかりじゃなかった」
「……そうだったね」
「人間と関われば何が変わるのか。今までの暮らしはどうなるのか。怖がるやつもいた」
ハルさんが静かに聞いていた。
「朔さんが、長のそばにいた頃ですね」
「ああ」
「そのとき、朔さんはどうしたんです?」
「外へ出た」
「え?」
「知らないものを怖がってるなら、まず俺が見てくるしかなかったからな」
おじいちゃんは鍋をかき混ぜながら、少しだけ目を細める。
「それと、歩いた」
「歩いた?」
「川沿いでも、林の奥でも、用があれば自分で行った。そこで暮らしてるやつの話は、そこへ行かないと分からんこともある」
「……朔太郎、そんなことしてたの?」
「お前が外を見てこいって言ったんだろ」
「それは覚えてるよ」
「里の中も見なきゃ意味ないだろ」
おじいちゃんが呆れたように言う。
ハルさんが小さく笑った。
「朔さんらしいですね」
「座って聞いてるだけじゃ、見えないもんもあるからな」
それだけ言うと、おじいちゃんはまた鍋へ向き直った。
ハルさんは少し考えてから、ユクルさんを見る。
「長は、ずっと先の暮らしまで考えています」
「うん」
「でも、皆が同じところまで先を見られるとは限りません。それに、こちらからは見えていない不安もあると思います」
ユクルさんは黙って豚汁を見つめた。
「……そうだね」
「急いで変える必要はないと思います」
「でも、変えなきゃいけないこともある」
「ええ」
ハルさんは静かに笑った。
「だから、急ぐのではなく、分かるように伝えながら進めればいいんじゃないでしょうか」
おじいちゃんが横からぼそりと言う。
「それと、自分で見に行け」
「はい」
なぜかハルさんが素直に返事をした。
「私も?」
ユクルさんが聞く。
「お前が一番行け」
「……はい」
今度はユクルさんまで背筋を伸ばした。
「……それなら、できるかもしれない」
「はい」
私は三人の会話を聞きながら、鍋の火を弱めた。
里の長と、今の右腕。
そして、昔その隣にいたおじいちゃん。
森の奥で暮らすコロポックルたちのことを、こんな小さな店で豚汁を食べながら話している。
なんだか少し、不思議な光景だった。
「ハル」
「はい?」
「明日の集まり、少し話すことを変えよう」
「分かりました」
「それから、森のあちこちで暮らしている者たちの話も聞きたい」
ハルさんが少し考える。
「川沿いと、北の林。それから丘の方にも声をかけてみます」
「お願いできる?」
「ええ。それぞれのまとめ役に聞いてみます」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ハルさんはそう言って、もう一度豚汁を口に運んだ。
「……美味しいですね」
「でしょう?」
「はい」
ユクルさんも頷く。
「ここに来ると、考えがまとまるんだ」
「それは良かったです」
私は笑って、二人の空いた小鉢を下げた。
その頃には、外の雪も少し強くなっていた。




