それぞれの夜
私は豚汁をもう一杯よそい、熱燗の準備に取りかかった。
しばらくすると、店の中に味噌と酒の匂いが混ざり始める。
銀だらも、ちょうどいい頃合いだった。
おじいちゃんが焼いている銀だらが、網の上でじゅう、と音を立てる。
西京味噌の甘い香りが広がった。
豚汁と熱燗を吉原さんの前へ出す。
そのとき。
また入口のベルが鳴った。
「邪魔するぞ」
「あ、鹿野さん。今日も来てくれたんですね」
暖簾をくぐってきた鹿野さんは、いつものように小さな角を頭に残したまま、カウンターへ向かってくる。
「今日も寒いですね」
「山はもっと冷える」
「雪、積もってます?」
「上の方はな」
鹿野さんは空いた席へ座ると、隣を見た。
そこには、豚汁をすすっているユクルさん。
一瞬だけ、鹿野さんの目が細くなる。
「……珍しいな」
「そう?」
「今日は一人か」
「うん。少し息抜き」
それだけのやり取りだった。
どうやら、二人は前から知り合いらしい。
私はきのこの醤油漬けも、小さな器に盛ってユクルさんの前へ置いた。
「鹿野さん、今日は何にします?」
「銀だら」
「やっぱり」
「何がやっぱりだ」
「匂いで決めた顔してましたから」
「悪いか」
「悪くないです」
私は笑いながら、銀だらをもう二切れ焼き網へ乗せる。
「お酒は?」
「熱いやつ」
「はいはい」
ユクルさんが隣から口を挟んだ。
「鹿野くんは、いつもそれだね」
「そっちこそ、酒は嫌いじゃないだろ」
「今日はまだ頼んでないよ」
「まだ、か」
「あとで頼む。甘口のやつをね」
やっぱり頼むんだ。
私は何も言わず、大根と厚揚げの煮物を小鉢に盛った。
「ユクルさん、これもどうぞ。甘口のお酒も温めますね」
「ありがとう」
鹿野さんの前にも、温めた酒を置く。
よく味の染みた大根を箸で割ると、湯気がふわりと立つ。
ユクルさんはそれをひと口食べ、満足そうに目を細めた。
「うん。いいね」
「今日は味がよく染みてますよ」
「厚揚げもおいしい」
「全部少しずつって言った人が、一番ちゃんと食べてますね」
「ちゃんと食べないと朔太郎に怒られるから」
「俺はそこまで言ってない」
おじいちゃんが焼き網から銀だらを上げる。
西京味噌の焦げた甘い香り。
表面にはこんがりと焼き色がつき、箸を入れれば、ふっくらした白い身から脂がじわりと滲んだ。
「はい、吉原さん。銀だらも焼けましたよ」
「お、いいねえ」
「鹿野さんのも今焼けますから」
「急がなくていい」
そう言いながら、鹿野さんの視線はしっかり焼き網へ向いている。
「見てるじゃないですか」
「見てない」
「見てましたよ」
「気のせいだ」
昨日も似たようなやり取りをした気がする。
吉原さんは熱燗をひと口飲み、銀だらの身を箸でほぐした。
「うまいなあ。こういうの食うと、家帰って自分で何か作る気なくなるね」
「奥さんに怒られますよ」
「今日は出張帰りだからいいの」
「それなら許されそうですね」
私が笑うと、吉原さんも肩を揺らした。
その隣では、ユクルさんがきのこの醤油漬けをつまんでいる。
頃合いよく温まった酒を、そっとユクルさんの前に置く。
「これも秋に採れたもの?」
「そうですよ。鹿野さんが持ってきたものとは違いますけど、山に入る人から分けてもらったやつです」
「へえ」
ユクルさんは一つ口に入れ、ゆっくり噛んだ。
しばらくして。
「……難しいものだね」
「何がです?」
「みんなが暮らしやすいようにと思ってるんだけどね」
「急にどうしたんです?」
「いや、ちょっとね」




