今夜は豚汁
少し休んでから店へ戻ると、窓の外はもう薄暗くなっていた。
昼に降り始めた雪は、今も細く降り続いている。
私は軒先に掛けたままだった『喫茶 こもれび』の看板を外し、代わりに少し小ぶりな木の看板を掛ける。
――小料理屋 おぼろ月。
軒下の灯りを点ける。
暖簾を掛け、その端をきちんと整えた。
戸の脇の木札を、『CLOSED』から『OPEN』へ。
「よし」
ふっと。
店を包む空気が変わる。
昼のまじないとは違う、もう少し深くて、やわらかな気配。
人と、人ならざるものが、同じ場所で過ごすための夜の術だ。
「美月」
店の中から、おじいちゃんの声がする。
「なに?」
「これ、味見しろ」
「うん」
暖簾をもう一度だけ確かめてから、中へ戻る。
厨房では、大きな鍋から白い湯気が立っていた。
「今日は何?」
「豚汁」
「いいね」
小皿に少し取り分けてもらい、ふうふうと冷まして口へ運ぶ。
味噌の香りと、柔らかく煮えた大根の甘み。
そのあとから、生姜がほんの少し追いかけてくる。
「おいしい」
「そうか」
「もうちょっと食べてもいい?」
「客の分なくなるぞ」
「そんなに食べないよ」
おじいちゃんは呆れたように鼻を鳴らした。
私は小皿を置き、開店準備を続ける。
からん、と入口のベルが鳴った。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
反射的に返事をして、入口を見る。
暖簾の向こうから、白い髭を蓄えた男が入ってくる。
仕立てのいい濃い色の上着。
落ち着いた佇まい。
そして、見慣れた穏やかな顔。
「あ」
私は瞬きをする。
男は店の中へ入ると、こちらを見て穏やかに笑った。
「こんばんは、美月」
「ユクルさん、こんばんは」
「うん」
私は思わず、おじいちゃんを見る。
おじいちゃんはまったく驚いた様子もなく、鍋をかき混ぜていた。
「来たぞ」
「見れば分かるよ」
「そうか」
ユクルさんはいつものことのようにカウンター席へ腰を下ろす。
「今日は寒いね」
「雪降ってますからね」
「森の方はもう少し積もってるよ」
「そうなんですね」
そこまで話してから、私はふと思い出した。
「……あの」
「なに?」
「今日、お手紙届きましたよ」
「ああ」
「買い物の」
「よかった」
ユクルさんは白い髭を撫でながら、満足そうに頷いた。
「それで、ジャムは?」
「まだです」
ユクルさんが止まった。
「まだ?」
「今日、手紙が届いたばかりですよ」
「ああ」
少し考えてから、ようやく思い出したらしい。
「そうだった」
厨房の奥から、おじいちゃんの低い笑い声が聞こえた。
「ユクル。美月を急かすな」
「急かしてないよ」
「ジャムのことしか考えてないだけだろ」
「失礼だなあ」
そう言いながらも、ユクルさんは楽しそうだった。
「まあ、急がなくていいよ。でも、イチゴのジャムは忘れないでね」
「はい。それはちゃんと覚えておきます」
「大事だからね」
真顔だった。
私は思わず笑ってしまう。
おじいちゃんの言っていた通り。
どうやら、本当にこだわりがあるらしい。




