こもれびのおまじない
十一時の少し前。
私は『喫茶 こもれび』と書かれた木の看板を軒先へ掛けた。
いつの間にか足元についてきていたたびが、店の入口にちょこんと座り、あくびをひとつする。
「もう開けるよ」
「にゃ」
分かっている、とでも言うように尻尾を揺らす。
次に、乾かしたローズマリーとタイム、それに、おばあちゃんから教わったこの辺りで採れる香草を少し束ねる。
入口の脇に吊るし、指先で形を整えると、ふわりと青い香りが広がった。
昼の『こもれび』にも、まじないは必要だ。
軒先に掛けた看板と、入口に吊るした香草の束。
この二つが揃うことで、昼のまじないは働く。
夜の『おぼろ月』ほど強いものではない。
人ならざるものの姿が変わることもないし、見えないものが見えるようになるわけでもない。
ただ、そこにいるものを少しだけ店の中に馴染ませる。
気づかなくてもいいものなら、なんとなく気にならない。
そのくらいの、小さなまじないだ。
戸の脇に掛けてある小さな木札も裏返す。
『CLOSED』の文字が隠れて、『OPEN』が表を向いた。
私は香草の束を結ぶ紐をきゅっと締め直し、窓を少しだけ開ける。
冷たい空気が店の中へ入り、珈琲の香りと混ざった。
「よし」
小さく呟く。
戸を開ける。
たびはその場で店の中を一度だけ覗き込むと、
「にゃ」
短く鳴いて、くるりと踵を返した。
「はいはい。またあとでね」
尻尾だけを揺らして、たびは住居の方へ戻っていく。
それを見送ってから、私は店の中へ戻った。
ほんの少しだけ、空気がやわらいでいる。
昨夜まで出汁と酒の香りに包まれていた店には、今度は珈琲の香りが広がっていた。
夜の『おぼろ月』は、おじいちゃんと二人。
けれど、昼の『こもれび』は基本的に私一人だ。
「さて」
エプロンの紐を結び直す。
「今日ものんびりやりますか」
入口の木の看板が、冷たい風に小さく揺れた。
――喫茶 こもれび。
今日も、この店のもう一つの一日が始まる。




