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こもれびと、おぼろ月  作者: 日旅こつめ


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おぼろ月の店じまい

ハルさんが帰ってしばらくして、知佳さんと葉月さんも立ち上がった。

 葉月さんがふと足を止め、窓の外——遠くの闇に包まれた山並みへ視線を向けた。

 まるで、人間の耳には届かない微かなざわめきを聞き取っているかのように。

 それから私のそばへ寄り、小声で言った。

「知佳ちゃんを送ったら、山へ戻ります。そろそろ、山が落ち着かなくなる時間なので」

 私は小さく頷いて、それから二人のお会計を済ませる。

「じゃあ美月ちゃん、またねー」

「はい。気をつけて帰ってください」

「葉月がいるから大丈夫。私の家、すぐそこだしね。葉月こそ気をつけて帰りなよ?」

「まあ、あそこは私の庭みたいなものだからね」

 二人の声が遠ざかっていく。

 店の中に、急に静けさが戻った。

 時計を見ると、十時少し前。

「今日はここまでだな」

 おじいちゃんが言う。

「はーい」

 私は外へ出ると、暖簾を外した。

 看板の灯りを消す。

 木の看板を軒先から下ろす。

 それから、入口の脇に掛けてある小さな木札を裏返した。

 『OPEN』の文字が隠れて、『CLOSED』が表を向く。

 外した暖簾をきれいに畳む。

 ふっと。

 店を包んでいた何かが、静かにほどけていくのを感じた。

 今日も無事に終わった。

「お疲れさま」

 小さく呟いて、店の中へ戻る。

 おじいちゃんはもう洗い物を始めていた。

 私は空いた皿や小鉢を集め、カウンターを端から順に拭いていく。

 醤油差しの口をきれいにして、七味の瓶を元の場所へ戻す。

 椅子も一脚ずつ、少しだけ引いて床を掃いた。

 さっきまで話し声と笑い声でいっぱいだった店が、少しずつ夜の静けさを取り戻していく。

 厨房からは、水の流れる音。

 器同士が触れる、小さな音。

「美月、そっち終わったか」

「もう少し」

 使い終わった布巾をすすぎ、固く絞る。

 最後にもう一度、カウンターを長く拭いた。

 昼も夜も使う場所だから、閉店後のこの時間は案外大事だ。

 今日の汚れを、今日のうちに落とす。

 物はいつもの場所へ戻す。

 明日の私が困らないように。

 おばあちゃんが、昔からそうしていた。

「そこ、もう十分だろ」

「分かってる」

「さっきから同じところ拭いてるぞ」

「……ほんとだ」

 思わず手を止めると、おじいちゃんが小さく笑った。

「疲れてるなら、残りは俺がやる」

「大丈夫。これくらいできます」

 そう言って、今度こそ布巾を畳む。

 きれいになったカウンターを見渡すと、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 明日になれば、ここにはまた珈琲の香りが広がる。

 今夜の『おぼろ月』は、これでおしまいだ。

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