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婚約破棄も濡れ衣も、もう結構です。——ただし宰相閣下、貴家が伯爵位を賜ったと書かれたその一枚は、いつ漉かれた紙でしょうか  作者: 御茄子之与一


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第009話 祈りが、乱れていたのでしょう

儀まで、あと二十五日。


保管室の山が、いつから積まれ始めたのか。あの問いは、まだ答えを持たない。あの部屋へ通って三日、束は日ごとに増えていった。


それでも今日は、その先を追う日ではなかった。決着がつくのは、別の一件——三日前に日取りを告げられた、副本の結審だった。


朝一番、医務室へ寄った。ノエルは寝台に半身を起こし、こちらを見るなり、口元だけで笑ってみせた。


「アニエスさま。……もう、起き上がれます」


声に張りが戻っている。右の手だけが、掛け布の内から出てこない。


「お手のほうは、いかがです」


「……思うように、動きませぬ」


短く答えて、ノエルは顔を伏せた。それ以上は、訊かなかった。あの夜の代償は、まだこの人の内に残っている。


石段を運ばれた背中の重みを思い出すと、指先が冷えた。守れなかった、とまでは言わない。それでも、この手を危うくしたのは、わたしが引き受けさせた仕事の重さだった。


「今日は、あの場に出られるのでしょう」


「はい。……行って参ります」


「……ご武運を」


まっすぐな声だった。短い言葉に、頷きだけを返す。背を向けたとき、掛け布が、その下でまた一度、動いた。


書庫に戻ると、ジョスランが道具箱の脇に立っていた。何も言わず、折り畳んだ紙を一枚、こちらの袖口へ差し入れる。


開くと、細かな数の列が並んでいる。どの葉とどの葉が一枚の紙の裏表になるのか——あの原簿の綴じの組みを、番号だけで書き出したものだ。


「……ありがとう存じます」


「目録に、割りが載っていた。原簿そのものには、俺も触れられない。……そこから先は、あなたの手だ」


短く言って、彼は道具箱へ目を落とした。三年、この部屋の記録を読み続けてきた男にしか、書けない一枚だった。


「……行ってくるといい」


門前で聞いた、ひと冬の沈黙が耳の底に蘇る。あの家の帳面は、神殿に預けられ、本物とも偽とも告げられずに戻ってきた。同じ座が、今日はこの一枚に何と言うのか。


渡り廊下を抜けるころ、朝の光はもう高い位置にあった。石の手すりは、掌を当てると冷たい。監査院の石段では、靴音だけが妙に大きく響いた。



結審の間は、監査院で一番奥にある、天井の高い部屋だった。長机の奥に審問長ファブリス、その脇に神殿の座が設けられ、大祭司トリスタンが白い法衣で座している。香の匂いが、石の壁にまで染みているようだった。


監査官たちの後ろには、神殿の従者が数名、静かに控えていた。祈祷(きとう)が呼ばれる審理は、そう多くない。仰ぐよう申し入れたのは、儀を主宰する宰相だと聞いていた。格式を整えるため、と。


壁際の小机には、リュカが控えている。書役として、記録を取る手だけが動いていた。


上座近くの席に、宰相がいた。ギデオン・ヴァルドー——セルジュが去り際に言い残した、伯父上その人である。


視線は、大祭司の方だけに向けられている。名を呼ばれることも、目を合わせることもなかった。歯牙にもかけられていない、と分かった。


「本日は、副本の真贋について、神殿の祈祷鑑定を仰ぐ」


乾いた声で、ファブリスが場を開いた。


大祭司が立ち、副本を両手に捧げ持つ。その両手が、わずかに震えている。祈りの重さか、老いた身のものか、傍目には分からない。


目を閉じ、聞き取れぬほど低い声で言葉を紡ぐ。長い沈黙のあと、再び目を開いた。部屋中の視線が、その唇に集まる。


「——本物にございます」


朗々とした声が、部屋に響いた。居並ぶ監査官たちの間に、安堵とも落胆ともつかぬどよめきが広がる。


祈祷が本物と告げれば、書状はこのまま儀の綴りに残る。冤罪は晴れないまま、降格だけが続く。それが今日、覚悟していた最悪の形だった。


新しい札は、切らない。持ち出すのは、既に手にしているものだけだ。膝の上で、指先が震えていないことだけを確かめる。この場で崩せなければ、次の機会は儀の当日まで来ない。


「恐れながら、原簿を拝見したく存じます」


ファブリスが、顎を引いた。


「かまわぬ。持て」


手袋を先に通してから、運ばれてきた原簿へ手を伸ばす。分厚い一冊は、両手で支えねば持ち上がらないほどの重みがあった。表紙の革は、幾十年の指の脂で黒ずんでいる。


丁付けを、端から数える。監査の立会いで副本を数えたときと、同じ指の運びになった。


袖の控えを、指先で追う。申し立てに記された葉の番号——その葉と一枚の紙を分け合う相手が、どの丁になるのか。数の列が、教えていた。


「丁の数は、合っております。ですが、合っている数は、まだ何も申しません」


数だけなら、後からでも合わせられる。


「大祭司様の祈祷が、本物と仰った副本は——原簿の、この葉が抜けたゆえに、代わりに提出された、という申し立てにございました」


原簿を、その折丁の中ほどまで開く。綴じ目を跨いだ紙面が、机の上で平らに広がった。紙の擦れる音だけが、静まった部屋に響く。


開いたまま、向こうへ滑らせていく。原簿は、ファブリスの手元まで届いた。


「その副本が抜けたと申します葉の、対の葉は——いまも原簿に綴じられております。紙は、一続きです」


部屋が、静まり返った。


「——切り取って抜いた、とは申せぬのか」


ファブリスが、身を乗り出す。


「切り口はございません。綴じ代に、切り取った耳も残っておりません。この紙は、綴じられた日から今日まで、一度も切られておりません」


大祭司の声が、初めて揺れた。


「……では、失われたと申し立てられた葉は」


「はじめから、失われてなどおりません。この一枚が、そう申しております」


官吏たちが、互いに顔を見合わせた。大祭司の顔から、色が引いていく。


後ろの従者の一人が、隣へ小声で問うた。


「……祈祷が、外れたのか」


「……構わぬのか、ドレーヌ嬢。わたくしの祈祷に、異を唱えると」


「異は、唱えておりません。紙を、お見せしただけにございます」


静かに返した。それだけで足りた。


宰相の声が、初めてこの場に響いた。祈祷を呼び入れた当人の声が、大祭司にだけ、向けられる。


「祈りが、乱れていたのでしょう」


静かな声だった。責めてはいない。それでいて、退路はそこにしかないと、暗に示す声だった。


大祭司は、長く黙り込んだ。その間、一度だけ、目が遠くへ流れた。


「……祈りに、乱れがあったやもしれませぬ。判定を、撤回いたします」


絞り出すように、大祭司が告げた。誰も、それ以上は追わなかった。


「書役。本日の裁可は、撤回されたものとして監査の記に留めよ」


壁際で、筆が短く走る音がした。


ファブリスが、書面に目を落とし、乾いた声で場を締めくくった。


「祈祷の裁可と、監査の結審は、別のものと心得よ。祈祷が本物と告げようと、告げまいと、結審が動かすのは疑いの有無に限る。——ドレーヌ、其の方への嫌疑は、これ以上問えぬと判じる」


「祈祷と物と、いずれを先に採るかを定めた法は、この国にはない。本日この場は、物を採った。ただそれだけの前例にすぎぬと、心得よ」


嫌疑不十分。冤罪は、これ以上問われない。


復職の言葉はない。祈祷の権威は、制度としては何一つ傷ついていない。誰が書いたのか——その一点にだけ、扉は開かなかった。勝ちと呼ぶには、静かすぎた。


「儀の綴りは、儀でしか外れません。監査の結審は、綴りを動かせません」


ファブリスの声が、静かに付け加えた。この身を縛った規則が、そのまま副本を守っていた。


席を立つ間際、口が動いた。


「外した祈祷の記録は、どこに残るのですか」


誰も、答えなかった。大祭司は目を伏せ、ファブリスは書面を閉じた。宰相は、最後まで一度もこちらを見なかった。


部屋を出るとき、リュカだけが、筆を止めて一礼した。外の日はまだ高い。だが、今日という日が終わった実感は、どこにもなかった。



夜、書庫の机に着いて、朝の医務室で訊けなかったことを思い出した。あの夜、意識の際にノエルが呼んだ名。マリアンヌ様も、同じことを——母の名を、あの人は口にした。


今日まで、母の帳面を一度も開いていない。理由を、うまく言えなかった。忙しさのせいだと思っていたが、違う。開けば何かが変わると、体のどこかが分かっていたのだ。


臆病だったのではない。もう、遠ざけておく理由がなかった。


指が、埃を払う。表紙を、開いた。革の表紙は、記憶にあるより薄く感じられた。母の指の跡が、今もかすかに残っている。


古い頁を繰るうち、見覚えのある語の並びに目が留まった。境界の裁定。ソレル領。ヴァルドー。あの副本の文言と、驚くほど似た筆致で綴られている。同じ出来事を、同じ順で書き記した控えだった。年号までは、まだ読み取れない。


今日、本物とされたあの一枚が、母の手で、この帳面に写し取られている。鼓動が、耳の奥で速くなった。


途中の数行が、削られたまま残っていた。紙の表面が、そこだけ薄く波打っている。誰かが、意図して削り落とした跡だった。


削られた行の下には、まだ字がある。読めなくとも、そこが墨で埋まっていたことは、紙が語っていた。物には、まだ言えることがある。


幼い日、母が五倍子(ふし)を溶いた液を、削られた古文書の上に刷いていたのを覚えている。王命で色を戻すよう命じられた一冊だった。


刷くたび、消えていたはずの字が、影のように紙の底から浮かび上がってきた。あのとき部屋に満ちていた渋い匂いが、今も鼻の奥に残っている。


あれは、一度きりしか使えない術だと、母は言っていた。使えば、紙そのものが傷む。院長の許しがなければ、触れることも許されない。


道具箱の底から、五倍子の小瓶を取り出す。使うと決めた以上、迷いはなかった。


その足で、院長室へ向かった。夜更けに人を訪ねる非礼は、承知の上だった。灯りは一つきり、ほかに誰もいない部屋だった。


「これを、母の帳面に使う許しをいただきたく存じます」


オーブリー院長は、書き物の手を止めぬまま、短く答えた。


「これ以上、院を掘るな」


「母の帳面にございます。院の記録ではございません」


「同じことだ」


顔を上げぬまま、それだけを言った。食い下がる言葉を、もう一つ用意していた。だが、口にする前に、書き物の手が、止まった。


一礼し、部屋を出た。閉じた扉の向こうで、何かが動く気配はなかった。書庫へ戻る道が、来たときより遠い。手の中の小瓶だけが、まだ使われるのを待っている。


母は、この文書を知っていた。——知っていて、わたしに何も言わずに死んだ。


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