第010話 外の光を見た頁
儀まで、あと二十三日。
「これ以上、院を掘るな」
一昨夜の院長の声が、まだ耳の奥に居座っている。最後まで、顔は上がらなかった。
五倍子の小瓶は、道具箱の底に戻したままだ。削られた行の下を読む道は、閉じている。
二晩、考えた。悔しさは、思ったより早く底をついた。代わりに残ったのは、母のことだった。
あの文書を知っていて、わたしには一度も口にしなかった人。問い質す相手は、もういない。ならば、手を動かすしかなかった。
母は、あの帳面のほかにも記録を残していたはずだ。院の記録官として、担当した修復の一件ごとに名と日付を書き入れる仕事がある。
母の帳面と院の記録は同じことだ、と言われた。その言い分は、いまも動かない。だが院長が禁じたのは、五倍子を刷くことだ。
薬を使わず、読める字を読むことまでは、まだ何も言われていない。——通る理屈ではないと、自分でも思う。それでも、通らない理屈しか残っていなかった。
昨日は割り当ての写しを終えるうちに日が暮れた。棚に手をつけられるのは、今朝が最初だ。動かなければ、二十三日はただ減っていく。
朝一番に、書庫を出た。渡り廊下は、まだ冷えている。吐く息が、うっすらと白い。秋は、思っていたより早く深まっていた。
修復記録の棚は、書庫よりひとつ奥、湿気を避けるための小部屋にある。窓はなく、灯りは入り口の一つきり。
棚に並ぶのは、年代ごとに束ねられた担当簿の列だった。表紙の年号は、擦れて読みにくいものが多い。
目当ての年の綴りは、棚の高い位置にあった。踏み台を使い、埃を払いながら確かめていく。
薄い革を指に通し、母マリアンヌの名がある年月の分だけを、順に抜き出した。四〇〇年から、四〇八年まで。母が記録官として名を残した、九年分の綴りだった。
両腕に抱えると、思っていたより重い。古い紙に、微かな墨と埃の匂いが混じっていた。
両腕がふさがったまま、廊下を戻る。何度か綴りがずれ、そのたび抱え直した。
書庫の扉を肩で押し開けると、卓の向こうから足音が寄ってきた。ジョスランは抱えた綴りの高さを一目で見て取り、上から半分を持っていく。
「今日も、ここか」
「はい。……母の担当簿を、辿ります」
「五倍子は」
「使いません。読める範囲だけを、読みます」
「……許しは、出なかったのか」
「出ませんでした。これ以上、院を掘るなと」
彼はそれ以上訊かず、卓の反対側に道具を広げはじめた。三年前から繰り返してきた、いつもの目録の束だ。
何を探しているのかは、こちらも訊かない。訊いても答えは変わらないと知っている。探し続けてきた物がある、と分かっていれば足りた。
互いの調べ物は別々でも、机は同じだった。
綴りを、端から繰る。修復を終えた文書の名と日付だけが並ぶ、地味な頁が続く。何年分も同じ書式で、同じ手で書かれていた。
目が慣れ、頁をめくる指が速くなる。光にかざしては戻す、その繰り返しだった。
「何を見ている」
呼ばれて、頁から目を上げた。
「焼けにございます。綴じられたまま長く閉じていた頁は、綴じ目に近い側が薄く、外側の端だけが濃く焼けます」
「光か」
「はい。棚へ納めるまでの何年か、修復室の卓に積まれたまま同じ向きで光と埃を受けますと、頁の中に淡い段差ができます。……墨の焼けではございません。光の焼けにございます。閉じたままなら、綴じ目の際までは、光が回りません」
彼は短く頷いて、自分の頁へ戻った。
繰るうち、一枚の頁で指が止まった。周りの頁と、紙の色が違う。
窓辺へ運び、光にかざす。これまで繰ってきた何十枚もの頁は、揃って同じ形の段差を持っていた。
この一葉には、その段差がない。端も、綴じ目の際も、同じ濃さで焼けている。
頁全体が、一度に外の光を浴びたかのようだった。
指先が、冷たくなった。見誤りかと思い、隣の頁ともう一度見比べる。
数枚先の頁とも並べてみる。この一葉だけが、違っていた。
「この頁は、ずっと閉じられていた頁の焼け方をしておりません。——一度、外の光を見ています」
ジョスランが、手を止めてこちらを見た。
「いつ、外に出た」
「そこまでは、物から申せません。焼けは、外に出たか出ていないかしか語りません。どれだけの間か、いつからいつまでか——それは、物ではなく、記録の役目にございます」
断定は、そこまでで止める。
頁の下段へ目を落とす。担当した者の署名欄。母の名の並びが、途中でふつりと切れていた。
「……ここが、空いています」
ジョスランが、卓を回り込んで隣に立った。覗き込む横顔に、驚きはない。探し慣れた者の目で、頁の余白を見つめていた。
肩が触れそうな近さに、息を詰めた。それから、紙の向きを彼の側へ半分ずらす。手袋の指で、空白の行をなぞる。
「初夏の記入を最後に、次の日付が現れるのは、秋のはじめです。この三か月、母の担当簿には、何も記されておりません」
「休んだのか」
「いいえ。母は、体を崩したときでさえ、日をおいて必ず追記を残した人です。……この一葉は書きかけのまま開いて置かれ、三か月後に、同じ頁の続きから書き始められています」
自分の声が、少し速くなっていた。
「綴りを開けば、書きかけの頁が表に出ます。初夏に手が止まってから、秋にまた書き始めるまで——開いた側にいたのは、この一枚だけにございます」
綴りの背へ、彼の視線が落ちた。
「……開けば、必ずこの頁が出る、というわけか」
九年分の日付を、一つずつ指で追う。追い終えて息をつくと、向かいが静かだった。数えているあいだ、頁をめくる音がひとつも立っていない。
こちらが綴りを閉じると、紙を繰る音がまた戻ってきた。何も訊かれないのが、有り難かった。
週に一度は必ず、何かしらの修復の記録がある。多い月もあれば、少ない月もある。
「九年、一度もか」
「この三か月を除いて、一度もございません」
この九年の最初の年——四〇〇年に、母は祖父から修復の仕事を引き継いでいる。
規則正しく積み重なった九年の中で、この一か所だけが異質だった。表紙の年号を確かめる。四〇六年の綴りだ。
昼を過ぎたことに、鐘の音で気づいた。そのまま、貸出簿にも当たる。この綴りが院の外へ出た記録は、どこにもない。
持ち出されたのなら、借り手の名が要る。名がないなら——記録の上では、どこへも動いていない一冊だった。
「三か月、母の記録が止まっています。——この一葉が開いていたのは、その三か月です」
「三か月で、何が分かる」
「まだ、何も。……ですが、これまでは物か記録か、片方しかございませんでした。今日、初めて両方が揃いました」
「揃うと、何が変わる」
「ひとつだけなら、見落としで済ませられます。二つが同じ時期を同じ形で指したとき、初めて手掛かりと呼べます」
「……二つ、か」
「はい。二つ目を必ず探せというのが、母の口癖でした」
まだ十にもならない頃、修復の作業台の隅で色褪せた頁を渡された。
「これは、何色に見える」と訊かれ、思うままに答えると、母は静かに首を振った。
「一つだけでは、当てにならない。もう一つ、探しなさい」
今、その言いつけのとおりに、二つの穴を並べている。教えた本人は、もういない。
隣の頁に、別の書き込みがある。日付の数字が一度書き直され、上から重ねた跡が薄く残っていた。
「これも、何かの印か」
彼の指が、その箇所を押さえていた。
「いいえ。……一度なら、普通にあることです。書き間違いは、誰にでもございます」
「一度なら」
その言葉だけを、彼が拾って繰り返した。
「はい。一層だけ重なった訂正は、何百という記録のどこにでも紛れております。怪しむべきは、それが幾重にも重なったときにございます」
「幾重にも、とは」
「同じ場所に、二度、三度と手が入っているものです。書き直しを、さらに書き直す。そこまで来れば、直したかったのは字ではなく、書かれていた事実のほうにございます。……この頁は、そこまでではございません」
ジョスランは頷き、それきり指を離した。だが、その一言を頭のどこかに留めた顔をしていた。
その三か月の間に、何があったのか。誰が持ち出し、どこへ運び、何をしたのか——どれも、今は言えない。
空白の三か月と、外の光を見た一葉。二つの穴が同じ輪郭を持っていることだけが、今日わかったことだった。
母の手が、たった一度、丸ごと止まっている。
書き残さなかったのは、書けなかったからか、書かなかったからか。どちらであっても、答えはもうこの綴りの中にはない。
日が傾き、卓の上に長い影が伸びる。渡り廊下を行き交う足音が、遠ざかっていった。遠くで、鐘がひとつ低く鳴った。
ジョスランは、まだ自分の綴りを繰っていた。見つかった様子はない。手を止めずにいる背中に、焦りはなかった。
今日見つからなくても、明日また同じ棚を開く人だ。その静かさに、こちらの三か月ぶんの空白が、急に軽く思えてくる。
「……今日は、進んだか」
「三か月分、進みました。——九年のうちの、三か月です」
言い終えると、向かいで肩が一度だけ揺れた。短く、息だけの笑い声がした。
「……俺は、まだ一日も進んでいない」
「今日は、ここまでにいたします」
「ああ」
道具箱を閉じながら言うと、彼も自分の綴りを閉じた。道具を棚へ戻す間、灯りはこちらが持つ。高い段へは、彼が手を伸ばした。
二人分の足音だけが、書庫の暗がりに残る。
道具箱の底で、五倍子の小瓶が小さな音を立てた。使える日は、まだ来ない。今日一日が空白のままではなかったことは、確かだった。
窓の外の光は、いくらか赤みを帯びていた。灯りを一つ残し、卓に向き直る。母の担当簿は、今日の分を棚へ戻さず、傍らに積んでおいた。明日も、続きがある。
向かいの椅子に、彼が座り直す気配がした。火が小さく音を立てるほかは、何も聞こえない。
いつもなら、灯りを落として一人になる頃合いだ。今夜は、その気配を、消さないでおくことにした。




