第011話 一晩の水、四十年の紙
儀まで、あと二十二日。
昨夜、灯りを落とさずに過ごした夜から、丸一日が過ぎた。写字生の割り当てに埋もれ、母の担当簿を開く暇もないまま日が暮れた。
夜更け、書庫を出て門前へ回る用があった。ジョスランが、預かり物の様子を見ておきたいと言い出したからだ。
昼から降り続いた雨は、まだやんでいない。降格の身で夜更けに院を歩けば要らぬ詮索を招く。人目の少ない裏手を回るのが、いつからか習いになっていた。
物置に近づくころ、普段は聞こえないはずの音がした。水が、床を叩く音だった。
「……あれは」
ジョスランが、先に戸へ駆け寄る。追いついたときには、もう戸が開け放たれていた。
軒先の雨どいの継ぎ目が外れ、雨水が壁を伝って床まで落ちている。
床に置かれていたのは、蓋つきの小箱だった。中身は、マルグリットの家伝の台帳——先だっての検分で、危ういのは紙より綴じのほうだと見て取った、あの一冊だ。
持ち帰るより院で預かるほうが安全だと申し出て、いつでも返せるよう、受付の脇のこの物置に納めてあった。
蓋の合わせ目から、じわりと水がしみ込んでいる。隙間から覗くのは、色褪せた革表紙だった。隅に、ソレル家の紋が小さく型押しされている。
わたしの家は、代々の書き物を棚ひとつぶん残している。この家に残ったのは、たった一冊きりだ。その一冊が、いま水を吸っている。
事故かどうかを考える間はなかった。人を呼びに走れば、それだけ時が経つ。
「紙は、濡れてから朝までが勝負です」
箱を持ち上げると、底に重みが増えている。蓋を開けると、背に近い側から三分の一ほどが、すでに水を吸っていた。
「修復室へ。今すぐです」
雨の中、箱には自分の外套をかぶせた。修復室に着くころには、袖の先まで冷たく濡れていた。
この時間、灯りの点いた部屋は修復室ただ一つだ。使い慣れた板と重しを、棚から下ろす。
「院の道具を、夜通し借りることになります。明朝いちばんに、院長へ届け出ます」
「叱られるのか」
「叱られます。……朝までに乾かなければ、叱られるだけでは済みません」
まず、綴じの糸を解いた。切れば早いが、この糸は神殿から戻ってきたときのままだ。抜いた順に、卓の端へ並べていく。
「切らないのか」
「この糸も、記録にございます」
台の上に、濡れた頁を一枚ずつ広げてもらう。
「触っていいのか」
「はい。乾く前に手を動かしてください。濡れたまま重ねると、字が写ります」
彼が黙って頁を繰り始めた。手つきは、危なげがない。
濡れた紙は、急に乾かせば反り、しわが固まって二度と伸びない。湿りを保ったまま板に挟み、時をかけて水を抜く。それが唯一の道だ。
墨が滲みそうな頁には、先に乾いた布を当てて余分な水を吸わせる。強く押さえれば、字ごと剥がれる。
火の番はジョスランに任せた。炎が強すぎれば紙は縮み、弱ければ朝までに乾ききらない。
夜半までに全ての頁を板へ入れなければ、しわは固まったまま朝を迎える。残る枚数と燭台の減りを、交互に目で測った。
途中、一枚の頁が指先から滑りかけた。板で挟み込むと、端がわずかに裂けている。薄紙を裏から当て、糊で仮留めして戻した。
「……大丈夫か」
「はい。今のうちなら、まだ利きます」
手が止まったのは、そのときだけだった。
「灯りは、こちらでいいか」
彼が、燭台の位置を調える。光の当たる角度が、こちらの手元に合わせて動いた。
「……助かります」
短く返すと、彼は何も言わず、また火の番へ戻った。
夜が更けるにつれ、部屋には二人分の呼吸の音だけが残った。墨と濡れた紙の匂いがこもり、窓を叩く雨音が、時の流れを教えた。
「……こんなに、丁寧にやるものなのか」
板の間から紙を取り出しながら、ジョスランが訊いた。
「はい。急げば、直したはずの傷が、かえって深くなります」
「誰の紙かも、分からないのに」
「誰の紙でも、同じ手をかけます。持ち主で手を変えれば、それはもう修復ではありません」
言ってから、少し付け加えた。
「……わたしたちが直すのに使う手は、そのまま、偽るのにも使えます」
ジョスランが、板を挟む手を止めた。
「……だから、慎重なのか」
「はい。板の圧ひとつで、紙は伸びも縮みもいたします。乾かす時をずらせば、古くも新しくも見せられます」
ジョスランが、しばらく黙って板を見つめた。
「記録は、消えても、また書ける。……俺の名は、最初からどこにもない」
「なかったことにされた紙も、こうして手を尽くせば、また読めるようになります」
何度目かの板を閉じたとき、向かい側から同じ板に手がかかった。板越しに、重みが半分になる。
「火は、しばらく保つ。そちらを、押さえていろ」
顔を上げたときには、彼はもう次の頁へ手を伸ばしていた。
何刻も同じ姿勢でいると、肩の付け根が鈍く痛みだす。瞼の裏が、乾いて重い。
夜半を過ぎ、雨が細くなるころには、綴じの終わりに近い頁だけが残っていた。
最後の一枚だけは、帳面の紙ではなかった。院で使う公文の紙だ。表題に「ソレル家爵位返上」とある。
申立てを退けるときは、退ける根拠の写しを申立人へ交付する。院の決まりだ。
申立てを継いですぐの頃、この家は「返上はすでに済んでいる」という一枚を答えとして受け取った。
それを捨てずに綴じ込んで、四十年、持ち歩いてきた。
返上を認めていない者にとって、この一枚は答えではない。だから門前でも、老女はこれに触れず、帳面ごと差し出した。
「その一枚だけ、厚みが違うな」
水を吸って、墨の輪郭が太っている。それでも、署名から目が離せなかった。
門前で検めたのは、綴じの傷みと紙の質だけだ。そもそも、字の世代という物差しを思い出したのは、その翌日——ノエルの十年前の筆と今の筆を並べたときだった。
乾かす手を止め、窓辺へ運んだ。
墨は水に流れる。だが、筆の通った道は、墨でなく紙のほうに残る。
強く運べば、その下の繊維が沈む。下敷きの紙から、彼の母の名を拾ったときと、同じ理屈だ。
紙を傾け、灯りを横から這わせた。浮いた墨の下に、細い溝が現れる。
払いの終わりが、跳ねずに、まっすぐ止まっていた。
「……これは」
近くの棚から、古い雑事の綴りを二つ借りた。表紙の年号は、一つが返上の年と同じ、もう一つは二十年ほど下った年だ。
同じように光を這わせる。古いほうの字は払いの終わりが小さく跳ね、新しいほうは跳ねずに止まる。署名の溝は、新しいほうと同じ形だった。
「……本当に、違うのか」
「はい。古い年と新しい年、両側から挟みました。この字は、古い側には入りません」
「手本のとおりに書く、と言っていたな。……その手本は、ずっと同じなのか」
「手本にも、改められた年がございます。写しの稽古では、習いません」
棚から、字の型を年ごとに並べた古い控えを引き出す。傷んだ字を補うとき、その年の型に合わせる物だ。
改定の前と後の頁を開き、卓に並べる。改定は、王暦三六八年。跳ねを残したまま止めるのが前の型、跳ねさせないのが後の型だ。
誰の手であっても、習った年より前の型では書けない。
この一枚に書かれた返上の日付は、王暦三五六年だ。
「この署名の字は、オルドの手本より後の字です。——返上を書いたとされる年には、まだ誰も習っていない字です」
「……つまり」
「この一枚は、返上の年に書かれたものではありません。誰の手かまでは、この一枚からは申せません。ですが、いつより後かは、字が語っております」
溝には、迷いもあった。整った字を、まだ手に馴染ませていない者の筆だ。ドレーヌの家に代々伝わる、迷いのない運びとは別物だった。
なぜ、ソレル家だけが復元されなかったのか。門前で答えの出なかった問いに、紙のほうが先に答えた。
四十年、その理由として持ち出されてきたのが、この一枚だ。
家に残った、一枚きりの院の紙。いちばん確かなはずの一枚が、いちばんの嘘だった。
窓の外が白みはじめていた。板に挟んだ頁は、朝までにどうにか形を取り戻していた。
「……終わったか」
「はい。今夜のところは」
雨は、いつのまにか止んでいた。どこかで鳥が短く鳴いている。
抜いた順に並べた糸で、もとの順に綴じ直す。神殿の綴じは、神殿の綴じのまま返す。
片付ける間に、ジョスランが台所から粥を運んできた。湯気の立つ椀を、黙って差し出す。
「……いただきます」
「給金は出ない。だが、残りをもらう分には、三年、誰にも止められていない」
冷えた指に、椀の熱がしみた。二人で無言のまま、朝の粥をすすった。
板と重しを棚へ戻し、乾いた一冊を小箱へ納めて門前へ回った。受付が開く少し前——いつもの刻限だった。
マルグリットは、門の脇のいつもの場所に来ていた。
「写字生さま。……その箱は」
「マルグリットさん、昨夜、雨どいが外れました。中身は、無事にございます」
小箱を運び、ジョスランが前へ出た。
「ばあさま、無理に持たなくていい。俺が」
「いいえ、結構です。これは、わたしが持ちます」
差し出された箱を、マルグリットが両手で受け取る。蓋を開け、頁を確かめる指が、震えていた。
「父の代から、これだけは肌身離さず持ち歩いておりました。……この歳になって、ようやく人に預ける気になったばかりでしたのに」
「わたしがお預かりを申し出た物にございます。必ずお返しすると決めておりました」
老女の指が、綴じ直したばかりの糸の上で止まった。
「濡れて、傷んでしまったものは、ございましたでしょうか」
「一枚だけ、端が裂けました。裏から薄紙を当てております。……頁は一枚も、失っておりません」
老女は、箱を胸に抱えたまま、しばらく声を出せずにいた。
「ありがとうございます。ありがとうございます、写字生さま」
繰り返す声に、頭を下げるほかなかった。あの署名のことは、まだ告げられない。告げれば、四十年分の答えを、一晩で渡すことになる。その重さを、いま渡す手が思いつかない。
この一枚を写させた元の記録が、どの棚に残っているのか——確かめる先は、幾つも残っていた。
一礼して去る背を、二人で見送った。雨上がりの光が、門前の敷石を薄く光らせている。抱えた箱を確かめるように、足取りは遅い。
その背が角を曲がってから、隣で、ジョスランがこちらを見た。
「……何が分かった」
夜通し濡れた紙に触れていた指先が、朝の風で乾く。告げられなかった一言だけが、まだ手の中に残っていた。
「返上したのではありません。返上したことに、されたのです」




