第012話 削られた一行
儀まで、あと十九日。
一昨日の朝いちばんに、院長へ夜通し道具を借りた顛末を届け出た。濡れた紙、板と重し、燭台の油——一つずつ数え上げていくと、院長は途中で手を上げて止めさせた。
「以後、断りなく持ち出すな。……次はない」
「……申し訳ございません」
「詫びはいい。台帳は、無事に戻ったのか」
「はい。傷んだのは端の一枚です。綴じ直して返しております」
短い問答は、それで終わった。覚悟していたより軽い咎めに、拍子抜けした自分がいた。
そのまま、二日、書庫を休むよう言い渡された。理由は口にされなかった。徹夜明けの目を休ませるためだと、察しはついた。
部屋にこもると、瞼の裏の重みは一日で引いた。だが、水と夜気に晒した指先の荒れだけは、突っ張ったまま戻らない。
休みの間も、写字生の割り当ては日課どおりに届いた。数をこなすうち、指の強張りは幾らか和らいだ。
二日で、儀までの日数が二つ減った。休んでいるあいだも、数は減っていく。
窓の外では、朝の風がいちだんと冷たい。庭木の葉先が、いつのまにか色を変え始めている。
マルグリットに告げられなかった一枚のことは、まだ言葉にできずにいる。署名一つで四十年分の答えを渡すには、辿るべき棚が多すぎた。
今朝、久しぶりに書庫の扉を押した。
ふだんなら、ジョスランは卓で目録の束と向き合っている。だが今日は、戸口の脇に立っていた。腕を組み、何かを待っていたふうだった。
「……お待ちでしたか」
「今日は、こちらへ」
短く言うと、彼は先に立って歩き出す。向かうのは、一度も足を向けたことのない、書庫のいちばん奥の一角だった。
灯りの届かない棚が、両側に連なっている。埃の匂いが、いつもより濃い。踏み台の跡もない。長く人の手が入っていない区画だった。
突き当たりの暗がりに彼が寝起きしていることは、薄々察していた。
棚には、年ごとではなく、人の名で束ねられた綴りが並んでいた。侍女、従者、下働き——宮仕えの者たちの勤めを記した棚だ。
「三年、目録を読んできた。……この棚に、母の名があることも、知っていた」
彼の手が、棚板の縁にかかった。埃を払う仕草もなく、ただ木の縁を掴んでいる。
「今日まで、開けなかった。開けば、何か分かると思っていた。……分からなければ、それきりだとも」
短い沈黙のあと、こちらから訊いた。
「なぜ、今日は」
「あの夜だ。四十年、誰にも読めなかった紙が、一晩で読めた」
そこで一度、言葉が途切れた。続きは、少し遅れて出てきた。三年ぶんの、ためらいだった。
「四十年が一晩で読めるなら、三年も読めるかもしれない。……あなたになら、見せられる」
そう言って、棚の中ほどから一冊を引き出す。年号を確かめる素振りもない。何度も指でこの位置をなぞってきた手つきだった。
「どうやって、この一冊だと」
「部屋付きの記録は、代替わりの年で綴じ直される。先王の代の、最後の一冊を辿った」
これまでは、いつもこちらが彼について調べ、彼は待つ側だった。棚を選び、綴りを選び、頁を開くのも、今日はすべて彼の手だ。
一人でも開けたはずだ。それでも、待った。理由は訊かなかった。訊けば、答えが出てしまう気がした。
薄い革を指に通し、綴りを卓に広げた。名は年順でなく、部屋付きの順に並んでいる。先王付き、后付き——役割ごとに、名が連なっていた。
同じ役職の中でも、上から下へ、赴任の古い順に並ぶ。年の欄には、勤めに入った年と、下がった年が書かれていた。
「役職の欄だけでは、同じ『先王付き』の行が幾つもございます。年で絞りましょう」
ジョスランは答えず、上着の内側から折り畳んだ一枚を取り出した。圧痕から母の名を読み取った、あの一枚だ。ずっと持ち歩いていたのだと、そこで初めて知った。
「侍女、ロズリーヌ。王暦三八八年、産のため職を下がる」
読み上げる声は、低く、平らだった。紙に目を落としてはいない。この三年で覚えた字の中に、母の名だけは、はじめから入っていたのだろう。
彼がその一枚を、頁の脇へ開いて置く。年の欄を、上から順に追った。
三八八年に先王付きを下がった侍女は、この一冊に一行きりだった。同じ行の上で、ジョスランの指も止まっている。
「ここだ」
役職の欄には「先王付き」。年の欄の終わりも、三八八年。だが、その隣、名の欄には——見覚えのない名が書かれていた。文字だけを見れば、何の変哲もない一行だった。
「……違う。俺の覚えている名じゃない」
低い声だった。読み違いを疑う響きは、なかった。
指で押さえて、行の上に目を近づける。表の文字の下で、名の欄が、周りよりわずかに白く浮いて見えた。他の行には、ない濃淡だ。
「……ここだけ、紙が違います」
窓辺へ運び、角度を変えて透かす。文字の並びの奥に、削られた跡の帯が、旧い墨の輪郭を残したまま沈んでいた。かたちだけは、別の名の骨組みだった。
「削って……書いた、ということか」
「はい。削れば、そこだけ紙の繊維が薄くなります。上から墨を重ねても、光に透かせば、隠せません」
「一度、削っただけで、そこまで分かるものなのか」
一度の直しなら普通にあることだと、この人に教えたのは自分だ。院で見た、上から墨を重ねただけの日付の訂正を。
「一度でも、削りは別にございます。重ねた訂正は、紙を減らしません。……削れば、紙が減ります。一度減った紙は、戻りません」
手袋を外し、薄い帯に指を置いた。周りの紙より、たしかに一段へこんでいる。触れて分かるほどの差だった。
文字の高さも、行間の詰まり方も、周りの行とは揃っていない。目で見た濃淡と、指先の窪みが、同じ場所を指していた。
「この一行は、削って書き直されています。——名前のあった場所だけ、紙が薄い」
「誰が」
「紙に、名は残っておりません。……分かるのは、削って書き直せる立場の者だという、それだけです」
書き間違いの訂正と、事実の書き換えとの境目は、ここにあった。
消したつもりでも、紙は、そこに何かがあったことまでは、消せない。
念入りに削った手つきそのものが、削った事実を、いちばん濃く残していた。
ジョスランの手は、頁の端に置かれたきりだった。指に入る力だけが、少しずつ強くなっていく。
「削った側は、これで分かります。……ですが、削られた字そのものを読むことまでは」
言いかけて、口をつぐんだ。消された字を紙から起こす術は、この一冊の中にはない。
「もう一冊、ある」
彼が背後の棚から、もっと古い綴りを取り出していた。表紙にあるのは年号一つきりだ。どこにあるかは、手に取る前から分かっていた手つきだ。
差し出された綴りを受け取ろうとした指に、彼の指が触れた。素手同士だった。
指先に、乾いた紙とは違う温度があった。見上げると、彼はこちらの手元ではなく、顔を見ていた。いつもなら、指の動きを追う目だった。今日は違う。何を確かめたいのか、自分でも分からないような目だった。
とっさに、指を引こうとした。だが、綴りはまだ、互いの手の間にある。引けば、床に落としてしまう。
短く、頷き合う。それだけで、綴りが手に渡った。指先に残った温度が、しばらく消えなかった。
古い綴りを開くと、下働きの名が雑に並んでいた。字は粗く、墨も薄い。急いで書かれた記録だ。
検めの印もない、日々の作業を書き留めるための帳面だ。格が低いからこそ、削る手も向かなかったのだろう。
いつのまにか、卓の同じ側に立っていた。二人分の影が、頁の上で重なる。
目当ての行は、すぐに見つかった。
「王暦三五五年、書写室勤め」
短い、そっけない記載だった。その隣に、名が一つ。
——ロズリーヌ。彼の母の名だ。
三五五年という年に、覚えがあった。その五年前の灰の年——六十二年前の火事で、文書院の大半が焼けた。記録の書き直しに何年もかけた、あの復元事業のさなかだ。
「灰の年の後、証言をもとに記録を書き起こす仕事が、書写室にあったと聞いております。……その場に、あなたの母上がいらした、ということです」
「証言を、書き起こす」
粗い字の一行を、二人で見下ろしていた。
「はい。誰かが語った言葉を、記録として残す仕事です。十歳ばかりの時分に、墨を磨る役として出入りしていた者もいた、と院の古い記に記されていると存じております」
「……子供が」
「はい。……その子が母になるまでに、三十三年ございます。その現場を、内側から見ていた、ということになります」
ジョスランの視線が、二冊の綴りの間を往復した。新しい綴りには、母の名を消した跡がある。古い綴りには、名がまだ残っている。
同じ棚の、同じ人の記録が、二つに割れていた。
「俺の記録は、最初からない。消されたのは——母のほうだ」
静かな声だった。怒りでも、諦めでもない。事実を、事実のまま置く声だった。
侍女の名簿から母の名が消え、代わりに知らない誰かが座っている。名が残ったのは、誰も気に留めない下働きの綴りだけだった。
今日の鑑定は、自分の潔白のためでも、儀のためでもなかった。それでも、指先はいつもと同じ重さで動いていた。
降格の身で、名を奪われたわけではないこちらとは違う。彼の母は、生きた証をまるごと奪われている。
ジョスランは、卓に置いたままの圧痕の一枚を、そっと元のかたちに折り畳んだ。
折り目を整える指を、しばらく見ていた。初めて会ったころより、紙の扱いが丁寧になっている。
母の帳面から消えた行も、ソレル家の返上も、この一行も。紙を書き換えて、あったものをなかったことにする。やり口だけは、同じだった。
保管室で立てた問いに、今日また一段、近づいた。答えには、まだ遠い。ただ、遠さの形が、少しはっきりした。
だが、生まれてすらいなかった子は、その理屈の外にいる。証言を見た者を消す——説明が届くのは、そこまでだ。何かもう一つ、母と子の間に、知らない理由が横たわっている。
「なぜ、あなたまで消す必要があったのでしょう」
問うてから、答えを持たない問いだと気づいた。
窓の外を、渡り廊下を行く足音が一つ、遠ざかっていった。朝から一度も灯りの入らないこの一角で、埃が、静かに舞っている。
一度だけ、ジョスランが深く息をついた。答えを待っているのか、もう待っていないのか、その一息からは読めなかった。
「……分からない。だから、あなたに頼んだ」




