第013話 煤の一行
儀まで、あと十七日。
「分からない。だから、あなたに頼んだ」
書庫を出てから二日、その一言を抱えていた。答えの出ない問いに、今すぐ答えは出せない。写字生の割り当てをこなしながら、頭の隅では別のことを数え続けていた。
なぜ消されたのか。誰が半歩先にいたのか。二つの問いは、いつも同じ場所から始まって、別の方向へ分かれていく。片方を追えば、もう片方が置き去りになる。
だが、順番は決められる。半歩先の一人を潰さないかぎり、この先もまた同じ壁に当たる。
工房の注文帳。保管室の貸出簿。どちらも「監査の名」と記されているばかりで、誰の顔も持たなかった。
朝の光は、この頃めっきり弱くなった。窓辺の卓に座っていても、指先がひんやりと冷える季節に変わりつつある。
写しの筆を止めて、傍らの卓へ目をやった。ジョスランが、目録の束をめくる手を止めずに訊く。
「今日は、何を」
「まず、名前のない借り出しを、名前のあるものに戻します」
そう決めて、昨日のうちに監査院へ照会を出していた。返事が来るまでの一日は、いつもより長く感じられた。
昼前、院の使いの少年が書庫の戸を叩いた。折り畳んだ紙を差し出す手が、少し急いていた。
開くと、短い一文があった。両日について、監査院自身の押印記録には、該当する日が一件も見当たらない——それきりだった。
監査は、動いていなかった。
「動いていない、というのは」
隣で文面を追ったジョスランが訊いた。
「あの名で借り出した誰かは、監査院の人間ではありません。……名だけを、借りたのです」
返答の紙に押された印は、監査院のものではなく、取次の事務方のものだった。この照会は、まだ上役の目には届いていないのだろう。
——では、誰が「監査」と書けたのか。
院の紙が棚を離れるときは、必ず借用状の控えの綴りを通る。
「その帳面に、誰が書ける」
「院で行を足せる立場は、二人しかございません。……見るだけなら、誰でも願い出られます」
受付の窓口へ回ると、番の書記が怪訝な顔をした。写字生がめったに求めない綴りだ。「写しの整備」の照会だと告げると、書記は渋々、奥の棚から重い一冊を運んできた。
受領の欄に、自分の印を押す。朱の色が、思ったより薄く出た。
「型は、押すたびに減ります」
覗き込んだジョスランに、そう答えた。毎日押している印なのに、その減りに気づいたのは今日が初めてだった。院の物を書き改めるなら、要るのはこの朱ではなく裁可の印だ。押せば、控えが封蔵庫に残る。
綴りを抱えて、書庫の卓へ戻る。端から繰る。工房の借り出しの日、保管室の借り出しの日——どちらの行も、たしかにそこにあった。周りの行と同じ筆致で、同じ書式で、何の違和感もなく並んでいる。
ただ、一行だけ、様子が違った。
「……ここ」
窓の光にかざす。他の行は、墨の面がわずかに光を返す。その一行は、光を吸い込むように黒く沈んでいた。
斜めから燭台の炎を当てても、艶が出ない。指先で撫でても、違いは分からなかった。目でしか見抜けない差だ。
書き手は、それを承知の上で選んだのかもしれない。
「墨が、違うのか」
「はい。おそらく」
道具箱から、筆洗いに使う水を含ませた布を出した。証拠を壊さない程度で済むよう、ほんの端に、一滴だけ触れさせる。
触れた端が、じわりとにじんだ。周りの行は、同じ力で押しても、輪郭ひとつ崩れない。
「この一行だけ、水に流れます。——ほかは、流れません」
公文書に使う院の黒は、官の調合で払い出しが出納に記録される。数を誤魔化せば、いずれ帳面が合わなくなる。
だから下書きには、記録に残らない安い煤の墨を使う——降格の初日、自分で口にした習わしが、そのまま思い出された。
「記録を、避けたのか」
「はい。……記録を信じる方が、記録を避けた一行だけで、足を残しておられました」
「これで、誰かは分かるのか」
「行を足せるのは、院長様かリュカ様のお二人です。……ですが、それでは、まだ先がございます」
オルドの手本が改められた年を境に、払いの終わりが跳ねなくなる。先だって、ソレル家の一枚で確かめた道理だ。
改定の前と後、二枚の手本を卓に開き、そのあいだへ煤の一行を置いた。跳ねは、ない。
「院長オーブリー様は、改定の年——三六八年には、すでに十四を数えておいででした。幼い日に習った型は、生涯そのまま残ります。……跳ねのある側の手にございます」
ジョスランが、黙って次の言葉を待った。
「次席のリュカ様は、改定より後にしか字を習っておりません。跳ねを知らない世代にございます」
年と、行を足せる立場と。二つが交わる先に、一人だけが残った。
だが、これで届くのは借り出しの手までだ。あの副本の署名までは、まだ半歩ある。
綴りの頁を、二十日前まで戻した。監査の審理を名目に、副本を書庫へ運ぶことを許した一行。その端に、許した者の署名が添えてある。
払いの角度に、目が留まった。あの日、許可証を受け取ったときも同じことを思って、官の手はどれも整っていると片づけた。
整っているのではない。——家の型だ。
「……この署名は、ドレーヌの型です」
「なぞった、ということは」
「なぞりであれば、元の一枚と、墨を継いだ場所まで揃います。……ですが、これは手続きのために、その場で書かれた署名です。写す元が、ございません」
自分の速さで、迷わずに書いた手だった。家の筆法を叩き込まれた者にしか、この角度は出ない。
わたしの署名にできるのは、わたしのほかに、あと一人だけ。
……リュカ様。
七年のあいだ、家の卓にもう一人、若い見習いが座っていた。墨のにおいのする部屋で、母に何かを教わり、頷いていた背中。名を呼ばれるたび、丁寧に返事をしていた声。
「筆は、指の先で持つものではありません。腕の付け根から動かすのです」
母の声が、記憶の底からよみがえる。幼いわたしには難しすぎて途中で飽き、卓を離れた。あの背中は、同じ姿勢のまま、筆を止めなかった。
あの背中が誰であったかは、ずっと知っていた。世間も知っている。ドレーヌ家に事務見習いとして預けられた男——それが、彼の来歴のすべてのはずだった。
知らなかったのは、母がそこで何を教えていたか、だ。筆法の伝授は、家の内で伏せられていた。だから誰も、彼を候補に挙げなかった。
昼過ぎ、控えの綴りを抱えて、次席の執務室へ向かった。誰も、これから起きることを知らない。
書面の山に囲まれて、リュカは顔を上げ、いつもと同じ如才ない笑みを浮かべた。
「アニエス嬢。何か」
控えの綴りを、卓に開いて置いた。煤の一行を指す。
「この行を書いたのは、あなたです」
笑みは、消えなかった。ただ、指先の動きだけが、一拍止まった。卓の上で、書き損じの反故が一枚、端から丸まりかけている。
「ご名答、と申し上げるべきでしょうか。……ですが、私が何をしたと?記録の上では、何も」
「あなたは、母の弟子でした」
言葉にすると、自分の声とは思えないほど、静かに出た。
「世間では、事務見習いとお聞きしております。……ですが、あなたは家の型を、迷いなく書けます。それを教えられる人は、母のほかにおりませんでした」
言われる前に、こちらから線を引いた。
「筆跡だけでは、誰も指せません」
リュカの眉が、ほんのわずかに動いた。それきりだった。
「行を足せる立場。オルドの手本より後の世代。そして、家の型を迷いなく書ける手。……あなたのほかに、この三つを同時に満たす方はおりません」
リュカが口を開くまでに、間があった。窓から差す光の中で、指先の書面が、かすかに揺れている。
「この国は、記録がすべてです。——あなたが、いつもそう仰る通りに。今日も、記録の上には、何もございません」
声は、少しも高くならなかった。こちらの言葉を、そのまま映しているだけだ。
自分の武器が、同じ形のまま返ってきた。物に証させると決めた者は、物が黙っている場所では、何一つ言えない。
「母は、あなたに何を教えたのですか」
「さあ。師匠に伺ったことは、ございません」
如才ない声のまま、彼は一礼した。
「……お引き止めして、申し訳ございませんでした」
それだけを残し、部屋を出た。廊下に出ても、膝の力が抜けなかった。壁に手をついて、しばらく息を整えた。
副本の検分には立会いとして、祈祷の場には書役として、あの人は同じ部屋にいた。焼けを見る手も、丁付けを数える指も、ずっと見られていた。半歩先にいたのではない。隣にいたのだ。
筆が、人を指してしまった。母の教えを、今日まで一度も疑ったことはなかった。だが今、指の先にあるのは、確かに一人の人間だった。
逮捕も、失脚もない。次席の椅子が誰の引きで空いたのかを、院で知らぬ者はいない。宰相の名を、口に出さないだけだ。……記録の上では、彼はまだ何もしていない。
窓の外は、日が傾きはじめていた。渡り廊下を戻る足取りが、いつもより遅い。
書庫に灯りはなかった。扉の音に、ジョスランが顔を向ける。
「……分かったのか」
「……はい。師の筆が、悪用されておりました」
短く伝えると、返事はすぐには来なかった。卓の上には、控えの綴りが開いたままになっている。閉じる気に、まだなれなかった。
「怒っているのか」
「怒って、いいのかも、分かりません。……母が教えた手が、母を裏切る形で使われました。それは、確かです」
灯りを持つ手が、いつもよりわずかに震えた。燭台を卓に置くと、炎の揺れも、そこで止まった。
「怒れ、とは言わない。……ただ、あなたが黙り込むのは、初めてだ」
三年、この書庫で人の気配を頼りに過ごしてきた男だ。見ている量は、言葉にする量より多い。
「あなたが怒ったからだ。俺がいないことに腹を立てた人間は、後にも先にも、あなた一人だ」
一度は彼から訊かれ、答えられずにいた問いだった。訊いた側が、ずっと開けたままにしていた。
「……それが、どうして今」
「今日みたいな日に、思い出す」
灯りの下で、ジョスランの顔がいつもよりはっきり見えた。感情の読めない目のまま、彼はそれだけを言った。
答える言葉を、まだ持たない。それでも、胸の底で強張っていたものが、ほんの少しほどけた気がした。
炎が、二人分の影を壁に長く伸ばしている。窓の外はもう暗い。今日という日を数えるなら、答えの出た問いより、答えの出ない問いのほうが、まだ多く残っていた。
母は、なぜあの人に、家の筆を教えたのでしょう。




