第014話 喪の色の屑
儀まで、あと十四日。
母は、なぜあの人に、家の筆を教えたのか。三日経っても、答えは形にならなかった。あの晩の「あなたが怒ったからだ」という一言も、まだ胸の奥で解けないまま沈んでいる。
考える暇は、そう長くは与えられなかった。割り当ての束は、今日も日課どおりに届く。棚に戻す間もないうちに、次の束が積み上がっていく。
窓の外の庭木は、葉先からすっかり色を変えていた。朝の光も、日に日にいっそう薄くなっていく。
三日の間、書庫でリュカと顔を合わせることはなかった。次席の執務室は、今日も戸が閉ざされたままだと聞く。息を潜めているのか、何食わぬ顔で務めを続けているのか、確かめる手立てはない。
母の帳面も、結審の夜以来、開いていない。抱えた問いに蓋をしたまま、目の前の割り当てをこなす日々だった。
「写しの整備」——古びた文書を、読みやすい新しい紙へ書き写す仕事だ。儀が近づくほど、束の高さも増していった。数を数えるのは、もうやめている。減ったと思えたことは、一度もない。
朝、卓に積まれた束の中に、見慣れない表紙が混じっていた。栗色の革に、ヴァルドー家の紋が型押しされている。
「伯爵位の叙爵状の写しにございます。原本を汚さぬよう、丁寧に」
配りに来た書記は、それだけ言って去っていった。卓の空いた順に置いていく手つきだった。名で選んでいる暇は、誰にもない。
割り当ては、日ごとに言い渡される。誰の仕事にも、断る余地はない。
修復室で見た、ノエルの手つきが浮かぶ。写させられる側の心地を、今日は自分が知る番だった。書かされる手は、こうして誰の上にも、当たり前の顔をして巡ってくる。
今回の作業に宛てられたのは、書庫でなく新設された作業室だった。卓が十ほど並び、写字生たちがそれぞれの前で筆を動かしている。
壁際には運び込まれたばかりの紙束が積まれ、その脇に、ジョスランが立っていた。
「今日は、荷運びにございますか」
小さく訊くと、頷きが返った。
「院長づきの書記に言われた。書庫の外にも人手が要る、と。断る理由がない」
書庫の外で彼を見るのは、まだ慣れない。それでも、同じ部屋にいるだけで、指の強張りが少し緩む気がした。
荷運びと写字生が並んで立つ光景は、今日この部屋では珍しくもない。誰も、二人を気に留めなかった。
割り当てられた卓に着き、叙爵状を広げる。黄ばんだ紙面に、伯爵位を賜った旨の一文が並んでいた。日付は、王暦三五〇年代——灰の年の直後、復元事業のさなかだ。
写す前に原本を検めるのは、もう癖のようなものだ。道具箱から薄い革を取り出し、指に通す。それからレンズを掲げ、紙面へかざした。
繊維の間に、見慣れない色が紛れていた。ただの染みではない。糸の切れ端らしいものが、幾筋も漉き込まれている。
「……これは」
指先で、ごく軽くなぞる。色は、繊維の芯まで染み通っていた。
「何か、あるのか」
束を運ぶ手が、途中で止まった。
「……少々、お待ちを」
門前で聞いた、老女の声が耳の奥でよみがえる。
——あの年、うちの糸も、みな青く染めました。
卓の別の束から、同じ年代を名乗る紙を一枚借り、並べて光にかざした。念のため、もう一枚を借りて比べる。
「ほかの紙にも、入っているのか」
「いいえ。ほかの二枚には、一筋も入っておりません。簀の目も、繊維の粗さも、この一枚とよく似ております。……似ているからこそ、色だけが際立ちます」
「後から染みた、ということはないのか」
乾いた布を取り、紙の表を軽く拭ってみせた。色は微塵も動かない。
「動きません。繊維は、表だけでなく裏まで通っております。漉く前の紙料そのものに、初めから練り込まれていたものにございます」
「布は、着古されて屑になってから、初めて紙に漉き込まれます。染めたばかりの糸が、すぐに紙へ入ることはございません」
「時が要る、ということか」
「はい。国中が喪に服し、揃って糸を染めた年がございました。その年のうちに漉かれた紙には、まだこの色は出ません。出せるのは、早くとも翌年から。……布が屑になるまでには、たいてい幾年もかかります」
もう一度、光にかざす。角度を変えても、繊維の色は変わらなかった。
「この紙には、青く染めた布の屑が混じっております。——あの年の、喪の色です」
「喪の、色」
「王暦三九三年にございます。……わたしが生まれた年です」
ジョスランの手から、抱えていた紙束が卓へ下りた。
「三五〇年代の紙が、三九三年の色を持っている」
「はい。この一枚は、伯爵位を賜ったと語る年より、四十年ほど後に漉かれております。……この家の爵位は、わたしより若うございます」
「作り直しでは、ないのか。……いま、あなたがやっているように」
「作り直しであれば、奥に、写した年と写した者の名が入ります。対の検めとして、二人の記録官の署名も要ります。この一枚には、そのどれもございません」
指の下の紙が、急に重くなった。
「……原本として綴じられる紙にございます」
喉の奥に、熱いものがせり上がった。これは、セルジュが去り際に残した、あの一言の続きだ。
書けと言われたものを書いただけだと、彼は言った。伯父上に言え、とも。捨て台詞のつもりだったのだろう。その伯父上へ、こんなに早く向き合う日が来るとは思っていなかった。
家名の重みを、紙一枚から数えられる家などない。だが、その紙が嘘でできているなら、話は別だ。
母の帳面の削られた一行、ソレル家の返上の一枚、そして今日のこの叙爵状。書き換えられた紙ばかりが、行く先々で待っている。根が同じかどうかは、まだ確かめる術がない。偶然が三つも重なるとは思えなかった。
戸口で、誰かが咳払いをした。作業室の空気が、一瞬で張り詰める。周りの写字生たちが、一斉に筆を置いて頭を垂れた。
宰相が、静かに部屋へ入ってきた。灰の交じった髪、皺の少ない顔。歳の割に、背筋がまっすぐだ。声を張らずとも、その一歩ごとに、部屋の空気がぴりつく。
見回りは初めてではないはずだが、あの結審の場では、大祭司にしか言葉を向けなかった。あのときは、一語も、一瞥さえも交わさなかった。
宰相は、卓の間をゆっくりと歩いた。誰の手元も咎めず、頷きひとつで通り過ぎていく。手前の卓の若い写字生が、震える手で書きかけの一枚を隠そうとした。
「隠さずともよい。見せてみよ」
穏やかな声だった。若い写字生が、青ざめたまま紙を差し出す。宰相は、その一枚にざっと目を通した。
「悪くない。……去年の秋に見たときより、払いが落ち着いた」
「……恐れ入ります」
若い写字生が、頭を下げたまま息を吐く。宰相は頷いて、次の卓へ進んだ。
咎める言葉は、最後まで出なかった。ただ、見て、通り過ぎる。その公正さが、かえって恐ろしい。隠すもののない者は、隠す必要がないほど、揺るがないということでもある。
やがて、こちらの卓の前で足を止めた。叙爵状は、広げたままだ。
「精が出るな」
宰相の視線が、紙の上へ静かに落ちた。それから、こちらへ向く。目の高さが、こちらの目とちょうど同じところで止まった。
「写しの整備は、いつまでにございますか」
こちらから、思わず尋ねた。逃げ場を作りたかったわけではない。ただ、間が要った。
「儀までだ。急ぐことはない」
「君が検めているのは、国の記録だ。丁寧に頼む」
それだけを言って、去ろうとする。堂々とした足取りだった。何も隠していない者の歩き方だ。
指先が、まだ紙の上にある。黙っていれば、今日という日は何事もなく終わる。だが、黙っていれば、明日もまた、同じだけ黙ることになる。
「宰相閣下」
呼び止める声が、自分でも驚くほど、まっすぐ出た。
宰相が、振り向く。周りの写字生たちの筆が、いっせいに止まった。
「筆は、人を指しません。指すのは、いつも物のほうです」
母の言葉が、こんな場所で口をついて出た。だが、今この紙の前でしか言えない言葉でもあった。
「この紙は、あなたの家の日付を知りません」
宰相の口元が、わずかに緩んだ。
「ほう。では、紙に聞こう」
微笑んだまま、宰相は卓のあいだを戻っていった。声をかける者は、誰もいなかった。足音は、最後まで揺るがなかった。
「ドレーヌ様。……いまのは、宰相閣下に」
隣の卓で、写字生が息を呑んだ。
扉が閉まると、作業室に、また筆の音が戻る。周りの誰も、こちらを見なかった。見なかったことにする、という選び方をしたのだと分かった。
肩から力が抜けて、初めて息を止めていたと分かった。肺の底から、細く長い息を吐き出す。
叙爵状を閉じる手のひらに、震えが残っていた。押し隠したつもりだったが、隣に立つジョスランには、見えていたらしい。
「……震えているぞ」
短く言われて、唇を結んだ。何か言えば、震えごと零れてしまいそうだった。
「怖くなかったのか」
「怖うございました。……ですが、あの人の前でだけは、黙っていたくありませんでした」
重ねて訊かれることは、なかった。ただ、震える指の代わりに、閉じた叙爵状をそっと束の下へ収めてくれた。
声には、ならなかった。ただ、目だけで頷いた。
あの日、修復室で写させられていたのは、ノエルだった。今日、写させられているのは、わたしだ。だが同じ紙の上で、書かされる側が、書かせた家の嘘を見つけてしまった。
宰相は、動じなかった。当然だ。この程度で崩れる家なら、六十二年ももたない。
去り際の足音は、来たときより一拍だけ速かった気がする。それでも、何も言えずに黙っていた自分より、今日の自分のほうを、悪くないと思えた。
写す仕事は、まだ終わっていない。嘘だと分かった一枚も、今日中に清書して提出する定めだ。書かされる手は、書かされたまま、この紙をもう一度、新しい姿にして送り出す。
窓の外で、正午の鐘が鳴った。写字生たちの筆が、また一斉に動き出す。何事もなかったかのように、卓の列が静かに埋まっていく。
積み上げられた紙の山は、まだ半分も減っていなかった。それでも、今日を、何も起きなかった一日として棚へしまう気には、もうなれなかった。
ヴァルドー家が伯爵になったのは、伯爵になったと書かれた日ではありません。




