第015話 同じ、すぎます
答えは、昼前に届いた。紙で。
「ほう。では、紙に聞こう」
作業室で宰相がそう言い残してから、まだ二日しか経っていない。
——ヴァルドー家が伯爵になったのは、伯爵になったと書かれた日ではありません。
言えずに残ったその一行は、扉が閉まったあとで胸に浮かんだきりだ。宰相からの沙汰も、いまだにない。静けさのほうが、かえって落ち着かなかった。
宰相は、あの日、動じなかった。動じない者は、黙って引くか、黙って別の手を出すか、二つに一つだ。
修復室の階段から落ちたノエルの傷は、まだ癒えていない。あれが踏み外しだったのかは、確かめる手立てもないままだ。だから、静けさが怖い。
——では、何を出してくるつもりなのか。
今日の割り当ては、また書庫に戻った。儀まで、あと十二日。
監査院の使いが、書庫の戸を叩いた。審問長ファブリスの名で発せられた通達だという。若い書記が、書類挟みを両手で差し出す。
「監査院よりの返答にございます。ご確認を」
受け取りの印を求めると、書記は逃げるように去っていった。関わりたくない、という背中だ。
書類挟みの中に、古びた紙が二枚、丁寧に挟まれていた。一枚は叙爵状の、もう一枚は境界裁定の裏に添えられた裏書きだ。どちらにも先代王の御璽と署名が入っている。
王暦三六二年、王暦三九二年。それぞれに、日付が記されていた。
叙爵状も境界裁定も、すでに検めた紙だ。この二枚は、初めて見る。
添え状は、一文きりだった。
「紙がどうであれ、王の意志は本物だ」
一読して、息が詰まった。物を疑うなと、正面から告げてくる言葉だった。物でしか語らないと決めたこちらへ、あちらは意志だけで押し通そうとしている。
返事の代わりに、紙が来た。宰相は、言ったとおりのことをしただけだ。
「……三十年、隔たっているのか」
そばへ来たジョスランが、日付を目で追って言った。
「はい。片方は先王二十七の御年、もう片方は五十七の御年にございます」
先代王が世を去ったのは三九三年。二枚とも、その前に書かれたことになっている。
「なぜ、二枚も要ったのだろう」
「一枚だけでは、心もとなかったのでしょう。叙爵状にも、境界裁定にも、御璽が及んでいると示せば、どちらも同じ重みで守れます」
先に手袋を通し、二枚を窓辺の卓に並べた。まず疑うべきは、紙そのものだ。
斜めに光を這わせ、簀の目の細かさを見る。どちらも、名乗る年代に見合った古びを持っていた。漉きは均一で、焼けの進みにも大きな差はない。
「紙自体は、まことしやかにございます。……仕込む側も、ここで手を抜きはしません」
「紙は、本物なのか」
「はい。少なくとも、いまは疑うだけの根拠が見当たりません」
かねて備えていたのだろう。紙を漉き、墨を焼かせ、綴じを馴染ませるには月日が要る。二日で新しく仕込める物ではない。いつでも出せるよう、しまわれていた札だ。
「紙は本物で、字だけが嘘、ということもあるのか」
「はい。古い紙を確保できる立場の者ほど、そういたします。物と字は、別々の場所から来ることがございます」
レンズを構え、古いほうの署名から、新しいほうへ目を移す。払いの角度、止めの強さ、線の太さ。一画ずつ照らし合わせていく。
手が覚えている型は変わらなくても、手そのものは変わる。若い時分の勢いのある筆も、年を経れば線の端で震え、払いが甘くなる。修復室で、ノエルの古い筆と今の筆を並べた日に、そう学んだ。
だが、この二枚には、その変化がなかった。震えも、肥大も、勢いの衰えもない。若いはずの一枚と、老いているはずの一枚が、寸分違わず同じ角度で払われている。
念のため、二枚を重ねて窓の光にかざした。上の紙を透かして、下の署名の線が浮かび上がる。二つの筆の道は、一画も外れずに重なった。
「……これは」
何度重ねても、線は一本にしか見えなかった。声が、自分でも思ったより低く出た。
「三十年前の署名と、この署名は、同じ手です。——同じ、すぎます。人の手は、三十年も、変わらずにはいられません」
よく仕込まれた札ほど、割れたときの穴は大きい。
ジョスランが、卓の上の二枚を見比べた。
「同じすぎる、というのは……片方が、写しなのか」
「はい。人の手が、三十年止まったままでいることはございません。片方が、もう片方をなぞったものにございます」
「どちらが、なぞりだ」
「……どちらがなぞりかまでは、この二枚だけでは申せません」
亡くなった王からは、新しい署名は得られない。なぞりが作られたのは、その必要が生じた後——三九三年より、さらに後だ。ただし、それはわたしの見立てにすぎない。
ジョスランが、書類挟みの上の添え状へ目を落とした。
「ここには、王の意志は本物だ、と書いてある」
「王の意志が本物であっても、この紙が王の手を通っていなければ、意志はこの二枚に宿りません」
「物と字は、別々の場所から来る、というやつか」
「はい。紙に乗るのは、書いた手だけにございます。……意志は、乗り移りません」
かねて備えられていた札が、備えられていたというその一点ごと、手の中で裏返っていく。
一度、目を離す。あの徹夜の朝に見た、返上の署名を思い出した。あの筆には迷いがあった。線の途中で、幾度も勢いが揺れていた。
この二枚は、違う。迷いが、どこにもない。
「これは、素人の手ではございません。……専門の筆にございます」
「専門の、筆」
「はい。あのときの手とは、比べ物になりません。迷いなく引かれた線には、書き手の癖が、かえって残りにくいのです」
「腕のいい者ほど、正体を残さないということか」
「皮肉にございます。下手であれば、下手であるほど、誰の手かは絞りやすくなります」
この線から申せるのは、そこまでだ。誰の手か、どの家の型か——なぞりは、そこまでは語らない。
幼い日、母の卓の脇で、書き損じの反故を数えさせられたことを思い出す。減った日も増えた日も、母は何も言わず、翌朝また数えさせた。迷いのない線は、積んだ年月の証だ。
卓の脇に、控えの綴りを一冊広げた。原簿の検分の日に耳にした、あの言葉が頭の中で形を取り直す。
「公文書は、二名の記録官が互いに検める」
呟いてから、綴りの頁を繰った。連鎖に連なる文書の、対の検めの署名が並んでいる。毎朝、割り当ての束の中で目にしてきた型だ。
互いに検めるとは、互いの書いたものを検めることだ。欄に並ぶ二つの名は、どちらも書き、どちらも検めている。片方は、どの綴りでもヴァルドー方の記録官だった。
「一人では、できないのか」
「はい。検める側だけでは、紙は偽れません。書く側の手が、要ります。ヴァルドー家がどれだけ権勢を持っていても、その家だけでこの筆致は生まれません。……一つの家では、偽れないのです」
そして、もう片方。払いの角度が、どれも同じだった。
審問の場で差し出した検め帳面にも、次席の執務室で指したあの一行にも、同じ角度の払いがあった。ドレーヌの型だ。
なぞりの線は、何も言わない。だが、この綴りは別のことを言っていた。書く家が要ると制度が告げ、その残る一方の席に、この家の型が座っている。重ねれば、行き着く先は一つしかない。
あの保管室で、偽りの束を仕分けた日を思い出す。粗さの残る仕事から、破綻のない仕事へ。手の質が変わる境目があった。あの日の見立ては、そこで止まった。
そして今日、もう一つの年が、その境目の隣に並ぶ。
「……どうした」
黙り込んだこちらへ、ジョスランの声が届いた。
「祖父が院に召し出されたのは、三十一年前にございます。王暦三八一年——書く腕を買われて、わたしの家が院に雇われた年でございます」
「三十一年前。……あの束で、手が変わったのは」
「日付のうえでは、三八〇年の前後にございます」
「……一年しか、違わない」
日付のうえでは、と断ったのは、束が名乗る年そのものを疑っているからだ。あの束を仕分けた日、境目がどこかにあるとしか申せなかったのも、同じ理由だった。
紙に記された年は、その紙が自分で言っているにすぎない。それでも、手が代わった位置だけは、日付の並びのうえに現れていた。
叙爵状が名乗るのは、六十年ほど昔——灰の年の直後だ。その古さを裏打ちするはずの裏書きに、破綻のない筆が動いている。
「……つまり、どういうことになる」
「六十年前の古さを守るはずのこの二枚のうち、少なくとも一枚は、三十一年前より後の手で書かれております」
記載された日付と、実際に筆を執った年。その食い違いこそが、家の関わりの輪郭だった。
言ってから、指先がひどく冷たくなっていることに気づいた。手袋の下で、震えを隠す。誰かの手違いであってほしいと、まだ願っていた。だが、願いは、物の前では何の力も持たない。
「この連鎖は、いつから、誰の手で始まったのか」——あの保管室で立てた問いが、ようやく輪郭を持ちはじめている。その輪郭が指す先は、これまでのどの手がかりよりも近い。
誰が、この二枚を書けと命じたのか。名までは、物からは申せない。
問いは、来なかった。卓の隅で、ジョスランが茶器を取り、湯を注ぐ。その手つきは、紙を扱うときと同じ丁寧さだった。
「あなたの家の、」
その先は、言わなかった。椀だけをこちらの手の届く場所へ置いて、また自分の作業へ戻っていく。
その沈黙が、かえって重かった。言われるより、言われないほうが、胸の奥に長く残る。
高窓から落ちる光が、床の上を一段ぶん移っていた。二枚の裏書きは、まだ卓の上に並んだままだ。
差し出された茶に、まだ口をつけられずにいた。窓辺に立ち、庭木の色を眺める。あと十二日で、儀が来る。
母は、この筆をどう思っていたのだろう。書かされていたのか、書いていたのか。それすら、いまは物から申せない。
冷えた指の先で、椀の温もりだけが、まだ確かな物として残っている。
このまま黙って卓に戻れば、今日を何も見なかった日にできる。だが、物はすでに語ってしまった。
物に語らせると決めたのは、ほかでもない自分だ。都合の悪い答えだけを、聞かなかったことにする権利はない。
六十年前の日付を持つこの一枚に、その年には院にいなかった手が動いている。——わたしの家の、手だ。




