第016話 署名のない本文
儀まで、あと九日。
六十年前の日付を持つこの一枚に、その年には院にいなかった手が動いている。——わたしの家の、手だ。
三日前、口にしないまま呑み込んだ一行が、今もまだ喉の奥から下りていかない。
あの二枚のあとは、宰相からも監査院からも、何も届かない。届けを出した院からの沙汰もない。静けさだけが、答えの代わりに続いていた。
写字生の割り当てを、黙々とこなす三日間だった。指は動いても、頭の隅では別の勘定が続く。六十年前の日付。三十一年前の雇用。
道具箱の底の小瓶には、まだ手をつけていない。
渡り廊下の隅には、落ちた葉が吹き溜まっている。掃いても、翌朝には同じほど積もるようになった。
今朝、院長室へ呼ばれた。心当たりは、ひとつしかない。あの一行のことだ、と身構えながら廊下を歩いた。
院長は、卓上の書面を伏せてから、こちらへ目を向けた。十六日前に拒まれたときと、同じ机の、同じ位置だった。灯りの角度まで、あのときと変わらない。
「ドレーヌ。……検めよ。院の名でだ」
聞き違いかと、一拍遅れて頭が追いついた。
「……お許しいただける、ということでしょうか」
「そうだ。一度きり、私の立会いで記録を残す。今夜、修復室で行え」
「以前、これ以上院を掘るな、と仰いました」
「今も、その考えは変わらん」
書面の端を指先で整えながら、院長は続けた。
「だが、監査院から二枚も回ってきた。あれは、宰相の返事だ。ここまで来て見ぬふりをするほうが、院にとっても危うい」
拒んだ理由も、許す理由も、院を守る一点で変わっていない。だが、彼自身が知りたくなったのだと、それ以上言われなくても分かった。
机の端には、届けに添えた二枚の裏書きの写しが、まだ置かれたままだ。彼もまた、あの筆跡を見たのだ。
ひとつ、先に確かめておかねばならなかった。
「比べる物がなければ、検めても半分にしかなりません。あの副本は、監査院の預かりにございます」
「結審は済んだ。あれは儀の綴りへ入るために、昨日、院へ戻された」
書面を繰る音が、短く鳴った。
「今夜ひと晩だけ、修復室の卓へ出させる。持ち出しは私が記す。……あの男も、来るのだろう」
咎める調子ではなかった。書庫に住み着いた男の名を、この人は一度も呼ばない。呼ばないまま、追い出したこともない。
「規則は、覚えているな」
「一度きり。薬は紙を傷めます。使う前に、必ず立会いの記録を」
「よかろう。今夜、私も参る」
一礼して、部屋を出た。廊下の先の柱の陰から、ジョスランが離れてきた。何があったかは訊かず、こちらの顔を見て、それで察したふうだった。
「今夜、母の帳面を検めます。院長立会いのもとで」
「……十六日前は、断られた」
「はい。二枚の裏書きが、考えを変えたようです。あちらの一手が、こちらの道を開きました」
「今夜、傍にいる」
規則にない申し出だったが、有無を言わせぬ声だった。断る理由も、思いつかなかった。
夜、修復室の灯りは、いつもより多かった。燭台が三つ、卓の四隅を囲むように置かれている。油は、注がれたばかりの匂いがした。誰が用意したかを、いちいち確かめないことにも、もう慣れている。
院長は約束どおり現れ、卓の端に控えの帳面を広げて座った。見届ける役に徹し、口を挟むつもりはないらしい。
卓の上には、道具箱と、母の帳面と、監査院から戻った副本が並んでいる。ほかには、何も置かれていない。
箱の底で待っていた小瓶を、卓の上へ置く。指の先が、わずかに震えた。十六日前から、ずっとこの瓶に待ってもらっていた。栓を開けると、幼い頃と同じ、渋く乾いた匂いが立つ。
「一度きり、使う分だけを溶く。過ぎれば、紙のほうが持ちません」
声に出して、規則を復唱した。幼い日、母がこの部屋で口にしていたのと、同じ言い回しだった。
「量を、誤るな」
院長の声が、静かに割って入った。短く頷き、量を確かめてから、瓶の栓を閉じる。控えの帳面に、何かを書き付ける音がした。
薄い液を、刷毛の先に含ませる。削られた行の上、紙の薄くなった一帯に、そっと引いていく。一行、また一行。刷毛の先が触れるたび、紙の色が、わずかに沈んだ。
刷毛を持つ手が、また震えた。今度は、緊張のせいではない。母がこの部屋で同じ動きをしたときの記憶が、指先の感覚として蘇ってくる。
そのとき、隣に立っていたジョスランの手が、こちらの手に重なった。刷毛を握る指の上から、震えを押さえるように。
「……止めなくていい。ただ、揺らすな」
手の甲に、彼の体温が乗っている。刷毛の先が、震えを止めて、まっすぐに紙をなぞった。
最後の一行を引き終え、刷毛を皿の縁へ置く。重なっていた手が、静かに離れていった。
刷いた跡が乾きかけたころ、紙の上に、薄い線が起き上がってきた。一画、また一画。削り取られた場所に、字の輪郭が戻ってくる。
「……ございました」
出した声が、途中で掠れた。
「削られた字は、消えておりません。紙の奥に、鉄だけが残っています」
浮き出た文言に、目を走らせる。境界の裁定。ソレル領。ヴァルドー——卓の隣に置かれた副本と、同じ文言だった。母の帳面の内側、母の管理下で、母自身が削って隠した一行だ。
「これは……確かに、あの副本と、同じか」
ジョスランの声も、低く沈んでいた。
「一字たりとも、違いません。——母が、この帳面の中に、控えを遺していたのです」
行の末尾まで目を追い、指を止めた。署名を記すべき欄が、空白のままだった。
「……署名が、ございません」
指先で、空白の欄を、そっとなぞる。返ってくるのは、紙の手触りばかりだった。院長が、帳面に何かを書き足す音がした。それ以外は、誰も動かない。灯りの中、空白の欄だけが、やけに白く見えた。
副本を、帳面の隣へ引き寄せる。二枚を並べ、燭台を近づけて、同じ行を上から下へ辿っていく。
筆が乾けば、墨を足す。どこで足すかは、書く者の息の長さで決まる。二度書けば、二度とも別の場所で足すことになる。
一行目。同じ字のところで、墨が濃く戻っている。二行目。三行目。数えるたび、指の動きが速くなった。ひとつも、ずれなかった。
「ここまでで申せるのは、この控えが、あの副本を横に置いて、一行ずつ目で追って書かれた、ということまでにございます」
あの日、ノエルの前で自分に課したのと同じ線を、声に出して引き直した。だが、線の内側で言えることは、まだ残っている。
「そして、写し取ったその日、あの書状には、まだ署名がございませんでした。空いた欄まで、そのとおりに写してあります」
写し取っただけなら、削って隠す理由がない。
二十一日前の夜、ノエルが意識を失う際に、たしかに呼んだ名がある。
——マリアンヌ様も……同じことを……
あの夜は、意味を測りかねた。いま、その一言が置き場所を得た。書けと言われて書いた手が、この院に、もう一人いた。削って隠さねばならなかったのは、それが自分の仕事だったからだ。
「墨を継いだ場所が、一字も違わず同じです。——母は、書かされたものを、写し取って、遺したのです」
手が、震えを止めていた。
「写したのではありません、と、わたしは言いました。……母は、写し取って、遺したのです」
あのとき証したのは、写させられた事実だった。今日、同じ物差しが指すのは、写し取って隠した意志だ。強いられた手が、それでも、証拠を遺そうとしていた。
「副本の末尾、検めの署名の払いにも、家の型が残っております。なぞりであれば、癖は残りません。誰かが自分の手で、迷いなく書いたものです」
底の謎が、ここで開いた。
真似られたのではなかった。連鎖の検めの署名を繰るたび、同じ角度の払いが並んでいた理由——それは、家の筆法こそが、この連鎖の後半三十一年を、実際に書き継いできた手だったからだ。
祖父が雇われたのは、三十一年前——三八一年。灰の年、三五〇年から数えて六十二年のうち、前半の三十一年は、家の筆ではない。
だが後半の三十一年、この連鎖を運んできたのは、祖父の代から母の代まで、ドレーヌの筆そのものだった。
祖父から母へ、そして今、わたしの手にも——同じ型は、三代を経ても、少しも崩れていない。
十六日前の夜、母の帳面を開くまでの自分を思い出す。臆病だったのではない。あれは、正しい直感だった。開けば、家がここに繋がると、体のどこかで分かっていたのだ。
「……あなたは、知っていたのか。開く前から」
ジョスランの問いに、正直に答えた。
「いいえ。ですが、開かずにいた理由は、今なら分かります」
「知っていました。あなたの家の手が、俺を消したと。……それでも、あなただけが怒った」
ジョスランが、卓の向こうから、こちらを見ていた。
三年、書庫の記録を読み続けた男が、家名と手を対応づけていたのは、今日が初めてではなかった。検めの署名が記録に残り始めたときから、ずっと読んでいたのだ。知っていて、なお、頼んだのだった。
「……二年、ずっと」
「あなたが記録官になった日から。名は、読めば、すぐに分かった」
なぜ黙っていたのか、と問う前に、答えのほうが先に来た。
「言えば、あなたが困る。それだけだった」
驚きより先に、静けさが胸に降りた。この人は、その事実を抱えたまま、あの初めの日、まっすぐにあの一言を置いたのだ。
だが、それだけでは、説明のつかない何かが、今、目の前にある。
この人は、ドレーヌの娘だから近づいたのだろうか。それとも——
問いは、最後まで形にならなかった。振り払うように、母の帳面へ視線を戻す。彼の目は、まだこちらへ向いたままだった。
院長が、控えの帳面を閉じる音がした。
「今夜見た物は、私が記す。……以後、この一件、院の名で動く。ドレーヌ一人の肩に、負わせはしない」
「……お言葉、ありがたく存じます」
喉の奥から、震える声で絞り出した。
院長は自分の控えを抱えて席を立ち、振り返らずに出ていく。扉が閉まり、石畳を打つ靴の音が、次第に間遠になった。
燭台の灯りが、卓の上に残った母の帳面を照らしていた。空白のままの署名欄が、その一点だけ、何も語らずに残っている。
母は、書かなかった。書かされた本文の下に、証拠だけを遺して、名を刻まずに逝った。
手の甲には、まだ体温の名残がある。震えは、とうに去っていた。
答えは、もう出ている。それでも、その名を、今この場で声にする気は起きなかった。
「——では、母が書かなかった署名を、書いたのは——」




