第017話 原本と呼ばれてきた写し
儀まで、あと七日。
あの夜、最後まで音にしなかった名がある。母が書かなかった署名を、書いたのは——そこまで口にして、止めた。答えは、もう出ている。今さら名を挙げても、何も変わらない。
ただ、師と仰いだ手が弟子の手でもあった事実を、声に出して噛み締めるのが、怖かっただけだ。
翌日は、何も届かなかった。宰相からも、監査院からも、院からも。机に積まれた分だけを写して、一日が終わる。墨を磨り、字を並べ、また磨る。
窓の外の梢は、もう半ば裸になっている。朝の光は、写字机の端まで届かない。灯りを灯す刻限だけが、日ごとに早まる。
書庫には、寄らなかった。寄れば、何か言われる気がした。何を、とは自分でも分からないまま、二晩、遠ざけた。
翌々日の朝、その静けさが破られた。
写字机に向かって半刻ほど経った頃、廊下から名を呼ばれた。顔を上げると、リュカが立っていた。呼び方だけは、あの日以来変わらない。
「おめでとうございます、アニエス嬢」
師の娘への親しみを装う声だった。聞き違いかと思い、手を止める。
「……何が、でございましょう」
「記録官への復帰が決まりました。加えて——正本化の儀、奉呈役の任も」
近くの机から、幾つかの視線が集まる。声を上げる者はいない。誰も、見ていないふりをしていた。
差し出された書面に目を落とす。文書院長の印、監査院の副署。文字は間違いなく本物で、日付の欄も合っていた。
書面の下に、小さな布包みが添えられていた。
「こちらも、お返しするようにと」
開くと、記録官の胸章が出てきた。三十三日前、外すように言い渡されたものだ。
留め金を起こし、襟へ挿す。あの日、外したときは指先が少し冷たくなった。今日は、冷えていない。
——嬉しい。
一拍おいて、認めた。罠だと分かっている。分かっていて、体のほうが先に喜んでいる。
「嫌疑は不十分で確定済み。儀には検めの家の格式が要る——とのことです」
「理由は、それだけでございましょうか」
「私が聞いているのは、それだけです」
崩れない微笑のまま、リュカは書面を仕舞うよう促した。名乗られずとも、誰の差配かは知れる。
「奉呈役とは、何をいたす役目でしょう」
「物を並べ、捧げ、退がるだけです。発言権はございません。——ただ、並べる順は、奉呈役がお決めになります」
無害な補足のような口ぶりだった。心の中に書き留める。
「ドレーヌの家が奉呈した、と儀の記録に残るのですね」
微笑は動かない。嫌疑を晴らさぬまま、この家の名で改竄を追認させる——そういう計算だ。
受ければ、罠の内側に自ら踏み込むことになる。断れば、儀の内側を二度と見られない。
分かっていて、受ける。道は、ほかにない。机の下で、拳をひとつ握り、開いた。
「謹んで、お受けいたします」
声は、思ったより静かに出た。リュカの目に、動揺はなかった。祝いの言葉を重ねることもしない。
「では、こちらへ。今日から、奉呈役の仕事がございます」
案内されたのは、名だけは知っていて、入る機会のなかった一角だった。石段を三つ下りると、空気が重くなる。分厚い扉に、見慣れぬ錠。
リュカが鍵を回し、控えの帳面に名を記してから、扉を押し開けた。封蔵庫——扁額の文字で、それと知れた。王国史の原本が納まる部屋だという。
内は、案外に狭かった。棚は壁の三方を埋め、埃と古紙の匂いが、床の低いところに沈んでいる。窓はない。
「歴代の押影の控えを、年代順に整えていただきます。儀までに」
「院の裁可の印は、年に一度、控えに押して残します。押した数が、そのまま年の数になります。灰の年からこちら、並べ替えぬままで」
棚に並ぶ綴りを一瞥し、リュカは付け加えた。
「摩耗は年月ではなく、押した回数で進みます。——別々の型を並べても、古い型ほど傷んでいるとは限りません」
型をまたげば、傷み具合で年代の並びは測れない、ということだ。
「基準は、あくまで日付のほうに」
技術的な、それだけの一言だった。扉が外から静かに引かれ、足音が遠ざかる。錠は下りない。部屋には、自分ひとりが残された。
灯りは、持ち込んだ手燭ひとつ。棚の綴りを手にとるたび、蝋の色が違う。
滲みの広い押影もあれば、輪郭の立ったままの押影もある。違いは、日付と重ならない。よく使われた型ほど早く減る——型が違えば、減り方も違う。それだけのことだと、指の先で分かる。
日付の欄がもっとも古い一枚と、もっとも新しい一枚を、燭台の脇に並べてみる。光にかざしても、欠けの深さはほとんど変わらない。
奥、一段高いところに、布に包まれた一冊が据えられていた。——王国史。灰の年を焼け残った唯一の原本。その権威で、六十二年、この部屋に君臨してきた。
押影の年代を並べるには、基準になる年表が要る。手が、自然と包みへ伸びた。この一冊に触れるのは生涯で一度きりだろうと、ずっと思っていた。
紐を解き、表紙をめくる。紙は分厚く、めくるたびに乾いた音を立てた。灰の年の直後——復元事業が始まった年の記述に、目を落とす。
一行、指を滑らせる。同じ一句が、隣り合う二行に、そのまま重なっていた。
——「証言をもとに、これを継ぐ」「証言をもとに、これを継ぐ」
一度読めば、誰でも気づく破れだった。同じ一句が、間に何も挟まず、二度続けて並んでいる。
手燭を近づけ、上の一句から下の一句へ、指先をまっすぐに下ろす。文意は、そこで一度も繋がらない。あいだに、何もない。
誰もいない部屋で、声に出して確かめた。
「自分の考えを自分の言葉で書く者は、同じ一句を二度重ねません。文は、進む先から生まれますから」
指を、二行のあいだへ置いた。
「けれど、他人の文字を追いながら書き写す手は違います。同じ形を探した目が、その先の一句へ跳ぶ。あいだの一行ごと、置き去りにして」
「原本と呼ばれてきたこの一冊は、一行を飛ばしています。同じ言葉が二行に並んだところで、目が滑ったのです。——写した者だけがする、間違いです」
手燭の炎が、揺れた。勝ち誇る気には、少しもなれない。一枚の紙の嘘とは、重みが違う。この部屋そのものが、六十二年ぶん揺らいでいる。膝の裏が、冷えていく。
写しなら、書き改めを裁可した印が、この部屋に残っていなくてはならない。棚の控えを端から検める。手が止まるたび、同じことを確かめた。
——この一冊を書き改めた裁可の印が、一つもない。合法な写しなら、必ず押されるはずの印が、ない。
母の担当簿の、あの三か月が浮かんだ。四〇六年、儀の発議のあった年。初夏に手が止まり、秋のはじめにまた動き出すまで、母がどこにいたのか、ずっと分からずにいた。
あれは、この一冊がどこにあり、何を映しているかを確かめるために、母が持ち出されていたからだ。露わになった綻びを棚卸しして回る三か月。脅す材料は、あのとき既に選ばれ始めていた。
どこから始まった連鎖なのか。誰の手が最初に動いたのか。降格の日から抱えてきた問いが、ここで閉じる。始まりは灰の年。継いだのは一人の悪意ではなく、この院そのものだった。
手燭が、半分ほどに減っていた。棚に残った控えを、震える指で並べ終える。目の奥が、鈍く痛んだ。
扉が開いて、リュカが顔を覗かせる。
「終わりましたか」
「押影の控えは、年代順に整いました。……ただ、この一冊を書き改めた裁可の印が、どこにも押されておりません」
差し出した控えを一瞥し、リュカの表情は変わらない。
「ご報告は、私から上へ通しておきます」
「それで、お仕舞いですか」
「私に、何をと」
背を向けかけて、足を止める。
「儀で綴じられなかった記録は、次の儀まで……いえ、永久に、綴じられません」
言い残して、リュカは行った。扉の閉まる音が、石の壁に短く跳ね返る。控えの帳面を抱え、段を上がった。
夜、灯りの落ちた書庫の隅。ジョスランは、いつもの場所にいた。
「復職いたしました。記録官へ戻ります。儀の奉呈役も、あわせて」
「……祝う顔ではないな」
罠でございます、と答えて、封蔵庫で見たものを順に話した。押影の控え。布の一冊。二行に重なった同じ一句。裁可の印がないこと。
「原本と呼ばれてきた一冊は、写しでした。この国の正史は六十二年、その上に積まれています」
ジョスランは、長く黙っていた。灯りの下で、その横顔だけが動かない。
「……それを、見た者がいたら」
「はい。書写室で墨を磨っていた童女が、たった一人」
古い下働きの綴りに残っていた、あの一行が浮かぶ。——王暦三五五年、書写室勤め。
「復元の場に内から居合わせた者が、老いて、まだ生きていた。消されたのは、王子だからではありません。あなたの母上が、これを見たからです」
彼が、目を伏せた。
「母が、見ていたから」
低く、繰り返す。十七年、宙に浮いたままだった問いが、ようやく形を持ったふうだった。
血筋は、名を伏せる理由にはなっても、命を絶つ理由にはならない。書写室にいた童女が老いてまだ生きていた——それだけで、母親は消され、幼い彼まで巻き添えにされた。
「確かか」
「合法な写しなら、必ず押されるはずの印が、一つもございません。——確かです」
しばらく、どちらも動かなかった。先に口を利いたのは、彼だった。
「暴けば、この連鎖ごと、消える」
改竄の連鎖を偽と立てれば、繋がる記録は丸ごと正史から除かれる。彼が在ったことを示す物そのものは、残る。母の名の圧痕は彼の懐に、削り残しの職歴は格の低い帳面に。
だが、捨て紙の凹凸と、検めの印もない帳面の一行は、人が生きていたと正史に書く根拠にはならない。彼を正史へ載せる経路は、いま改竄されている記録群の裏側にしかない。
連鎖を偽と証せば、その記録群ごと綴りから外れる。経路が、消える。
「あなたを、書ける道が」
言い切れなかった。
「——構わない。書いてくれ」
即答だった。迷いの色すら、なかった。
「……よく、考えてから」
「考えた。三年、ずっと」
それきり、彼は口を閉じた。灯りの中、その輪郭だけが動かずにいる。
言い切れなかった言葉の正体に、そこで気づいた。あなたの跡が消える、ではない。——消したくない。わたしが、この人を消したくないのだ。
この人は、ドレーヌの娘だから近づいたのだろうか。二晩前は、その一点だけを疑った。
けれど今夜、この人は消えると知って一拍も迷わなかった。まるで、最初からそのために動いていたかのように。
わたしは、この人を消すために、ここまで来たのか。




