第018話 そろいすぎた束
広間には、長机がひとつ。窓は高く小さく、昼の光が机の中央にだけ落ちている。監査院からは審問長ファブリス、神殿からは大祭司トリスタンが列席していた。壁際に、文書院の若い写字生が数人、息を詰めて立つ。
儀の予備検分——監査院と神殿、双方の立会いのもとで提出物の真贋を検める公の場だ。ここで通れば、双方の記録がそのまま儀の綴りへ載る。
儀まで、あと四日。
院からも、宰相からも、監査院からも、沙汰はない。静けさだけが二日続き、それが今日、破られる。
机の隅に、見覚えのある書類挟みがあった。審問の日に差し出した、家の検め帳面だ。まだ監査院の預かりのままで、返る目処は聞いていない。今日は筆致の照合の控えとして持ち出してきたのだという。手は届くのに、わたしの物ではない。
机の中央には、ヴァルドー家から届いた帳簿の束——三十冊。三八二年から、四一一年まで。表紙は年ごとに色が違い、綴じの太さも一冊ごとに揃わない。ひと目で、長い年月をかけて積まれた物と分かる仕立てだ。
ファブリスが、今日の次第を読み上げる。ヴァルドー家提出の帳簿一式を記録官が検分し、真贋の意見を述べる——それだけの、単純な手続きのはずだった。
机の脇には、監査院の若い官吏が数名。誰も、こちらを見ない。
宰相ギデオンの姿は、なかった。祈祷が割れたあの日には、上座にいた人だ。今日は代わりの者さえ寄越していない。念を押す必要すら、向こうにはないのだ。
「アニエス嬢」
案内役として立っていたのは、リュカだった。呼び方は、あの日以来変わらない。
「検めを、お願いいたします。監査院の預かりとして」
一礼し、机の前に立つ。指先で表紙を繰る。日付、名、印——どれも見慣れた文書院の書式だった。革の匂いまで古びてなじんでいる。にわかに作った物には、出せない匂いだ。
まず、紙の年代から入る。川沿いの工房で老職人が見せてくれた注文帳——角の欠けた紙が漉かれた冬から、打ち直しの春までの窓。同じ欠けを、束の中に探した。
三九六年の綴りで、指が止まる。
「この一葉の透かしは、王冠の角が欠けております。欠けたままの簀で漉かれたのは、三六四年の冬から翌年の春まで」
指した箇所を、リュカが見やる。表情は動かない。
「三十年も前の紙が、この年の帳面に綴じられております」
「その紙を家が求めた日も、束の中にございます。三九五年の暮れ、院の古紙の払い下げ」
「……お確かめください」
言われた頁を繰る。確かにあった。受け入れの日付、払い下げの番号、預かった者の名。
「古い紙を後から使うことは、咎められません」
喉の奥が、乾いていく。外から持ってきた物差しが、束の内側の記録に、先回りされていた。
あの工房の帳面を突き合わせたときと、同じ手順だった。あのときは窓が一つに定まり、勝ちを引き寄せた。今日は、窓を閉じた先に答えが置いて待っている。一本目の柱が、傾いた。
次に、綴じの履歴へ移る。糸の色が途中で変わっている箇所——綴じ直した跡だ。
「この一帯、糸が替わって——」
言い終える前に、目が数枚あとの一葉へ落ちた。綴じ替えの記録。日付、事由、担当した者の名。虫食いで傷んだ頁を当時の記録官が繕った旨、一筆。
誰にも潰されなかった。自分の目が、自分の疑いを先に潰していた。リュカは、口を開きもしない。手のひらに、汗が滲む。
門前の老女の台帳を検めたときと、同じ目の使い方だった。あのときは糸の違いひとつで神殿の綴じを言い当てた。今日は、その違いにさえ答えが添えてある。二本目も、同じだった。
残るは、ひとつ。文言でも綴じでもなく、紙そのものを検める。
「紙の端を、少し割らせていただきます。断面の繊維を見れば、漉かれた年の見当がつきます。あわせて一葉、水に湿して——」
「お待ちください」
止めたのは、ファブリスだった。
「提出物は、監査院の預かりにございます。検分は、目視まで。断面を割る、水に浸して波打ちを見る——そうした検めは、許されません」
「……断面を見ずに、繊維の向きは読めません」
「頁を繰るのは、差し支えございません。ただ、それ以上は」
「規則にございます。それだけにございます」
初めて口を開いたのは、トリスタンだった。詫びる響きも、勝ち誇る響きもない。ただ、そう決まっている、というだけの声だ。
焼けなら、触れずとも読める。だが、焼けの進みは置かれた場所で変わる。同じ一枚の中でだけ、公平に比べられる——監査の立会いで、そう申し上げたのはわたし自身だ。
三十冊にまたがって焼けを比べる道は、初めから無かった。
言葉が、続かなかった。柱が三本とも、目の前で、頁一枚ぶんずつふさがれていく。壁際の写字生は、誰も目を合わせない。
指先が、宙に浮いたままだった。積み上げてきた検め方の、どれひとつも役に立たない。腕を、静かに下ろす。
「本日の検分は、これまで」
ファブリスが、書面を閉じた。
「記録官の意見は、儀の綴りへ、そのまま載る」
「……承知いたしました、審問長」
奥歯を、強く噛み締めていた。その日、指摘をひとつも立てられなかった。
「またお目にかかります、アニエス嬢」
退出際、リュカが一言だけ残していった。頷くほかなかった。
広間を出ると、廊下は既に薄暗い。石畳を踏む足音だけが、長く響いた。
角を曲がったところで、院長づきの書記に呼び止められた。束は儀の綴りの支度として、今日のうちに文書院へ移されるという。
「院長より、お伝えするようにと。——院の名で、今夜ひと晩だけ書庫の卓へ出させる。持ち出しは、ご自身で記されます」
頭を下げた。昼のあいだ、指一本触れられなかった紙に、今夜だけ、手が届く。
夜、書庫。
三十冊は、奥の卓へ移されていた。ジョスランは、その脇にいた。何も訊かず、こちらの顔を見て、察したふうだった。椅子が二つ、卓へ寄せてある。
わたしは、この人を消すために、ここまで来たのか。三日前の夜の自問に、答えはまだ出ていない。
「……今日は、うまくいきませんでした」
「負けました」
声に出したのは、初めてだった。喉の奥が、また少し乾いた。
「聞いた。——負けた、と」
慰めを足すことは、しなかった。それで、肩の力がわずかに抜けた。
「何ひとつ、言えませんでした。突けば、先に答えが置かれております。こちらの手の内を、読まれているように」
「そろっていたのか」
「はい。そろっておりました。……そろい過ぎるほどに」
言ってから、自分の言葉に、手が止まった。
「それは、悪いことなのか」
「……いいえ。そろっていること自体は、負けの理由になりません。わたしが崩せなかった、というだけです」
言いながらも、指先は控えの上をさまよっていた。何かが引っかかっている。
文言を追うのは、やめた。同じ道を二度なぞっても、同じところで止まるだけだ。
昼に見たのは、透かしの欠けだった。今夜見るのは、透かしではない。紙の地そのもの——簀の目だ。
薄紙と、燭台を引き寄せる。
三十冊から、一冊につき一葉ずつ選ぶ。年の真ん中あたりの、字の少ない頁。炎の前へ立てて、透かす。
「何を写している」
「文字ではございません。……紙に沈んだ、簀の目の影だけを」
薄紙を上から当て、線を一本ずつなぞる。済んだら、次の一冊。
隣から、次の薄紙が滑ってくる。十枚、二十枚——重ねるほど、指の動きが速くなる。息を止めていたことに、途中で気づいた。蝋の匂いが部屋に満ちる。
三十枚。薄紙を束ねて光にかざすと、三十の格子が、ぴたりと一枚に重なった。
「簀の目が、一度も変わっておりません。——簀は、五年で編み直します」
声が、掠れた。
三十年分の紙が、一度も編み直されていない目で漉かれている。長い年月を経た束なら、目の粗さの違いがどこかに必ず混ざる。
虫の道さえ、一本も通っていない。自然に溜まった帳簿には、欠けと不揃いが必ずある。時を経た紙は、どこかで少しだけ崩れる。この束には、それがない。
表紙も綴じも、わざわざ不揃いに仕立ててあった。揃えなかったのは、目に見えるところだけだ。
ジョスランが、隣から手元を覗き込む。重なった格子を、黙って見つめていた。
「これが、そろい過ぎている、ということか」
「はい。……昼に、あの人は答えました。古い紙を後から使うことは咎められない、と。一枚なら、そのとおりです」
「三十冊は、違うのか」
「三十年ぶんの紙が、一度も目を変えずに揃うことはありません。払い下げ一件では、説明がつきません」
格子の上へ、指を置いた。
「誰の目にも、見えるはずのものでした。目視までしか許されなかったから、ではありません」
「触れられていたところで、今日は見抜けなかったでしょう。——比べる相手を、間違えていたのです」
「同じ束の中でしか、比べられません」——監査の立会いで、わたしが、自分でそう言った。
あの制約は、比べる相手を持たない偽りを見破るための、誠実な線引きだったはずだ。その線引きこそが、今日の敗因だった。束の中身が初めから互いを支え合うなら、いくら比べても綻びは出ない。
「比べる対象ごと、偽られていたのです。わたしが、何をどう突くかまで」
「読まれていた、ということか」
「はい。そろいすぎた束は、わたしに読ませるために作られたものです」
作れる者の条件を、指を折って数えた。声に出して、ひとつずつ。
「紙の性質、綴じの作法——院の技術がなければ、これほどの物は作れません」
「それだけでは、まだ足りないのだろう」
「ええ。家の筆法も、要ります。祖父の代からの、あの型を」
ジョスランが、目を細めた。
「もうひとつ、あるのだろう」
「はい。監査の立会いで、紙の窓を閉じた日。審問の場で、同じ一枚の裏と表を並べた日。祈祷が外れた日」
指を三本立てたまま、止めた。
「——わたしが、何を検め、どこを見て、どう言葉にしたか。それを、初めから知っていた手です」
燭台の炎が、揺れた。薄紙を静かに重ねて閉じる。負けた日だった。指摘をひとつも立てられなかった事実は消えない。それでも闇の中に、ひと筋だけ道筋が見えた気がした。
「院の中の、誰かか」
短く問われて、かぶりを振った。
「文書院の誰かではなく、——文書院そのものを、知っている」




