第019話 何一つ偽っていない
儀まで、あと二日。
「文書院そのものを、知っている」——書庫でそう言い切ったのは、一昨夜のことだ。
それから丸一日、何も起こらなかった。儀の支度と、割り当てられた綴りの写し。作業台に向かう手は、いつもどおりに動く。
院からも、宰相府からも、沙汰はない。儀が近づくほど、誰もわたしに触れなくなる。
その静けさが、今朝、破られた。
宰相家の紋を押した書状が、作業台に届いた。差出人は、宰相ギデオン・ヴァルドー本人だった。
「本日昼、宰相府にてお目にかかりたく候」
短い文面だった。断る立場ではない。院長に届け出て、許しを得た。
石畳は、王宮の裏手へ回り込む。外套の前を掻き合わせても、風は襟から入ってきた。
宰相府の門は、文書院の何倍もの高さがある。潜れば、自分の身分の軽さを思い知らされる造りだ。記録官の胸章を着けていても、この門の前では何の意味も持たない。三十八日前なら、正装で招かれる客だったかもしれない。
昼過ぎ、門番に取り次がれ、控えの間で待たされた。長椅子がひとつあるきりの、飾り気のない部屋だ。急いでいる様子は、どこにもない。
あの日、退出際にセルジュが吐き捨てたひと言——伯父上。その行き着く先に、今日、呼ばれている。
停職の沙汰のあと、セルジュは姿を見せなくなった。捨て台詞だけを残して、この人の陰に沈んだままだ。
宰相と言葉を交わしたのは、作業室でのあの一度きりだ。こちらが母の言葉を投げつけた。宰相は、微笑んで去っていった。今日は、二人きりになる。
案内の従者は、奥の扉の前で一礼して下がった。広い部屋に、人影はひとつだけ。
窓を背に、机に向かって座る男がいた。白いものの交じった髪、姿勢を崩さない肩。
祈祷が割れたあの日は、上座の横顔しか見えなかった。作業室では、目が合ったのは一度きりだ。今日は、逃げ場がない。その目に、動揺も、探るような色もない。
秋の陽は、机の端を細く照らしている。壁を埋める書棚に、革表紙の背が隙間なく並ぶ。
壁の一角に、大きな系図が掛かっている。金の縁取り、几帳面に並んだ名——王家の系図だ。この人が誰の名を並べる側にいるのか、ひと目で分かる仕立てだった。
あの人の名がそこに無いことは、近づいて確かめるまでもない。無いからこそ、あの人はわたしに頼んだ。
椅子を勧める仕草はなかった。座らせる気のない部屋だ、と分かった。文書院の作業台とは、部屋の広さも、静けさの質も、まるで違う。声を張らなくても、隅々まで届く。
「——宰相閣下」
一礼する。
「よく来た。楽にしていい」
「——恐れ入ります」
型どおりに答えながら、楽には程遠い姿勢のまま、立ち続けた。
低く、落ち着いた声だった。脅すでもなく、へりくだるでもない。当然のことのように、こちらを見ている。
「私は何一つ偽っていない。偽ったのは祖父だ」
前置きも、言い訳もなかった。机の向こうから、堂々と告げられる。予想していたどの答えとも、違っていた。
頭の中で、年表が勝手に走り出す。
「灰の年から二年後に、復元の事業が始まっております。五年をかけて、当時の文書院が記録を書き直しました。終わったのは、王暦三五七年」
声は、思ったより早く出た。
「よく、調べている」
「王暦の数は、誰の目にも同じに読めます。……祖父君にあたる方が、その事業の実務を率いておいででした」
一拍置いて、続けた。
「閣下がお生まれになったのは、事業が終わって三年の後——王暦三六〇年にございます」
「調べれば、誰にでも分かる。私は、隠してはいない」
笑みを浮かべたが、悪びれる色はどこにもなかった。
「隠していないと仰るなら、なぜ、これまで公にはなさらなかったのですか」
「誰も、聞かなかったからだ」
短い答えの重さに、次の言葉がすぐには出てこない。
「では、その罪は、閣下には関わりのないことだと、お考えなのですね」
「関わりが無い、とは言っていない。継いでいない、と言っている」
線引きの精密さに、背筋が冷えた。この人は、嘘はつかない。都合のいい場所に、線を引くだけだ。
「祖父君の罪を、正すおつもりはございませんか」
「正す、とは。もう六十年近く前のことだ。正本化の儀こそが、正す機会だろう」
物言いが、静かに反転していた。壊れた記録を正すための儀式が、この人の手では、記録を確定させるための儀式に変わっている。
字義のうえで、この人は何一つ、嘘を言っていない。防御に、継ぎ目がひとつもなかった。四十日近く、この人の周りを回り続けて、ようやく着いた先で渡されたのは、答えではなく、完成された盾だった。
見覚えのある書類挟みが、机の上に置かれていた。審問の場に差し出したときのまま、留め紐の結び目まで変わっていない。
「それは、わたしの——」
「君の家の検め帳面だ。監査院から預からせてもらった。宰相府の名で請えば、断る役所はない」
ギデオンが、指先で軽く押しやる。こちらへ向けて。
「検めさせてもらった。実に誠実な帳面だ」
「……身に余るお言葉にございます」
礼を返しながら、警戒は解かなかった。中を検められたと思うと、指先が冷える。
「帳面の中に、何をお探しでしたか」
「君の弱みだ。——見つからなかったがね」
正直すぎる答えに、返す言葉を失った。皮肉の色はない。事実を述べる声だった。
「返そう。借りていた物を、返すだけのことだ」
なぜ、いま。問い返す前に、答えが先に置かれていた。手は、伸ばさなかった。まだ、何も答えていない。
「今、受け取れば、取引を承知したことになりましょうか」
「好きに取ればいい。私は、どちらでも構わない」
素っ気ない答えだった。だが、次の一言で意味が変わった。
「君の検分の記録は、実に教育的だった」
息が、止まった。一昨夜、自分が言った言葉が、耳の奥で鳴る——文書院そのものを、知っている。
「……どなたが、書き留めたものにございましょうか」
「さて。誰が、とまでは言わないでおこう」
この人は、名を出さない。沈黙が、答えの輪郭を半分だけ埋めていく。
祈祷が外れた日。審問の場で裏と表を並べた日。監査の立会いで紙の窓を閉じた日。わたしが何を検め、どう言葉にしたか。残らず、どこかの棚にある。
「——なぜ、わたしをお呼びになったのですか。書状一枚で、済むはずのことです」
「顔を見て話したい相手が、たまにいる。それだけだ」
率直な答えだった。脅す必要も、隠す必要も、この人は感じていない。
体の前で、両手を重ねた。それだけで、声はいつもどおりに保てた。
低い声が、続いた。
「取引を、しよう。儀を、奉呈役として粛々と務めよ。——それだけでいい」
「務めなければ、いかがなりましょう」
「何も変わらない。ただ、対価は無くなる」
「対価とは、何にございましょうか」
「君の望みは雪ぎ。済んだ。あの男の望みは記載。それは私が与えられる。——君が何もしなければ、だ」
「その記載は、どのような形になりますか」
「庶子として、正史に名を刻む。それだけのことだ。私にとっては」
「わたしには、何を、なさいませんように、と」
「余計なことを、言わないことだ。それだけでいい」
「証拠を、お認めになる、ということでしょうか」
「認める、とは言っていない。触れるな、と言っている」
またも、同じ型の線引きだった。認めることと、否定しないことの間に、この人は器用に立ち続けている。この人にとって、記録とは作るものだ。
喉の奥で、言葉が一度、詰まった。ジョスランがずっと探している一行を、この人は一筆で用意できる。まやかしではなく、本物の対価だと分かるだけに、答えが出せない。
書いてくれ、とだけ言ったジョスランの声を思い出す。だが、この人の手で書かれた一行は、この人の嘘が続く限りでしか、正史の上に残らない。それでも、断る、と即座に言えるほど、心は強くなかった。
「承知いたしました、とは申し上げられません」
「今すぐでなくていい。儀までに、答えを寄越せ」
「断れない、と決めてかかっておいでですか」
「君には、他に道がない。それだけのことだ」
答えを急かされないことが、かえって不気味だった。
「——監査官様は、いまどうしておいでですか」
「甥は、甥のままだ。使い道が、変わっただけのことだ」
血縁でさえ、この人には道具の名でしかないらしい。
事も無げに、続けた。
「リュカは私が母上につけさせた弟子だ。型を家に置いたままにするのは惜しくてね。継がせる手も、用意させた」
自分に問うた言葉が、耳の奥に戻ってきた——母は、なぜあの人に、家の筆を教えたのでしょう。
教えたのではなかった。教えさせられたのだ。あの人が家の門を叩いたとき、十八だったと聞いている。選ぶ立場に、いなかった。
「アニエス嬢」——あの呼び方は、師の娘への親しみだと思っていた。今は、違って聞こえる。母が選んだことは、この連鎖の中に何一つ無い。
続けて、同じ調子で。
「紙も文言も、こちらで整えて渡した。母上はただ、書けばよかった」
「祖父が始めた。私は、整えているだけだ。……整えることを、偽りとは言わぬ」
正しい年代の紙を、用意されていた。それでも母は、その紙を使わなかった。頭の隅に、小さなとげが刺さる。
あの晩、削られた行の下から浮かんだ、署名のない控え。用意された紙を、なぜ使わなかったのか。問いの形のまま、いま拾い上げる時ではない。
一つだけ、確かめたいことがあった。ここへ来た本当の理由は、それだったのかもしれない。三十八日前、証明することさえ許されなかった、最初の問い。
「もう一つだけ、伺わせてくださいませ」
「言ってみろ。答えられることなら答えよう」
小さく、息を吸った。敬称は、もう付けなかった。
「あなたが正しいと信じておられるその記録は、いつ漉かれた紙に書かれておりますか」
ギデオンは、答えなかった。ただ、微笑んだだけだった。困った様子も、動じた様子もない。
初めてだった。この人が、即座に言葉を返さなかったのは。部屋のどこにも、音がなかった。秋の陽が、いつのまにか机の端から失せている。
重ねて問うつもりはなかった。答えないことが、答えだった。
「もう、よろしいか。次の用が控えている」
促されて、我に返った。答えは、まだ決めていない。一礼して、扉へ向かう。書類挟みには、指一本触れなかった。持ち帰れば、答えたことになる。
長い部屋を、扉まで歩く。革靴の底が石床を打つ音だけが、響いた。振り返らずに歩ける距離が、こんなに長い部屋を見たことはない。
呼び止める声は、なかった。振り向く理由も、与えられなかった。
扉は重く、鉄の輪は冷たかった。押し開けようとしたところで——背に、声が届いた。
「君の母上は賢明な方だった。——娘の身が惜しければ書けと言えば、書いた」




