第020話 一晩で古びた紙
儀まで、あと一日。
「君の母上は賢明な方だった。——娘の身が惜しければ書けと言えば、書いた」
背に届いたあの声が、扉を出てからも消えない。宰相府の廊下でも、帰りの馬車の中でも、同じ一節が戻ってきた。
十五だった自分の身を盾に、宰相が母に何を強いたのか。母が、何を選ばされたのか。それでも母は、最後の一線——自分の名だけは、書かなかった。考えれば、指先が止まる。
意味を測る時ではない。今日は、そのために残されてはいない。
文書院じゅうが、明日の支度で浮き足立っている。
写しの束を運ぶ途中、廊下で院長に行き合った。
「奉呈の順を違えるな。日付の古い物から、新しい物へ。綴じてしまえば、その順が正しい順になる。あとから直せる者は、どこにもおらん」
単純な指示ほど、間違えれば取り返しがつかない。
「それと、これだ。今朝、使いの者が置いていった」
院長が寄越したのは、一通の書状だった。封蝋は、宰相家の紋。
開かぬまま、懐に納める。人目のある場所で開く気にはなれない。
昼が近づいたところで、儀の道具箱のことを思い出し、書庫へ向かった。
隅に膝をつき、針、燭台、薄紙、母の帳面を一つずつ確かめていく。明日、この手で文書を年代順に広げる。ただ広げるだけの役目だ。発言権はない。
窓の外では、渡り廊下の落ち葉が風に鳴っていた。燭台に火を入れる刻限が、日ごとに早くなる。
棚の向こうで、ジョスランが古い綴りを戻していた。手の動きが、いつもより硬い。同じ棚を、何度も開けては閉じている。
「……明日が、怖いのか」
「いいえ」
即座に答えた。怖いのは明日ではない。今日、まだ何一つ決めていないことのほうだ。
「なら、何が」
答える代わりに、道具箱の蓋を、そっと閉じた。
「あなたは、儀の広間には入れません」
言ってしまってから、誰よりも本人が承知していることだと気づく。記録にない者は、御前に立てない。三年、彼が突き当たってきた壁だ。
「知っている。門の外で、待つだけだ」
短い答えに、それ以上の翳りはなかった。
「待たれずとも——」
「待つ。それは、俺が決めることだ」
言い切られて、次の言葉が出てこない。門の外と、広間の中。明日、二人はこれまでで一番遠い場所にいる。
今日はまだ、同じ部屋にいられる。それだけが、慰めだった。
彼が顔を上げた。そこで思い出し、わたしは懐から文を取り出した。
紋を見せると、彼の表情が、わずかに強張る。
封を割ろうと指を伸ばしたとき、棚の隅に積んだ古い綴りに触れた。誰のものとも知れない、古びた蝋の封。
押した拍子にできたのだろう、小さな気泡の窪みが一つ残っている。同じ泡は、二度と同じ場所には出ない。押した瞬間の、その一度きりの痕だ。目に留まっただけで、指を離した。
改めて、目の前の封を割る。乾いた蝋が小さく音を立てて崩れ、新しい樹脂の香りが立った。
割れた蝋の中央に、ヴァルドー家の獅子の紋。押されたばかりの、鮮やかな型だった。
中身は、一枚の書付だった。添え文はない。宰相にとって、約束は言葉でなく紙で示すものだと、いまさら思い出す。
広げると、見慣れない書式の草案だった。「王暦三八八年」——生まれた年。「先王の子として認知す」の一行。空欄には、まだ誰の名も入っていない。
文言は整い、日付の欄すら古式に則っている。この空白に名を書けば、済む。あまりに簡単に、済んでしまう。
「対価の、先渡しですか」
「らしいな」
彼の声に、抑揚はなかった。だが、卓へ置いた紙の端を見る目に、緊張が滲んでいた。
「……この一行が字になっているものを、目にしたのは初めてでございます」
「母も、言わなかった。俺が七つの年に死ぬまで、とうとう一度も」
「では……あなたご自身も、本当かどうかはご存じないのですか」
「知らない。母が言わなかった以上、俺には確かめようがない。……確かめたいと思ったことも、ない」
この人が知らずにきたことを、消した側だけが紙に書ける。
検める癖で、指が動いてしまう。文字は、新しい手の書き入れだ。迷いのない払い、乾いたばかりの艶。院の黒特有の焼けは、どこにもない。
疑わしいのは、紙のほうだった。
「……どこが、違う」
紙の断面を、爪の先で軽く起こして見せる。
「ここを、ご覧ください。切り口の内側が、白いままです。二十年を経た紙でも、断面まで色が回ります。表だけ古びて中が白いのは、外から古びを塗った紙です」
「表からつけた古さは、そこまでは染みないのか」
「はい。もう一つ、簀の目が歪んでおります」
窓へ持っていき、光に透かす。格子の線が、波を打ってたわんでいた。
「年月をかけて緩んだ歪みと、一度に湿って出た歪みは、別物です」
「……別物か」
「二十一日前、水を被った台帳を板に挟んで乾かしました。急いで乾かした紙は、繊維がまっすぐに戻りません。あのとき手が覚えた歪みと、同じです」
「……直すのに使う手は、偽るのにも使える。あなたが、そう言った日か」
「はい。同じ手で、逆のことができます。——ただ、一つの見立てだけでは申せません。二つが重なって、初めて言い切れます」
「……言い切れるのか」
「言い切れます。日付の欄は、王暦三八八年。二十四年ぶんの古びで足ります。ですがこの二つが示す古さは、それより深い。急いだ手が、盛りすぎたのです」
「……ジョスラン様」
こちらを見た彼に、紙を光へかざしたまま告げる。
「この紙は、一度濡らされて、火のそばで乾かされております。——三十年ではなく、一晩で古びた紙です」
彼の頬に、影が差す。何も言わない。ただ、拳を、静かに握った。
対価とは、偽の紙の上に据えられた存在だった。書けば、記録には載る。けれどそれは、母が遺した書状と同じ場所に立つ。また一つの、嘘の上に。
誰も、紙の年代までは読まない。家の筆を継いだ手ですら、そこまでは目が届かない。祖父の代から、ヴァルドー家はそこに賭けてきた。
今度は、彼の存在が、同じ手で塗り込められようとしている。
紙を畳み直しながら、一つの道が浮かぶ。偽りと分かっていて、それでも差し出せば、この人は今日から正史の中に立てる。
「……偽の紙でも、あなたは残る。あなたが消えるよりは——」
「——アニエス」
言葉を、遮られた。この人に、初めて名を呼ばれた。今日まで、ずっと「あなた」だった。息が、一拍止まる。
「要らない。……書いてくれ。俺がいなかったことにされていた、その事実だけを」
声に、迷いはなかった。むしろ、その迷いのなさが気にかかる。
「その事実だけでは、あなたは記録に残りません。三年、この書庫で探し続けたものが、また手からこぼれ落ちます」
「それでいい」
「よくは、ありません。消された、という一行だけでは、この国の綴りは、あなたを人として数えません」
「数えられなくていい。数えられるために誰かの手を汚すなら、いまのままのほうが、ずっとましだ」
「なぜ、そこまで——」
彼が、初めて視線を落とす。手の中の書付を見ているようで、見ていなかった。
「昨日、宰相に何を言われた」
答えられずにいると、彼は目を上げないまま続けた。
「顔を見れば分かる。母上のことだろう。……同じ場所に、立たせたくない」
その一言で、腑に落ちる。彼が恐れていたのは、自分が消えたままでいることではない。わたしが、脅されて書く側に回ることだった。
「けれど、確かな記録があれば、あなたは今日から堂々と歩けます。書庫の隅に隠れずとも」
「堂々と歩くために、嘘をつかせるくらいなら、俺は一生、この書庫の隅でいい」
「それは、諦めでございます。三年も探し続けた人の、言うことではありません」
「諦めじゃない。順番の話だ。俺の名が先で、書いた手が後になるなら、その名は要らない」
本気だ、と分かった。手の中の紙が、急に重くなる。
もしこの人が復讐を望んでいるなら、取引を退けることに苛立つはずだ。ヴァルドーを倒す機会を、みすみす手放すのだから。
もしこの人が道具として求めているなら、偽りの記載でも構わず受け取るはずだ。三年、記録にない男として生きてきたのだ。
——どちらでもなかった。
道具として求められているのだと、初めて出会った日に思った。怒ったから執着したのだと、十六日前に聞いた。知っていて、なお近づいたのだと、八日前に知った。今日、その全部の答えが、一つに重なる。
この人が欲しかったのは、家名でも報復でもなかった。ただ、本当のことだけだった。それを、三年、ここで待っていた。
紙を、卓へ戻す。書付を見ずに、彼の目だけを見た。
一歩、詰め寄る。
「取引は受けません。あなたの覚悟も、受け取りません」
一拍、置く。
「——あなたが望まなくても、あなたがいたことは、わたしが書きます」
「……どうやって」
「それは、まだ申せません。ただ一つだけ、先に申し上げます。偽りは、一枚も使いません」
方法は、まだ言えない。六日前に彼が言ったとおり、連鎖を偽と証せば、この人を正史へ載せる道は、記録群ごと綴りから外れる。その道を使わずに、書く。
用意された紙は使わず、削って隠した行も頼らず、確かな物だけを積む。
彼の手が、半歩分だけ持ち上がる。けれど、触れることはなかった。わたしも、動かなかった。触れれば、今日という日の重さが、違うものになる気がした。
書庫の中は、物音一つなかった。二人分の呼吸だけが、棚のあいだにあった。
「……分かった。好きにしてくれ」
「はい」
短い返事に、これまでで一番の重みがあった。
「一つだけ、約束してくれ。危なくなったら、俺の名は書かなくていい」
「それは、お約束できません」
小さく息を吐く音がした。笑ったのだと気づくのに、一拍かかった。
彼はそれ以上何も言わず、棚の整理に戻っていく。だが、いま戻した綴りの背が、一冊だけ逆さになっていた。直しもしないまま、次を手に取っている。
夜。道具箱を膝に引き寄せ、中身を一つずつ数え直す。
押影を取る薄紙、燭台の芯、継ぎ足しの蝋、母の帳面。三十九日前、この箱に入っていたのは、自分ひとりの手が使う道具だけだった。今は、明日、人前で使う物まで、隙間なく詰まっている。
母の帳面だけは、別だ。削られた行は、もう五倍子で発色し、読める。けれど人前で開くつもりはない。そばに置く、それだけだ。
開いて、もう一度読む。浮き上がった行を、指の腹でたどる。削られた跡が、まだざらついていた。母の手も、ここで一度止まったのだろうか。
書付は、返さなかった。受け取りもしなかった。書庫の棚の隅に、開いたまま置いてある。答えは、もう出した。
道具箱の留め金を、指で確かめる。冷たい鉄の感触が、指先に戻ってきた。この手の中に、明日、すべてが集まる。三十九日かけて拾い集めた紙も、目も、ジョスランの名も。
火を落とす前に、もう一度だけ夜空を見上げた。星の位置は、昨日と変わらない。芯をつまんで火を消し、道具箱を胸に抱え直した。
儀は、明日。




