第021話 筆は、人を指しません
儀は、今日。
四十日前にこの数を口にしたときは、まだ遠い先のことだと思っていた。
夜明け前から支度をした。記録官の胸章を、外套の下ではなく、上から着ける。隠す理由は、もうない。着けた金の重みが、じかに肩へ乗っている。
手が震えていないか確かめた。震えてはいなかった。震える暇も、今日はない。
道具箱を提げて門へ向かうと、マルグリットがいつもの場所に立っていた。四十年、同じ刻限に、同じ場所で。今日も、届かないと知っている一枚を抱えている。
隣に、ジョスランがいた。
「……今日は、並ばれるのですか」
「ばあさまの隣が、俺の場所だ。前から、そうだった」
老女が、抱えた申立ての束を持ち直す。
「門の内には、入れません」
「知っている。ここで、聞くだけで十分だ」
マルグリットが、静かに口を挟む。
「今日は、わたしも、いつもより長く並ぶつもりでおります」
「……四十年、変わらず、そうしてきたではないか」
「ええ。ですが今日は、扉の内で何が起きているか、初めて、教えてくれる人がいる」
老女の視線が、こちらへ向いた。記録にない男に、御前の扉は開かない。門の敷居ひとつぶんが、この人には三年、越えられない。それでも、消された家と、消された人が、今朝は同じ列に並んでいる。
マルグリットが、深く腰を折る。
「記録官さま。……行っておいでなさいませ」
「行っていらっしゃいませ、ではなく」
「はい。……行っておいでなさいませ、です。四十年、そう申し上げるのは、いつも扉に向かってでございました。今日は、お人に向かって申せます」
老女の目が、少し潤んでいた。今日は、受け取る背中がある。
「行ってまいります」
言ってから、気づいた。父は物心つく前に死に、母を送って四年になる。この言葉を向ける相手のいない朝が、そこから続いていた。
ジョスランが、こちらを見た。口は開かない。ただ、深く息を吸う。それが返事だ。
門をくぐる。振り返らない。今日の役目は、前だけを見ていないと果たせない。
大広間は、朝の光で満ちていた。高い窓の光が、石の床に長い筋を引いている。監査官、神殿の吏、位のある家の当主。誰もが、正面の玉座と、その手前の長机を見ている。
国王陛下が、上座にお着きだった。必要のほかは、口を挟まれない。進行はすべて、宰相の手にある。
「これより、正本化の儀を執り行う」
宰相ギデオンの声が、広間の隅々まで届く。六年前にこの儀を発議した、その人自身の声だ。
「奉呈役、記録官アニエス・ドレーヌ」
呼び上げられ、長机の脇へ進み出て、一礼する。
「謹んで、務めさせていただきます」
奉呈役に、主張は許されない。物を並べ、捧げ、退がる。それだけの役目だ。
ただ一つ、渡されている権限がある。——並べる順は、奉呈役が決める。復職の沙汰を届けに来た日、リュカが補足のように添えた一言だ。
問題の書状——母の書いた、あの一枚も、奉呈物の中にある。外すには当主の申請が要る。ギデオンは、申請していない。綴じてしまえば覆らない紙を、外す理由がない。
開会の直前、監査院の使いが控えの綴りを運んできた。
「監査院より、証拠請求への回答にございます」
押影の控え。封蔵庫に納められていた、歴代の綴りだ。
書けと言われたものを書いただけだ、伯父上に言え——あの審問の間でセルジュが言い残した一言が、いまこの広間で効いてくる。記録という盾の内側から、一歩も出なかった人だ。
道具箱から、五通の文書を取り出す。この六年のうちに儀へ提出された、ヴァルドー家名義の証書だ。いずれも、院の裁可の印で封じられている。順は、わたしが決める。院長の指示どおり、日付の古い物から新しい物へ並べていく。この順で、綴じられる。
並べ終えて、一礼する。捧げる役目は、ここまでだ。
検めを命じたのは、監査院から列席した審問長ファブリス。四日前、わたしを負かした予備検分を仕切っていた人だ。
長机の隅には、あの日の三十冊が、積まれたままだ。
卓の上で並べ替えても、奉呈の順は動かない。
「日付の順に並べますと、物の順が、こうなります」
「その根拠を、伺おう」
ギデオンの声に、咎める色はない。手続きを問うだけだ。
「型は、押すたびに減ります。深く残った型ほど、早くに押された物にございます」
一枚ずつ、燭台の光にかざす。輪郭の立った押影。滲んで広がった押影。
いちばん深く残った一枚と、いちばん擦り減った一枚を、隣り合わせに掲げた。
「ご覧ください。同じ紋でも、これほど違います」
深く残った物から、擦り減った物へ、卓の上で置き直していく。
「この五通を、押された順に並べます。——日付とは、まるで違う順です」
広間が、静まる。ファブリスが顔を上げた。
「押された順が違うとして、それが何を示す」
「日付は六十年に散らばっておりますのに、型の減りは切れ目なく続いております。間の六十年ぶんの押しが、どこにもございません。——五通は、名乗る日付の日ではなく、ひと続きに押されております」
誰かが、思わず息を漏らした。
「……その順は、そなたの見立てにすぎぬのではないか」
「わたしの見立てでは、ございません」
朝に届いた綴りを、長机の端へ広げる。七日前、封蔵庫でこれを年代順に整えたのは、わたしの手だった。
「歴代の押影の控えにございます。同じ型を、年に一度ずつ押して残した綴り。押しの数が、そのまま年の数にございます。この並びだけが、この型の押された順にございます」
控えを繰り、卓の五通と見比べる。
「儀が発議された四〇六年の控えより、五通はいずれも浅うございます。——五通とも、四〇六年より後に押されました」
卓の向こうから、ファブリスが問うた。
「——ほかにも、あるのか」
問われて、道具箱からもう一通を取り出す。自称三五六年の、ソレル家返上の記録。字の払いに、目を寄せた。
「この字を——ご覧ください」
払いの止め方に、迷いがない。跳ねがなく、線が途中で止まっている。
「オルドの手本より、後の払いにございます」
「後の、とは」
「この字を教える手本が定められたのは、この署名の日の、十二年後です」
ギデオンが、静かに問い返す。
「一人の書き手の癖ではないのか。手が早い者も、遅い者もいる」
「筆跡の癖ではございません。型そのものが、まだこの世になかったのです。教えられていない払いを、書ける手はございません」
もう一通の脇へ、燭台を寄せる。
「……教えられる前に、独りで思いついた、とは」
「思いつくことと、型として定着することは、別にございます。手本が定まる前に、同じ止め方をする手が既にあった、とは申せません」
居並ぶ当主たちの列が、ざわめいた。
監査官の席で、一人が背を起こした。
「……手本の年を、誰か一度でも数えたか」
「では——六十二年ぶんの正史が、綴じられぬということか」
ファブリスの声が、乾いていた。
「いいえ。物が申せるのは、器のことだけにございます。後から作り直された箱。後から型を取った印。原本と呼ばれてきた一冊が、写しであること。——この三つまでにございます」
灰の年から、六十二年。その二年のちに起こされた復元の事業を起点に、この綴りは組まれている。起点が、いま切れた。
「では、事業のころに書かれた物は」
「物では、切れません。ただ、器の保証を失って、綴りから外れてまいります」
宰相の問いが、初めて物から離れた。
「その鑑定は、君一人の目によるものでは?」
咎めるでも、急ぐでもない。二十五日前、結審の間で祈祷を呼び入れたときと同じ調子だった。
「わたしの目は、要りません」
「……ほう」
「型の深さは、測れば誰の目にも同じに映ります。手本の年は、記録が答えます。——証明は、物にさせます」
四十日前にも、同じことを申し上げた。あのときは、誰も紙を見なかった。
院長オーブリーが、一歩前へ出た。
「私が、確かめた。院の名で、相違ない」
「……確かか、院長」
陛下の一言に、オーブリーはためらわず頭を垂れた。
「確かにございます、陛下」
修復室の夜、五倍子の煎じを共に見た男が、公の場で同じ結論を口にする。黙認の均衡を崩した男が、公の均衡も崩す側に立つ。
ギデオンの手が、静かに動いた。
「祈祷の裁可を、願いたく存じます」
結審の場と、同じ手だ。物の言葉が届かないところへ、権威を呼ぶ。
「許す」
陛下の一言に、大祭司トリスタンが進み出る。祭服の裾が、石床を擦った。
「——本物にございます」
あの日と、同じ言葉が来る。緩みかけた空気の中で、トリスタンは退がらなかった。
「祈りが先に立つ場に、五十年おりました。残された年月のほうが、もう短うございます」
「十七年前にも、わたくしは一度、偽と申し上げました。……あれは、乱れておりませんでした」
誰も、声を出さなかった。ギデオンの微笑みが、初めて、動きを止めていた。
「——大祭司どの。それは、儀の外の話だ」
「儀の中の話にございます、宰相閣下。祈祷の裁可を、乞われたのは閣下にございます」
「……続けよ」
陛下の短い一言が、場を裁いた。ギデオンは、それ以上重ねなかった。
トリスタンが、一礼して続ける。
「あの日の記録は、どこにも残っておりません。ですが、わたくしの記憶には、残っております」
結審の場で問うて誰も答えなかった問いが、ここで返る。外した記録は、どこへ行くのか。答えは、この人の中にあった。十七年、渡す先がないまま。
門前で見せられた、あの綴じ糸を思い出す。文書院では使わない、緩く撚った糸。四十年ぶんの申立ての台帳は、ひと冬だけ神殿の手にあり、何も告げられずに返された。
祈祷は、あの時からこの家に沈黙してきた。使われてきたのは、いつも神殿の技のほうだ。
「記録官どの。……よろしいですか」
「大祭司様の記憶に、異存はございません」
一礼して、トリスタンが元の位置へ退がる。
「——大祭司どのも、老いられたようだ」
ギデオンの低い声に、応える者はいなかった。制度が、自分の中から崩れていく。誰も、断じなかった。断じる必要が、なかった。
最後の一枚が、残った。
奉呈の最後に置かれるのは、母が書いた紙だ。旧ソレル領の帰属をヴァルドー家に確定させた、境界裁定の副本。門の外に並ぶ老女の家の話でもある。
紙を、両手で持つ。指先が覚えている重みだ。この一枚に人生を裁かれた朝から、四十日。同じ一枚を、広間の全員へ差し出す。
宰相府で聞いた声が、耳に戻る。「紙も文言も、こちらで整えて渡した。母上はただ、書けばよかった」——正しい年代の、古い紙を。
母は、その紙を、使わなかった。
手元に置かれた古紙を退けて、署名の日より三年、若いこの一枚を選んだ。そして、署名の欄を空けたまま逝った。
作業室で検めた、叙爵状の青い屑も同じだ。あの喪の色の紙も、母が漉き元から選んでいる。一枚きりの嘘が、遺された印の連なりに変わる。
ほとんど見えなくなった目で、それでも紙だけは選び続けた人だった。最後に選んだ一枚が、これだったこと。それだけが、今のわたしを支えている。
門の外に立つ、ジョスランの姿が浮かぶ。この紙が何を言っているか、あの人はまだ知らない。今日じゅうに、伝える。
祈祷さえ本物と言えば、誰も物を見ない。その世界で、母は物を読める者にしか読めない嘘を仕込んだ。
紙の年代が——署名だった。
広間の全員の前で、母の紙を静かに掲げる。窓の光に透かすように。指の先で、角の欠けをもう一度たどった。
「筆は、人を指しません。指すのは、いつも物のほうです」
紙を、机の上に置いた。それ以上は、言わなかった。断じる言葉は、要らない。物が、もう語っている。
当主の列も、監査官の席も、置かれた一枚から目を離さない。
やがて、ギデオンが口元だけで小さく笑んだ。
「……見事だ」
負けを認める声ではなかった。駒が一つ動いたことを、律儀に記した声だった。
「儀は、まだ終わっていない」
静かな一言に、油断はなかった。この人はまだ、次の手を持っている。裁定も、名を書き戻すことも、これからだ。それでも、今はいい。
母がついた嘘には、宛先があった。
——わたしに。




