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婚約破棄も濡れ衣も、もう結構です。——ただし宰相閣下、貴家が伯爵位を賜ったと書かれたその一枚は、いつ漉かれた紙でしょうか  作者: 御茄子之与一


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第008話 まだ、この国にない筆

儀まで、あと二十八日。


ノエルが階段から落ちて、二日が経った。


朝のうちに医務室へ寄ると、老人は寝台に横たわったままだった。呼びかけると、目だけをこちらへ向け、小さく頷いてみせる。


「……ご案じくださいますな」


返ってきた声は、思っていたよりしっかりしていた。だが、右手は掛け布の下に入れたまま、最後まで出てこなかった。


「お手は」


「……お構いなく。お仕事へ、お戻りください」


見せたくないのだ、と分かった。暴くのは、今日の仕事ではない。


あの夜の声——「マリアンヌ様も……同じことを……」——には、触れられずにいる。訊けば、床についたままの体に、また重荷を負わせることになる。


「……また、寄らせていただきます」


返事はなかった。ただ、掛け布の下で、何かが小さく動いた。


昼前、院長付きの書記から言い渡された仕事は、古い保管室での作業だった。儀に向けた「写しの整備」——各家から出される写しを、原簿の数と突き合わせる。降格した身に回ってくるのは、こういう地味な人手仕事だ。


皮肉だとは思わなかった。これまで足を踏み入れたことのない場所へ、正式な用件で通されるだけ、まだましだった。


書庫の前で待っていたジョスランに行き先を告げると、彼は何も言わず、並んで歩き出した。渡り廊下の窓の外は、もう秋の色を帯びはじめている。



古い保管室は、書庫よりさらに奥、地下に近い一角にあった。窓は高い位置に一つだけ。差し込む光は細く、埃の粒がその中でゆっくりと舞っている。


天井が低く、積まれた棚が息苦しく迫って見えた。年代を追って綴じられているはずの背表紙に、抜けや入れ替わりがいくつも目についた。奥の一角だけ、鍵のかかった木箱が積まれている。床には、長らく人の踏み入った跡がなかった。


棚には、束ねられた文書の山が、丁数も分からぬまま積まれていた。表には年代の走り書きだけ。


案内してきた書記が渡したのは、棚の鍵だけだった。


「儀までに、この部屋を空にせよとのことだ」


それだけ言い残して、書記は立ち去った。


「ここに、人が来ることは」


「めったにない、と聞いております。写しの整備の名でもなければ、鍵すら借りられません」


道具箱を足元に置き、束を一つずつ解いていく。ジョスランは隣で、解いた束を年代順に並べる仕事を黙って引き受けていた。


棚の量からすれば、無理のある達しだった。命じられた側に、選ぶ余地はない。


数えても数えても、束が減った気がしない。似たような台帳が続き、目が慣れてくると、かえって見落としが増える。乾いた紙の粉が指の腹をざらつかせはじめた頃、一枚の文書に目が止まった。


日付は、三七九年。行の脇に、細い二条の傷が走っている。羽根の穂先が作る筋とは違う。固い、金属の先端でなければ残らない筋だった。


見覚えのある傷だ。書庫の木箱の底で拾った、あの金属ペンの試し書き——同じ跡が、この一枚にも残っている。


「書けます。ただ、紙に傷が残ります。この国に入って、まだ二十六年の筆です」


あの日の言葉が、耳の奥でよみがえる。


「ジョスラン様。これを」


差し出すと、彼は身をかがめ、傷のあたりに目を近づけた。


もう一度受け取り、窓の光にかざす。指先でなぞると、三七九年の日付と二条の傷が、頭の中で音を立てて噛み合った。


「この字は、羽根では書けません。——この筆がこの国に入るのは、その七年後です」


「七年後……」


ジョスランが、口の中で何かを数えるような間を置いた。


「王暦四一二年の今から、二十六年前。——三八六年か」


「はい。交易の記録に残っております。院の備品の出納にも、初めて買い入れた年が。……わたしの言葉ではなく、誰でも当たれる数字にございます」


この国にまだない筆で書かれた文書が、三七九年の日付を名乗っている。



一枚だけでは、なかった。束をさらに解くたび、同じ細い傷を持つ文書が出てくる。日付はまちまちだった。三七〇年代のものもあれば、三九〇年代に近いものもある。


境界の裁定、税の減免、跡継ぎのない家の相続——中身は、どれも地味な事務文書だった。声高な陰謀の証文など、一枚もない。日々の暮らしの隅で、誰にも気づかれぬまま書き換えられてきた紙ばかりだった。


重ねた山を、机の端で二つに分けた。左へ、三八六年より前の日付のもの。右へ、それより後のもの。


「なぜ、分ける」


「三八六年より後の日付のものは、この筆だけでは偽とは申せません。その頃には、もうこの国に筆がございます」


右の山の上に、手を置く。


「院の記録官は、いまも誰も使いません。……ただ、同じ筆を使う手が、そこから先も続いていた印にはなります」


「では、右は捨てるのか」


「いいえ。別の物に訊きます」


写しの束を検めていたとき、目が滑りかけた。二つの写しの同じ行に、まったく同じ形で誤って書かれた語がある。


「同じ誤りは、親から子へ写ります」


呟(つぶや)くと、隣のジョスランが束から目を離した。


「写し違いか」


「いいえ。写し損ないなら、字がばらつきます。……これは、迷いなく、同じ場所で誤っております」


誤字は、正しく直されずに、次の写しへそのまま渡っている。写す手が、疑わずに写しているという証だった。


同じ誤りは、左の山にも、右の山にもあった。三八六年の前と後を、一本の流れが貫いている。


「……偽と申し上げられるのは、いまはまだ、左の山だけです。ですが、同じ流れの中で写された束だということは、申せます」


紙そのものにも、目を凝らす。束の中の紙は、簀の目の細かさが揃っていない。ある一群は目が粗く、別の一群は細かい。二枚を並べ、光にかざして重ねてみる。


偽りは、これだけの数がある。手が、紙の上で止まった。


「……いつからだ」


ジョスランの声が、低くなっていた。


「……分かりません」


同じ手が、同じ嘘を書き続けてきた。勝った、とは思えない。机の端の紙の山は、いつのまにか片手では抱えきれない高さになっていた。積み上げるたび、腕の中で紙束が微かに、きしんだ。


一人の悪意なら、いつか終わる。だが、これは代替わりしてなお続いてきた仕事だった。相手にしているのは、一人の敵ではない。積み上げられた、仕組みそのものだ。そう気づいた分だけ、指先が冷えていく。


指を折って、残りの日数を数えてみる。二十八。その日数で暴けるのは、この山のうち、いったい何枚だろう。それでも、明日に回せる紙は一枚もなかった。


字の質にも、差があった。古い時期のものは、線が揺れ、行が斜めに乱れている。素人の手だと、ひと目で分かる。だが、時代が下るにつれ、字は揃い、崩れが消えていく。粗い束と、揃った束を、卓の上で並べ替えてみる。


「境目は」


「……日付のうえでは、どことも申せません。ただ、この束のどこかで、書く手が変わっております」


その境目で、何か、あるいは誰かが働いた。——それだけは、確かだった。


束を見渡して浮かんだのは、疑問ではなく、一つの得心だった。


「偽る者が恐れるのは、検める目だけです。この国は六十年、物を見る目を——雇っておりました」


この部屋そのものが、その怠慢の証だった。ジョスランは何も返さず、ただ束の山へ目をやっていた。



細い窓の光だけを頼りに傷の深さを見極める作業は、燭台の下よりも目を酷使する。目の奥に鈍い痛みが差し込み、何度もまばたきをしていると、ジョスランが黙って懐から何かを取り出した。


水晶を薄く削った円盤。縁を布で巻いた、小さなレンズだった。


「目に、これを。……さっきから、同じ紙を三度、光にかざしている」


差し出された、それだけを、そっと受け取る。


「……どちらで、お求めに」


「拾った物だ。あの木箱に、他にも入っていた」


あの日、金属ペンが出てきたのと同じ箱だ。返しておく、と言って彼が戻した箱を、この人はもう一度あらためたのだ。


傷の上に、レンズをかざす。細い筋が、驚くほどはっきりと浮かび上がった。晩年の母が、こういう物を持っていたら——そんな考えが、ふと頭をよぎった。


礼を言う代わりに、ただ一度、深く頷いた。


「……前に、一つ訊いた。俺がいないことに、あなたが腹を立てたのかどうか。——まだ、答えを聞いていない」


書庫に置き去りになったままの問いだった。


「……あの問いの答えは、いまも見つかりません。言葉にすると、どれも違うものになってしまうのです」



束の脇に、この保管室の貸出簿が置かれていた。表紙をめくると、借り出された文書の名と、借り手の名が並んでいる。目を落とした先で、指が止まった。


借り手の欄に、人の名がない。「監査」とだけある。


工房の注文帳のときと、同じやり方だった。


ジョスランに告げるかどうか、一瞬迷った。だが、確かめもせずに口にすれば、疑いだけが独り歩きする。


顔を上げず、そのまま頁を閉じる。


この連鎖は、いつから、誰の手で始まったのか。


やがて、保管室の外から声がかかり、今日の割り当てはここまでだと告げられた。


道具を片付けながら、机の端に重ねた文書の山を、あらためて数えてみた。三十を超えたところで、数える手を止めた。指先はとうに、紙の粉と埃で白くなっている。肩から二の腕にかけて、鈍い重みが残っていた。


「……何枚、確かめた」


ジョスランが訊いた。


「数え切れておりません。……まだ、終わりが見えないのです」


「明日も、この部屋か」


「決まっておりません。割り当ては、その日ごとに言い渡されます。……院長への報告は、今日の分だけにしておきます。数だけを見て早合点されては、かえって動きを封じられかねません」


ジョスランは、束の山にもう一度目をやってから、短く頷いた。


二人で戸口へ向かう。振り返ると、暗がりの棚が、光の届かないところまで続いていた。外へ出ると、細い窓の下で何刻も過ごした目に、午後の日差しがひどくまぶしかった。


「……いつから、続いていた」


始まりは、まだ分からない。それでも、この流れの長さだけなら、もう言える。


「一枚ではありません。——数十年分です」


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