第007話 写させられた手
儀まで、あと三十日。
昨日、門前で聞いた老女の一言が、まだ耳の底にある。あったものを無かったことにされた、という訴えだった。答えのない問いを一つ抱えたまま、今日という日を書き足した。夏の名残りは、もうどこにもない。
朝のうちに、棚の端から二列目までを数え終えた。昨日より進んだのは、一列ぶん。セルジュが遺した伯父上の名へ届くには、まだ半分も進んでいない。丁付けの数が合わない台帳の一件も、書面を出して五日、返事がない。
昼前、書庫の入口で、院の使いが門衛に告げているのを耳にした。
「過去五年分の写本記録を、端から洗っている。次は修復室だそうだ」
洗われる先に、ノエルの名がある。監査の手は、こちらよりずっと先に動いていた。半端に疑われたまま、これ以上ひとりで背負わせておくわけにはいかない。
七日前、院長が監査院の報告として、偽造疑いの文書群にノエルの手が混じっていると告げた。あの日、老人は目を伏せ、何ひとつ言わなかった。
その先を、今日まで訊けずにいる。訊けなかったのは、加担者だったと聞かされるのが怖かったからだ。廊下ですれ違うたび、変わらない一礼に救われて、日を先送りにしてきた。
道具箱を提げ、修復室へ向かった。訊かずに済ませてよい日は、もう終わっていた。
修復室は、書庫よりも一段明るい。北向きの窓から、均された光が絶えず落ちる。壁際には、修復途中の頁が板に挟まれ、乾くのを待っていた。膠と古い紙の匂いが、部屋の隅々に染みついている。
棚の道具は、刷毛も石も、寸分違わぬ並びで置かれていた。隣の台で同じ薬液の匂いを嗅いでいた頃も、この並びの意味を考えたことはない。
ノエルは、いつもの卓で筆を動かしていた。歳のわりに、背筋はまっすぐだった。
「アニエスさま」
顔を上げ、いつもの一礼をする。だが、指先が卓の上で一度止まった。監査の噂は、もうここにも届いている。
「今日は、お預かりしたいものがございます」
疑いをかけられた写しの控えと、その元になった一冊を見せてほしい。用件は、それだけだった。
ノエルは何も訊かず、棚の奥から古い綴りと、一冊の帳を運んできた。どれのことかは、訊き返されなかった。手渡す指が、かすかに震えている。
納めた写しは相手方へ渡り、控えはこの部屋に残る。監査がノエルの名を掴んだ道も、その決まりのほかにない。どちらも室の預かりで、外へ持ち出さぬかぎり、開くのに許しは要らなかった。
「あの日のことを、まだお赦しいただいてはおりません」
卓に置きながら、ノエルが言った。声が沈んでいる。
「監査の方々にわたしの名を告げられ……何も申し上げられませんでした。うつむくことしか、できませんでした」
「存じております。だからこそ、今日は伺いました」
「なぜ、元の一冊まで」
問われて、正直に答えた。
「写しは、元の一枚と並べたときにしか、ものを申しません。あなたを疑うためではなく、疑いを終わらせるために」
ノエルの肩が、わずかに緩んだ。道具箱の中身を探るより先に、薄い革を指へ通す。震える老人の手を、これ以上待たせるつもりはなかった。
控えの一枚を、元の一冊の同じ丁と並べる。写しの筆致は、確かにノエルの手だった。控えの隅には、老人の名と、三年前の日付が残っている。
だが、並べたのは字の形ではない。墨継ぎの位置だった。
「アニエスさま。墨の継ぎから、何か読めますか」
「継ぐ場所は、書き手の呼吸にございます。息を吸う間、目を上げる間——人によって、その間合いが違います」
記録官だった二年で、幾つもの写しを見てきた。同じ手が同じ文を二度書いても、継ぎの位置までは揃わない。
並べた二枚の墨継ぎは、しかし——一字も違わず、同じ位置にあった。息を止め、指で頁を押さえたまま、数えるように見比べる。
写しの継ぎは、元の一冊の継ぎを、行から行へそのままなぞっていた。偶然で片づけられる数ではない。
「これは」
ノエルの声が、掠れた。
「墨を継いだ場所が、一字も違わず同じです。——写したのではありません。写させられたのですね」
筆が、卓の上に落ちた。乾いた音が、狭い部屋に響いた。
「証すのは、ここまでにございます」
続けて、一行で自分を戒めた。
「この二枚が証しますのは、控えのほうが、元の一枚を横に置いて、一行ずつ目で追って書かれたこと。それだけです。誰に、どのように書かされたか——それは、物には申せません」
「わたしの言葉で、よろしいのですか」
ノエルの声が、震えている。
「はい。物が証すのは半分。残りの半分は、あなたの言葉と、これまでの日々で立てます」
長い沈黙のあと、ノエルは椅子に深く座り直した。膝の上で組んだ両手の甲を、窓の光が静かに照らしている。それから、絞り出すように語り始めた。
「三年前、監査の名で、この元の一冊を、一行ずつそのまま写せと言われました。……断れば、修復室ごと閉じる、と」
修復室が閉じれば、この院に残る古い頁は、朽ちるに任せるほかない。
「断ることも、誰かに訴え出ることも、できませんでした。老いた身の一存で、修復室を潰すわけには参りません」
名を掴ませたのも、今この人を救うのも、同じ一枚の控えだった。
「誰の名だったか、お聞かせいただけますか」
「……お顔までは。監査院の使いを名乗る方が、一度きり。以来、姿を見せてはおりません」
監査院の使いなら、この院の者が顔を知らずとも不思議はない。だが、修復室を閉じると言えるのは、院の内側の権を借りた者だ。名を出さずにその権を使える場所に、その人は立っていた。
顔のない一言で、七十を過ぎた老人が三年、口をつぐんできた。
あの日の名指しは、この一件を指していたのだと分かった。加担者と見えたのは、拒めなかった者だったからだ。
「わたしも、書けと言われたものを書いてきました」
ゆっくりと、ノエルはそう言った。
書けと言われたものを書いてきた者同士。突き放して見ていた老人が、鏡になって立ち上がる。
物を見る目が曇っていれば、人は誤って測られる——この七日、わたしがそうしていた。持たされた技を、拒む術もなく他人に使われる痛みなら、この身にも覚えがあった。
古い控えの綴りから、十年前のノエルの筆を見つけて並べた。今の筆致とは、線の太さも止めの強さも違う。指の力が落ちれば、線は細くなる。目が衰えれば、止めが甘くなる。
「人の字は、年で変わります」
言いながら、指がもう一枚を探し当てていた。見習いの頃の筆と、この院に古くから伝わる手本の筆だ。四十年、五十年と隔たった手が、同じ卓の上に並んでいる。
「字は年でも変わり、世代でも変わります」
ノエルは、それには答えず、静かに目を伏せていた。並べた紙を一枚ずつ綴りへ戻す指の動きは、いつもと変わらなかった。
「戸を締めて、今日はお早くお帰りください。院長へは、明朝わたしから申し上げます」
「……ここは、わたしが締めねばなりません。板に挟んだ頁は、乾き切るまで人がついております」
修復の仕事は、紙の都合で終わる。人の都合では、終わらない。
窓の外で、鐘が昼を告げた。
書庫へ戻る道々、ジョスランが待っていた。
「終わったのか」
「はい。……あの人は、加担者ではありませんでした」
ジョスランは短く頷き、それ以上は何も訊かなかった。
「顔のない誰かに、脅されていたそうです。名も、顔も、分からないままに」
聞いたとたん、ジョスランの目つきが変わった。記録の外から人を脅す手は、この男には他人事ではない。
「……名を持たない相手には、抗いようがないな」
記録に名のない男が言うと、その一言は相槌ではなかった。二人並んで、書庫への道を戻った。
夕刻、書庫を出て、修復室の前まで戻った。今朝の使いの言葉が、まだ消えていない——次は修復室だそうだ、と。あの部屋には、頁が乾き切るまで人がつく。
戸口から声をかけると、奥から返事があった。いつもより、間の空いた「はい」だった。それで済ませ、書庫への廊下を歩き出した。
数歩進んだところで、足を止めた。戻る理由は、うまく言えなかった。ただ、あの返事の間が、耳から離れなかった。
引き返すと、修復室の灯りは消えていた。扉に手をかけ、もう一度呼びかける。応えはない。廊下の先は、既に夜の色をしていた。奥の階段のあたりから、物の落ちる音がした。
「ノエルさん?」
呼びかけても、返事はなかった。薄闇の中、階段の下へ駆け寄る。
ノエルが、うつ伏せに倒れていた。灯りを取り落とした跡のほかに、分かることは何もない。踏み外したのか、それとも——考えかけて、やめた。物のない場所で、物言いをする資格はなかった。指先が、勝手に震えている。
膝をつき、肩に触れる。乱暴に揺すりはしなかった。動かしてよい部位と、動かしてはならない部位を、修復の作法がそのまま教えていた。頭の下に血の跡がないことを、まず確かめた。
微かに呻き声が返った。息はある。
「ジョスラン様!」
声を張り上げると、書庫のほうから足音が駆けてきた。ノエルの脈を確かめ、彼はすぐに身をかがめた。
「動かすぞ」
短く言うと、老いた体を背に負った。記録にない男が、記録の外で人のために動くのを見るのは、初めてだった。書庫でこの三年、自分の名だけを探してきた腕が、今は他人の重みを黙って支えている。
石段を下りる背中は、揺らさぬよう、一歩ずつ確かめるように運んでいた。灯りを持って先を照らしながら、その背を追う。石段の数を、無意識に数えていた。
医務室の寝台に横たえられ、しばらくして、ノエルの瞼が薄く開いた。医師が脈を確かめ、深くは案じずともよいと短く告げて、部屋を出ていった。
それでも、指先に残ったノエルの手の冷たさは、すぐには消えなかった。寝台の脇に立ったまま、ジョスランも黙って動かない。灯りが一つ灯る部屋に、三人分の息だけが満ちていた。
「アニエスさま……」
「ここにおります。もう、大丈夫にございます」
かすれた声が、意識の際で、なお何かを探していた。
「マリアンヌ様も……同じことを……」
そこまで言い終えると、瞼が再び落ちた。




