第006話 わたしの家は、あったのです
儀まで、あと三十一日。夏の名残りは、朝の空気からほとんど消えていた。石畳を渡る風が、うっすらと冷たい。
書庫へ向かう朝の道は、いつもどおりの静けさだった。
修復室の前を通ると、ノエルはいつもの位置で筆を動かしていた。顔を上げ、小さく頷いてくる。それだけで、今日も無事だと分かった。丁付けの合わない台帳の件で出した書面は、四日、返ってこないままだ。
昨夜のうちに数え終えたのは、棚の端の一列だけだった。この調子では、儀の日までに半分も届かない。セルジュが言い残した伯父上という一語へ届く道も、この棚の先にしかない。
書庫に入り、道具箱を取って扉を出ると、ジョスランがすでに待っていた。連れ立って歩くことが、いつからか当たり前になっている。何も言わず、並んで石段を上がる。
文書院の正面、門の脇には、朝早くから列ができていた。申立ての受付を待つ人々だ。
土地の境目を巡る訴え、税の見直しを求める願い、失われた縁者を捜す届け出——記録官だった頃は、書面の束としてしか目にしなかった人々が、今日は生身の姿でそこに並んでいる。
記録官として働いていた二年、この列の前を、幾度となく通り過ぎた。足を止める理由は、いつもこちら側にあった。列に並ぶ人々の顔を、一人として覚えていない。
写字生になってから、門の脇を通るのは初めてではない。だが今朝は、先頭に立つ背中に、足が止まった。
灰色の外套をまとった老女が、ひとり静かに立っている。同じ場所で、幾度も見た背中だった。声をかけたことは、一度もなかった。
「マルグリットさん、また今日ですか」
門衛のドニが、書類をめくりながら言った。実直な役人の顔をしている。毎朝の手順をなぞる声だった。
受付が開くたび、同じやり取りが交わされる。後ろに並ぶ商人らしき男が、その背をちらりと見て、すぐに目を伏せた。慣れた無関心だった。
「はい。今日も、参りました」
老女は、深く頭を下げた。
「ソレル家の申立ては、去年の裁定で結審しております。同じ書面をお持ちいただいても……」
「それでも、出させていただきます」
懐から取り出した書面を、皺の寄った指が丁寧に押し広げる。ドニはため息とともにそれを受け取り、脇の箱へ収めた。次の書面と同じ扱いだった。読まれているかどうかは、分からなかった。おそらく、読まれない。
「半刻の道を、毎朝だ。よく続く」
ドニは咎めているのではなかった。続くはずのないものが続いていることへ、素朴に驚いていた。
見ているうちに、足が動いていた。以前なら、通り過ぎるだけの光景だったはずだ。今の自分がどこに立たされているかを知ったばかりだからこそ、見過ごせなかった。
「失礼ですが」
声をかけると、老女がこちらを見た。皺だらけの顔の中で、目だけが驚くほど澄んでいた。
「記録官さまでは……」
「今は、写字生にございます」
正しく告げた。肩書きひとつ違えば、この人の話をどこへ持っていけるかも変わる。
「まあ……それは」
マルグリットは言葉を探した。それ以上は、何も訊いてこない。深く頭を下げて、口を結んだ。
「その書面は、代々のものですか」
「はい。父の代から。……もう、四十年になります」
「四十年」
繰り返すと、マルグリットは静かに頷いた。
「ソレル家は、灰の年に復元されなかった家にございます。爵位も、土地も、正史からは消えました。……わたしは、その申立てを、父から継ぎました」
「灰の年」という一語だけで、あとの説明は要らなかった。文書院に勤める者なら、誰もが知っている出来事だ。灰の年から、もう六十二年になる。
だが、その中に「復元されなかった家」があると、正面から聞かされたのは初めてだった。書物の上では、灰の年の記録は焼失として一括りにされている。その一括りの中に、四十年、同じ門に立ち続けた人がいる。その一行は、どの巻にも起こされていない。
「差し支えなければ、家伝の記録を拝見しても」
老女は、少し驚いた顔をした。それから、懐から今度は薄い帳面を取り出した。
マルグリットに断り、門脇の石の腰掛けへ帳面を運んだ。朝の光が、ちょうどそこまで届いていた。ジョスランは、柱の陰から黙ってその様子を見ていた。
屋内の燭台に頼らずに済む検分は、記録官の頃以来だった。
道具箱の蓋を開け、薄い革を指に通す。老女が意外そうな顔をした。
「他人の紙にも、同じ作法です」
帳面の表紙は硬く干からび、綴じの糸が所々ほつれている。
紙は、文書院の保管庫に眠る台帳と、ほとんど同じ古さに見えた。
ドレーヌ家には、代々の書き物が書架ひと棚ぶん残っている。ソレル家の帳面は、この一冊だけだった。同じ書き物という仕事の中に、これほどの差があることを、今日まで意識したことはなかった。
頁を繰ると、文字は薄れ、虫の道が幾筋か通っていた。穴は入口が広く、奥へ進むほど狭まっている。虫は紙を選ばない。
だが、道の形だけは、いつも同じ理屈で通る。人の手で破られた跡なら、繊維が外向きに裂ける。この道は、外から内へ、静かに食い進んだだけの跡だった。危ういのは頁の耳ではなく、綴じそのものだった。
「……その、虫の穴でございますか」
マルグリットが、手元から目を離さずにいた。
「いいえ。穴の形は、正直です。この帳面は、よく守られてきました。……弱っているのは、紙ではなく、糸のほうです」
綴じ糸に、目を寄せる。撚りは緩い。蝋の照りも、匂いもない。
見覚えのある撚りだった——棚の隅に積まれていた、あの祈祷書の糸だ。文書院の糸は、もっと硬く、もっと強く撚られている。蝋を引くのは、一度綴じたら替えずに済ませるためだ。
緩く撚って蝋を引かない糸は、替えることを前提にした綴じだった。綴じを年ごとに改める習わしを持つのは、この国では神殿のほかにない。
「この糸は、文書院では使いません。——神殿の綴じです」
告げると、マルグリットは驚いた様子もなく頷いた。
「ええ。一度、神殿にお預けしたことがございます」
「お預けになった理由は」
「祈祷にかけていただくためにございます。神殿さまが本物と申されれば、院も動くと、父が申しておりました。……父の代は、それを頼るばかりでした。役所へ紙を出すようになったのは、父が死んでからにございます」
老女は、綴じの糸にそっと指を添えた。
「ひと冬お預かりいただいて、そのまま返ってまいりました。本物とも、偽とも、うかがっておりません」
この申立てが一度も前へ進まなかった理由の、少なくとも一つがそこにあった。
糸だけが替わって、返ってきた。四十年のうちのひと冬、この一冊は神殿の手の中にあった。
ヴァルドー家は、男爵から伯爵へ。ソレル家は、跡形もなく消えた。同じ灰の年を境に、二つの家の行く末は、これほど分かれた。
頁の隅、褪せた染みに目を留めた。
「これは」
「昔、喪の年に使った糸束の色にございます。……国中が青に染まった年が、ございましたでしょう」
老女は、遠くを見るような目をした。
「あの年、うちの糸も、みな青く染めました。喪に服する家など、とうに残っていないというのに……変わらぬ習わしだけは、律儀に守るものにございます」
その喪の年は、わたし自身が生まれた年でもあった。国中が青に沈んだ年に生まれた娘が、今こうして、この帳面の染みを覗き込んでいる。胸のうちに置いたままにした。
それきり、マルグリットは口をつぐんだ。
陽が、門の影を少しずつ短くしていった。
「四十年、変わらぬのか」
ジョスランが、灰色の外套の背に目をやりながら言った。低い声だった。
「はい。……変わらぬことこそ、ソレル家の申立てそのものにございます」
老女が答えると、ジョスランは少しの間、黙っていた。書庫で三年、自分の名を探し続けてきた男の沈黙だった。それから、静かに口を開いた。
「ばあさま」
初めての呼びかけだった。老女は、驚いたように顔を上げた。
「あなたの家は、灰の年に、何を失った」
「すべてにございます。……家名も、土地も、先祖の墓所さえも、正史からは失われました」
「だが、あなたは、なくなってはいない」
老女は、ゆっくりと微笑んだ。
「はい。……わたしは、まだ歩いております」
消された家と、消された人。並んで立つ二人の背を、わたしは見ていた。
頭上で、昼を告げる鐘が鳴った。門衛のドニが、箱に収めた書面をそのまま棚へしまい込む。今日もまた、結審済みの一件として扱われるだけだ。
マルグリットは、深く一礼した。それから、まっすぐにこちらを見た。
「記録官さま。……いいえ、写字生さま」
言い直しに、詫びる響きはなかった。ただ、正しく呼ぼうとしただけだった。
「今日もお目にかかれて、ようございました。明日も、また参ります」
「はい。また、いつでも。……マルグリットさん」
その名を口にしたのは、初めてだった。老女は目をしばたたき、深く頭を下げた。
列の他の者たちは、名を呼ばれるたびに一人ずつ前へ進んでいった。マルグリットだけが、いつも最初に来て、最後まで動かない。
身をひるがえすと、ジョスランが黙って歩き出した。行き先は、いつもの書庫だった。
「似ていると、言ったら怒りますか」
歩きながら、わたしは訊いた。誰と誰が、とは言わなかった。
「……ばあさまに、失礼だ」
答えたきり、ジョスランは歩調を速めた。否定には、なっていなかった。
数歩ぶん進んでから、また声がした。
「あの人には、取り戻す家がある。俺には、それもない」
「……軽々しく、申しました」
ジョスランの歩調が、もとに戻った。
四十年、同じ書面を出し続けて、何が変わったのか。何も変わっていない、と言ってしまうのは容易い。
だが、あの背中は、四十年前から一度も折れていなかった。
わたしが日ごとに書き直している残りの日数は、三十一。この手で崩せた紙は、まだ一枚きり。数える年月の長さが違うだけで、待つ側の姿勢に違いはない。
なぜ、ソレル家だけが、復元されなかったのか。答えは、まだどこにもない。
門を離れる間際、老女の声が、背中越しに届いた。
「わたしの家は、あったのです」




