第005話 同じ一枚の、裏と表
儀まで、三十三日。召喚状が届いてから、二日が過ぎていた。
机の隅の油壺は、まだそこにあった。三晩灯しても、まだ半分を割らない。灯りを惜しまずに済む夜が、あの日から続いている。誰が置いたのかは、訊かないままでいる。訊けば、明日から置かれなくなる気がした。
召喚状に書かれていたのは、監査院の審問に出頭せよ、それだけだった。写字生の身分で呼ばれることに、驚きはない。むしろ、この日を待っていた。
丁付けの合わぬ台帳の件は、召喚状の来た朝に書面で出した。返事は、まだない。ノエルの名が挙がった件も、手つかずのままだった。
この二日、道具箱の底の検め帳面を、何度も取り出して眺めた。机の隅に据えたままの母の帳面ではない。家から運んできた、代々の検めの控えのほうだ。母が、その前は祖父が、幾十年と書き継いできた一冊だ。
表紙の革は手擦れで艶が出ている。頁の隅には、若い頃の母の癖字と、老いてから震えの混じった筆致が、同じ手として並ぶ。
持ち出すことに、ためらいがなかったと言えば嘘になる。だが、道具箱に仕舞ったままでは、誰の役にも立たない。物は使われてこそ、証となる。母なら、きっとそう言う。
セルジュと顔を合わせる場面も、幾度となく思い描いた。かつて婚約者だった男を、証人でなく被疑者として見据える日が来るとは、半年前のわたしには想像もつかなかった。今のわたしに残されているのは、物を差し出すことだけだ。
出がけに、帳面を胸に抱いて立ち上がると、ジョスランが手を止めた。何も訊かず、ただ見ていた。
「行ってくる」
短くそれだけ告げると、彼は黙って頷いた。燭台の火を落とす手が、いつもより少しだけ、丁寧だった。書庫を出る足取りは、記録官だった頃より重い。重いまま、それでも外へ出た。
表通りを行くほど、すれ違う人の視線が増えていく気がした。写字生の服で歩く女を、誰もが訝しんでいるのだろう。俯くことだけはしなかった。今日この足で運んでいるのは、わたしの言い分ではない。母たちの帳面だ。
監査院の建物は、文書院よりも一回り重厚な石造りだった。受付で名を告げると、案内もなく、扉の奥へ通された。石の廊下を進むあいだ、靴音だけがやけに響いた。
審問の間は、記録官として通った頃にも見たことのない広さだった。高い窓から差す午後の光が、長机の木目を浮かび上がらせている。奥に審問長ファブリスが座り、両脇には数名の監査官が居並ぶ。写字生の装いに落ちる視線を、黙って受け止めた。
対面の席には、セルジュがいた。目を合わせようとしない。婚約者だった頃の面影は、その硬い横顔のどこにも残っていなかった。
ファブリスは、白髪を几帳面に撫でつけた壮年の男だった。声を荒げるでも、猫撫でるでもない、乾いた口調で淡々と場を進めていく。
ここは、物でなく人の言葉が主役になる場所だ。書庫の静けさとは、響き方がまるで違う。それが、少しだけ心もとなかった。
「原簿に綴りのない副本の一件、監査院として審理を開く」
ファブリスが、書面を読み上げる声で告げた。
「記録官ドレーヌ。……いや、今は写字生であったな」
言い直しながら、視線がこちらへ向く。
「証拠があれば、示せ」
わたしは、持参した帳面を長机に置いた。革の表紙が、乾いた音を立てる。
「わたしの家の、検め帳面にございます」
居並ぶ監査官の間に、小さなざわめきが走った。誰かが身を乗り出し、誰かが眉をひそめる。構わず続けた。
「問題の副本の署名が、なぜわたしの手に見えるのか、まずご説明いたします。ドレーヌの記録官は、代々同じ筆法を叩き込まれます。祖父の代の署名も、母の代の署名も、この帳面の中では見分けがつきません。似ているのは、家の型ゆえにございます」
帳面の頁を、そっと指し示す。並んだ署名は、確かに驚くほど似通っていた。
嘘をつくつもりはなかった。似ている理由を隠せば、それこそ心証を損なう。伏せたまま通ったところで、通したのは物ではなく、わたしの弁になる。
ファブリスが、帳面を軽くめくり、また閉じた。古い頁をめくる手つきは、思いのほか丁寧だった。伊達に審問長を務めているのではないと分かった。
「なるほど。……つまり、その署名がお前の手であるとは、まだ言い切れぬわけだ」
「はい。家の型だけでは、誰の手かまでは決められません。だからこそ、別の証を持ってまいりました」
卓上の帳面から、視線がゆっくりとこちらへ戻る。値踏みするような間だった。それから、ファブリスは向かいの席へ顎を向けた。
「では、其の方の申し立てを聞こう」
促され、セルジュは硬い声で答えた。
「俺は、署名だけを求められた。内容は……検めていない」
自分を守るための一言だと、すぐに分かった。声の底に、微かな揺れがある。
「求められた、とは。誰にだ」
ファブリスが問う。セルジュは口をつぐんだ。沈黙が、束の間、審問の間を満たす。答えぬことも、また一つの答えだと、この場の誰もが分かっていた。
わたしは、机上に置かれた副本へ目をやった。
「では、副本をこの場でお見せいただけますか」
許しを得て、道具箱から手袋を取り出す。指を包んでから、紙に触れた。四日前、書庫でこの手で確かめた折丁だ。丁付けを端から数えた指の運びを、指先がまだ覚えていた。ゆっくりと、全員の目の高さまで持ち上げる。
「これは、一枚の紙を折った、二葉の綴りにございます。表に、内容。裏に、検めの署名が二つ。三六一年の日付を負う一つと、この副本が儀の予備検分へ回された折に、監査院として検めた、もう一つ」
ファブリスの視線が、セルジュへ移った。
「後の一つは、其の方の手だな」
「……相違ありません」
裏の葉の一点を示した。
「この署名の上には、定型の文言がございます。——『内容を検めて署名す』」
紙の縁を、指の腹で押さえた。
「元の折り目より外へは、折りません」
折り目に沿って、二度。表の面と、裏の面を、順に長机の端まで見せていく。監査官たちの視線が、紙の動きを追った。四日前、炎の下で傾けて確かめた面が、いま幾つもの目に晒されている。
「検めの葉と、内容の葉は、同じ一枚の紙の裏と表です。——後から差し替えることは、誰にもできません」
「内容を見ずに、この裏へ署名することは、できません。紙をひっくり返すだけで、必ず表が目に入ります」
理屈は、ここで止めた。
審問の間が、静まり返った。誰かの咳払いだけが、遠く響く。
「それは……手が滑って、裏に署名しただけかもしれん」
セルジュが、絞り出すように言った。
「裏に署名するには、一度、表を見なければなりません。滑ったのなら、なおのこと」
短く返す。反論にならないことは、本人が一番分かっているはずだった。
居並ぶ監査官の一人が、身を乗り出した。
「見えていた、というだけで、内容を承知していたとまでは言えぬのではないか」
もっともな問いだった。物が語れる範囲を、超えてはならない。
「ご指摘の通りにございます。この一枚が証しますのは、内容が必ず目に入った、という一点のみ。承知していたかどうかまでは、物には申せません」
ファブリスの眉が、わずかに動いた。
「では、決め手にはならぬということか」
「いいえ。目に入った上で、なお検めた、とご自身の名で署名なさった。それが、決め手にございます」
わたしは、セルジュへ向き直った。
「セルジュ様——いいえ。監査官様に伺います。これでもまだ、内容を検めてはいないと、仰るのですか」
答えはなかった。目が、卓上の一点をさまよっている。あの夕暮れ、切り捨てるひとことの後で泳いだ目と、同じ動きだった。
人目のない馬車寄せで、彼はわたしを「ドレーヌ嬢」と呼び替え、背を向けた。「いずれこうなる話だった」——そう告げた声が、耳の奥に蘇る。
いずれ、とはいつからだったのか。今なら、答えられる。あのとき恐れていたのは、別れそのものではなく、いずれ露見する日のことだったのだ。
「検めた、と署名なさった以上——検めていない、という弁明そのものが、偽証にございます」
声を、少しだけ落とした。
「わたしを信じなくて結構です。——その紙を、光にかざしてください」
沈黙のあと、ファブリスが副本の表と裏をあらためて確かめ、静かに告げた。
「セルジュ・ヴァルドー、停職とする。追って沙汰する。職務は、その日まで他の者が引き継ぐ」
押し殺したどよめきが、長机の左右へ広がった。端の席の監査官が、低く言った。
「……検めの規則が、検めた者を指したか」
セルジュは、席を立った。悔いる様子も、詫びる様子もない。ただ、耳が赤い。扉の前で、一度だけ振り返った。
「……伯父上に言え。俺は、書けと言われたものを書いただけだ」
それだけ言うと、振り返りもせず出ていった。足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。誰も、呼び止めなかった。
書いた、と彼は言った。名を書いただけの男が言うには、指す先の広すぎる言葉だった。
書記官が、帳面の表紙を書類挟みに挟み込む。母の指の跡が残るその一冊が、他人の手に渡っていくのを、わたしはただ見ていた。
帳面は、そのまま監査院預かりとなった。返してもらえる日については、誰も何も言わなかった。それでも、構わなかった。この一冊は、もう物として語り終えていた。
「よろしいですね、ドレーヌ嬢」
ファブリスの声に、頷きだけを返す。あの名を、もう様付きで呼ぶことはない。静かな、決別だった。審問の間に、次の刻限を告げる声が響いた。もう、ここに用はなかった。
外に出ると、日は傾きかけていた。
証したのは一枚の紙の嘘だけで、わたし自身の潔白は、まだどこにも証されていない。誰もが、次の一手を待つように、目だけでこちらを見送っていた。
戻った書庫に、灯りは入っていなかった。ジョスランは出がけと同じ椅子に座ったきりだ。窓の外の光は、もう屋根の高さまで下りていた。
「勝ったのか」
「いいえ。……一枚だけです」
短い答えに、彼は何も重ねなかった。ただ、椅子を引いてくれた。腰を下ろすと、指先から、ようやく力が抜けていく。帳面のなくなった両手が、妙に軽い。
ジョスランが、机の上の水差しを、黙って寄越した。渇いていたことに、今になって気づく。礼を言う代わりに、一口だけ飲んだ。
「一枚、とは」
「一枚の紙が、裏と表で嘘をつけないことを、今日、全員の前で示しただけです。書いた者と署名した者が別だと分かっても、その両方を仕組んだ手が、まだ残っております」
「伯父上、と言っていたな」
ジョスランが、静かに言った。
あの縁組も、向こうからの申し入れだった。文書院の格が要るのだ、と。
「はい。……本丸は、まだ奥にございます」
言いながら、棚のほうへ目をやった。等間隔に並んだ背表紙が、今日はやけによそよそしく見える。まだ誰も、この棚を数えていない。数えられなければ、証すこともできない。一枚を暴いて得た安堵は、その分だけ、次の不安を連れてくる。
三十三日は、明日には三十二日、明後日には三十一日になる。刻んだのは、確かに一枚の証だった。
空いた手で、燭台を引き寄せる。今夜からは、数える仕事だ。
棚の闇に、同じ手の紙が眠っている。——あと、何枚。棚は答えない。




