第004話 はじめから、書かれていない
「書いた者と、署名した者は、別です。」
帳面にそう書き付けた夜から、ひと晩明けた昼。儀まで、あと三十六日。写字生としては、四日目になる。
今朝、修復室の前を通りかかったとき、ノエルは筆を止めずに、こちらへ小さく顎を引いた。何も訊かず、何も言わず、ただそれだけ。
昨日のことを訊けなかったのは、こちらのほうだ。母の代から知る人が何を疑われているのか、わたしはまだ、物で確かめていない。
書庫の暮らしにも、少しずつ形ができてきた。朝は指示書きの台帳を写し、昼を挟んでまた写す。人の来ない部屋にも、写し仕事は溜まる。厄介払いと穴埋めを一度に済ませる処分だった。
手が慣れてくると、頭の隅に余白が残るようになる。
その余白が、いつも同じところへ向かう。三日前に見つけた欠けが、ずっと頭を離れなかった。対葉の数が合わない一葉——虫の食い跡でも、歳月の傷みでもない欠け方だった。
あのときは初日の写しを終えるのが先で、確かめずに棚へ戻した。昨日は工房への往復と、夜の検分で一日が終わり、それきりになっていた。
放っておくつもりはなかった。物は、待たせただけ怒りもしないが、忘れもしない。今日は、それを確かめる番だった。
「あの欠けを、見てまいります」
道具箱から手袋を取り出しながら、わたしは言った。
年月を経た紙は、素手で触れれば指の脂が染みる。それだけで繊維の劣化が進み、次に読む者の目を欺く。母から、幾度も叩き込まれた作法だった。指先を包む薄い革の感触に、いつも通りの手順が始まる安堵を覚えた。
ジョスランは黙って立ち上がり、棚の奥までついてきた。足音を立てない歩き方は、三年この部屋で暮らしてきた者の癖なのだろう。
欠けのあった綴りを引き出し、頁の隙間を一つずつ検める。埃が舞い、喉の奥がわずかにいがらっぽい。丁付けを端から数え直し、欠けの前後の綴りも順に開いていく。
「何を数えている」
「あるはずの数と、いま在る数です。……合わないところに、誰かの手が入っております」
同じ棚の古い台帳を三冊、四冊と繰るうち、指先が乾いた紙の感触に慣れてきた頃だった。
奥まった段の陰、綴りと綴りの隙間に、薄く反った一枚が挟まっているのが見えた。台帳には載っていない紙だった。
「反故か」
「そのようです。……ですが、なぜここに」
引き抜いてみると、表には何も書かれていない。ただの白紙に見えた。だが指先に触れた感触が、そうではないと告げていた。かすかな凹凸——文字の形をした、圧痕だった。
指の腹で、そっとなぞる。
「白紙ではないのか」
「いいえ。……この凹みは、紙の傷ではございません。何かが書かれていたことだけは、もう確かかと。ただ、並び方まで読み取るには、斜めからの光が要ります」
抜き取られた一葉は、綴りから消えていた。誰かが数え、誰かが抜き、また綴じ直したのだろう。
「表紙の数は、直さなかったのか」
「直せません。書き換えれば、そこだけ墨が新しくなります。……焼けの違う数字ほど、目につくものはございません。糸の運びだけを見れば、手際は丁寧でございますが、数の穴だけは、残すしかなかったのです」
けれど、この一枚は、はじめから台帳のどこにも記されていない。数えられたことがない紙は、消される理由もなかった。
「消える紙と、消えない紙があるのか」
ジョスランが、隣で言った。
「はい。……消す者は、書かれた紙を数えます。書かれなかった紙は、数えません」
数えて、抜いて、綴じ直す。手間のかかる仕事のはずだ。だが、誰かがやり遂げた以上、この一枚のような紙は、他にも眠っているのかもしれない。棚を見渡すと、積まれた台帳の山が、急に違って見えた。
窓辺へ運び、光を斜めに当てる。斜めの光の中に、文字の形が、ぼんやりと浮かび上がった。
かつてこの紙の上に重ねて何かを書いた誰かの筆が、下のこの紙にまで跡を残していた。ペン先の圧が、紙の繊維をわずかに凹ませる。上に書かれたインクは失われても、凹みだけは、下の紙に残り続ける。
斜光で綴じ順を読むのと、同じ道理だった。降格の前の朝、作業台でなぞっていた凹みが、今日はこんな形で戻ってくる。
角度を変え、息を止めて、一字ずつ読み解いていく。光を右に、左に。目の奥が、じんと熱を持ちはじめた。手は止めなかった。文字は、急いては読めない。
最初に浮かんだのは、役職を示す一語だった。
「……侍女」
続けて、名。
「……ロズリーヌ」
声に出して読み上げると、隣で息を呑む気配がした。振り返ると、ジョスランの目が、その一語に貼りついていた。
まだ続きがある。焦る心を抑え、光の角度をもう一度整えた。
「王暦三八八年、産のため職を下がる」
ジョスランは、何も言わなかった。ただ、その名を見つめたまま、動かなくなった。長い沈黙のあいだ、燭台の炎だけが小さく揺れていた。
「……母の、名だ」
彼は、ようやくそれだけを言った。声に、震えはなかった。ただ、驚きを飲み下すのに、時間がかかっているようだった。
わたしは、指先で凹みをなぞった。声が、自然と落ち着いた調子に戻る。
「この一枚の下にあった紙が、本当のことを書いております」
生まれてこのかた記録の外にいる男に、初めて渡せた物だった。名も、生まれた日も、載っていない。それでも、母の存在だけは、確かにこの紙の下にあった。
その先も、根気強く光を当て続けた。紙の端、余白の隅、裏に返した面。指先が痺れるほど何度も角度を変えたが、子の名も、生まれた日も、どこにも記されていない。
「……ないのか」
「はい。ですが、探し足りないのではございません」
わたしは、紙を机へ置いた。慰めになる言い方があるなら、それを探したかった。だが、物が語らないことを、語ったふりで埋めるわけにはいかない。
「侍女が産のために職を下がった記録は、この一枚にございます。……ですが、認知されなかった子に、出生の欄は作られません」
「欄が、ない」
「はい。書き落としでも、抜き取りでもなく、書き込むべき欄が、はじめからないのです」
わたしは、彼の目を見た。
「あなたの名は、消されたのではありません。——はじめから、書かれていません」
慰めにはならない言葉だと、分かっていた。それでも、事実でないことは言えなかった。
ジョスランは、しばらく黙っていた。それから、静かに息を吐いた。
「……そうか」
短い言葉だった。落胆でも、怒りでもない。ずっと前から分かっていたことを、あらためて確かめたような声だった。
「探していたのは、俺自身の名だ。母の記録が出てくるとは、思っていなかった」
「見つかったのは、母上の記録だけです。それでも——」
続きを、うまく言葉にできなかった。何もないよりは、ずっといい。そう言おうとして、軽々しく響く気がして、口をつぐんだ。
わたしは、その一枚を彼へ差し出しかけて、手を止めた。
「触れる前に、これを」
用意していたもう一組の手袋を渡す。革の手触りに慣れない指なのか、彼はしばらく手袋と格闘していた。ようやく着け終えた手のひらへ、わたしは紙を載せる。
そのとき、彼の指先が、手袋越しにわたしの指へ触れた。薄い革一枚を隔てて伝わる、かすかな体温。反射的に手を引きかけて、思いとどまった。
彼は紙を光にかざした。母の名を、自分の目でも確かめるように。指先が、凹みの上をゆっくりとなぞる。文字は読めないはずだった。ただ、しばらくそうしていた。
「……ありがとう」
短い礼だった。誰に向けた言葉かは、あえて訊かなかった。
やがて彼は、その一枚を丁寧に折り畳み、上着の内側へ収めた。誰かに見せるためではなく、自分だけが確かめるための一枚として。
名も生まれた日もない男が、初めて手にした、母の名の入った紙だった。物にすがるような真似はしない人だと思っていたが、その仕草だけは、他の何にも似ていなかった。
作業を続けるうち、ジョスランが棚の奥の木箱をあさり、見慣れない道具を拾い上げた。重い空気を、少しでも軽くしておきたかった。
金属の軸を持つ、細いペンだった。持ち手の部分だけ、木で覆われている。
「これは」
「金属ペンです。……見かけない道具ですね。ここでは、珍しい」
余った反故を一枚取り、光にかざす。何も浮かばないのを確かめてから、その隅に試し書きをした。硬い感触が、紙の表を引っかいた。羽根ペンとは違う、乾いた音がする。線は細く、迷いなく引けた。
「書けます。ただ、紙に傷が残ります。この国に入って、まだ二十六年の筆です」
「二十六年。……新しいのか、古いのか」
「この国では、まだ新しい部類にございます」
「羽根より、頑丈そうだ」
「頑丈な分、力の入れ方には慣れが要ります。……これまでの記録官は、誰も使いませんでした」
「なぜ、使わない」
「新しい道具は、まず疑われます。……古い型が正しいとされる限り、変わるのに時間がかかるのです」
彼は、その道具を少しの間、手の中で転がしていた。記録にない者が、記録の道具を手にしている姿は、どこか奇妙で、それでいて自然にも見えた。
「……返しておく」
道具を棚へ戻し、わたしたちは検分を続けた。
残りの午後は、写しの遅れを取り戻すことに費やした。丁付けの合わない台帳のことは、いったん脇に置いた指示書きへ書き添え、正式な報告は明日に回す。今日という日には、もう十分すぎるほどの発見があった。
筆を動かすあいだも、ジョスランは少し離れた場所で、上着の内側に触れる仕草を、幾度か繰り返していた。何も言わなかったが、そこに何があるかは、もう互いに分かっていた。
日が傾く頃、書庫の隅の机に戻った。窓の外は、橙から紫へ移り変わる時刻だった。
写字生の一日を終える前に、今日見たものを帳面に記しておく。透かしの角度、圧痕の深さ、読み取れた一語一語。手を動かしているあいだは、今日感じた重さを少しだけ忘れられた。
写字生の油の割り当ては、記録官の頃よりずっと少ない。灯りを惜しんで検分を早めに切り上げた夜が、この四日で二度あった。今夜も、そのつもりで燭台に手を伸ばした。
机の端に、見覚えのない壺があった。
小さな油壺だった。触れると、まだ半分近く油が残っている。今朝、ここを出たときには、なかったものだ。埃の積もり方からも、今日、誰かが置いたのだろう。
隅に置かれた母の帳面に、指がかすかに触れる。埃を一度払っただけで、それ以上は開かなかった。
燭台の火を、静かに引き寄せる。今夜は、灯りを惜しまずに済みそうだった。毎夜、火を切り詰めていたことに、誰かが気づいていたのだ。——それだけで、指の先まで温かくなる気がした。
窓の外で、夜の鐘が遠く鳴った。書庫の壁の向こうでは、誰もこの部屋のことなど気にも留めていない。それでいい、と思う。物は、気にも留められない場所でこそ、静かに真実を持ち続ける。
三十六日のうちの一日が、静かに終わろうとしている。今日一日で、消えた紙が一枚見つかり、消えなかった紙が一枚見つかった。差し引きすれば、何も進んでいないのかもしれない。それでも、昨日より確かに知っていることが、一つ増えた。
机の隅に、朝はなかった油壺がひとつ。……誰が、とは考えないことにした。




