第003話 書いた者と、署名した者
「……あなたは、俺がいないことに、腹を立てたのか」
二日前、書庫に残していった、その問い。
答えを持たなかったから、答えなかった。道具を仕舞い、灯りを落とし、階段を上がるあいだも、結局ひとことも返せなかった。
写字生でも請えるのかを事務方に確かめ、降格の初日のうちに、監査院へ閲覧請求の書面を出した。
返事のないまま、二日が過ぎていた。写字生としての、三日目の昼だった。儀まで、あと三十七日。日数は、待ってくれる相手ではない。
写字生の一日は、記録官の一日より静かだ。指示書きの台帳を写すだけなら、判断も裁量もいらない。ただ、指先は昨日と同じように動く。物を読む目は、肩書きひとつで鈍りはしないらしい。今のわたしにとって、慰めはそれだけだった。
写しかけの台帳を閉じたところで、院長が姿を見せた。書面の返事にしては、早すぎる訪れだった。窓の外は、まだ高い陽だった。
「監査院から、報告があった」
前置きもなく、院長は切り出した。
「原簿の当該葉は失われ、副本だけが残った、というのが提出側の申し立てである」
失われた、のではない。抜かれた、と言うべきだ。喉元まで出かかった言葉を、わたしは呑み込んだ。物には、まだ何も訊いていない。断定は、物に任せる。母の隣で、そう覚えてきた。
原簿からなくなった一葉と、代わりに現れた副本。二つの出来事の間に、誰の手も見えない。まるで、最初からそう説明することだけが決まっていたかのように。
院長の視線が、隣の作業台へ移った。ノエルが、いつもの位置で修復の筆を動かしている。
「もう一件。偽造の疑いがある文書群の写しに、あなたの手が混じっているそうだ」
ノエルの筆が、止まった。老いた背が、一拍だけ強張る。
「わたしは……」
言いかけて、ノエルは目を伏せた。それきり、続きは出てこなかった。
「言いたいことがあれば、今のうちに言っておけ」
院長が促したが、ノエルは首を横に振るだけだった。老いた指先が、筆の柄をきつく握り直すのが見えた。
母の代から知る人だ。子供のころから、幾度も声をかけてもらった。何を疑われているのか、まだ分からない。伏せられた目の意味も、わたしには今すぐ読み解けなかった。
かばう言葉を、今ここで口にすることはできなかった。物のない場所で人を語れば、それは母の作法を自分で破ることになる。わたしにできるのは、ただ紙を見ることだけだった。
「院長。あの副本を、もう一度この目で見せてください」
わたしは言った。
「監査院預かりとは伺いましたが、写字生の立場でも、閲覧を願い出る作法はあるはずです」
院長は、短く首を振った。
「ドレーヌ。院を掘るな」
それだけだった。取り付く島もない。表情の変わらない横顔を見送りながら、わたしは奥歯を噛んだ。院長は背を向け、来たときと同じ速さで去っていった。
院長への直訴は拒まれた。だが、先に出した正式な請求そのものは、まだ監査院の手の中にある。答えは早くて午後になる、と事務方は言った。座って待つだけの半日を、無為に過ごすつもりはなかった。
わたしはヴェルナ工房へ向かった。あの紙を漉いた工房なら、簀の記録が残っているはずだった。表通りを外れ、川沿いの道を進むと、水を叩く規則正しい音が、遠くから聞こえてくる。紙漉きの音だ。
工房の隅で、老職人のコルバンが、簀を洗う手を止めずに迎えてくれた。腕まくりの下に、年輪のような皺が刻まれている。
「記録官のお嬢さんが、こんな辺鄙な所まで」
「今は、記録官ではありません」
正直に告げると、コルバンは驚いた様子もなく、笑って続けた。
「そうかい。まあ、紙のことなら何でも訊いておくれ」
現物は、まだ手元にない。記憶にある透かしの形だけを頼りに、王冠の型、右角の欠けについて尋ねた。コルバンは簀を置いて腕を組んだ。
「ああ、あれか。あの冬から、次の春に針金を打ち直すまでは、角の欠けた紙ばかりでね」
打ち直し。その一語に、指先が冷たくなった。折れたことは知っている。それがいつ直されたのかを、わたしは今日まで知らなかった。
「その打ち直しは、いつのことですか」
「注文帳を見りゃ分かる。うちは、道具の手入れも書き残す性分でね」
コルバンは棚の奥から、端の欠けた見本紙を一枚持ってきた。同じ型で漉かれた、売り物にならない試し漉きだという。
受け取った注文帳をめくる。古い墨の匂いが立った。三六五年、春の項に、確かにあった。「王冠型・針金打ち直し」の記載。
「……つまり、あの角の欠けた紙は、この冬から次の春までのぶん、ということでしょうか」
「そうさ。その間に漉いた紙にしか、あの欠けは出ないよ」
窓は、閉じた。あの紙は、この数月の間に漉かれたものだ、と今度は工房の記録が裏づけている。一枚の紙が、いつからいつまでの間に生まれたか——その両端を、これでようやく揃えられた。
三年という数字だけが、これまでは独り歩きしていた。三六一年と刻まれた日付と、三六四年の冬より後にしか漉かれ得ない紙。二つの隔たりは、もうわたし一人の見立てではなく、工房の帳面という別の証言に支えられている。
礼を言って工房を辞すころには、日はもう傾いていた。手にしたのは紙一枚ではなく、誰の前でも語れる根拠だった。
川沿いの道を戻る足取りは、来たときより軽かった。夕焼けが水面を橙色に染めている。古い墨の匂いと、見本紙の簀の目の手触りが、まだ指に残っていた。
書庫へ戻ると、机の上に一枚の許可証が置かれていた。監査院の印が押してある。
「アニエス嬢、ですね」
声に振り返ると、如才ない微笑みを浮かべた男が立っていた。歳の頃は三十半ば、身なりは文書院の官吏のものだ。
「文書院次席のリュカです。閲覧の許可が下りました。ただし、審理準備を名目とした条件付きで——立会いのもと、この場での検分に限ります」
聞き覚えのある名だ。昔、ドレーヌの家で事務見習いをしていた。
「持ち出しは、できないのですね」
「はい。この部屋の外へは、一枚たりとも」
全面の許可ではない。それでも、何もないよりは、ずっとましだった。
差し出された許可証の署名は、驚くほど整っていた。見覚えがあるような、ないような。官の手は、どれも整っている。整っていることに意味はない——そう思うことにした。
「……ありがとうございます」
「いえ。私は、運んだだけです」
リュカは副本を机に置き、目録を抱えて少し離れた椅子へ向かった。立会いは、彼自身が務めるらしい。
「終わるまで、ここにおります」
椅子を引き、静かに腰を下ろす。監視というより、立ち会いという言葉のほうが似合う距離の取り方だった。それでも、見られているという意識は消えなかった。
燭台を持って傍らに立つ男を、リュカは一度だけ見た。何も言わず、目録の続きへ視線を戻す。院の者は、あの男を見えないものとして扱う。書庫に三年いて、誰の記録にも残らないとは、そういうことだった。
灯りのもと、ようやくその紙と向き合えた。夜の書庫は、紙をめくる音までよく響く。ジョスランは何も言わずに、燭台を掲げ続けている。炎は、わたしを照らすためではなく、いつも紙の面に合わせて高さを変えた。
まず、副本を開く。一枚の紙を折った、二葉の綴りだ。原簿のどこにも掛かっていない、これ一枚きりの折丁である。
二日前、書庫の台帳で一葉の欠けを見つけたのと同じ要領で、丁付けの書き入れを端から確かめる。対葉の作法どおりに数が対になっていることを見てから、紙そのものへ目を移した。
「数を、二度も数えられるのですね」
リュカが、遠慮がちに口を挟んだ。
「対にならない綴りは、どこかで葉が入れ替わっております。数が合ってから、初めて紙の話ができます」
「では、対になっていれば、確かな一枚ですか」
「いいえ。数が合うのは、入り口にすぎません。そこからが、紙の仕事にございます」
わたしは続けた。
「公文書の写しは、二名の記録官が互いに検め、対葉に検めの署名を残します」
制度の説明であり、自分の頭を整理するための言葉でもあった。
本文の墨に、薄く焼けの兆しがある。だが、末尾の検めの署名には、それがない。紙を傾け、炎の下で二度、三度と見直した。同じだった。
「本文は、もう紙を焼き始めています。——署名は、まだ焼いておりません」
院の黒は、この国のどの墨よりも焼けが早い。五十一年を経た院の黒なら、文字の縁から崩れはじめる。本文の焼けは、その手前——紙の齢に釣り合っている。
だが、五十一年前のはずの署名には、焼けが始まってすらいない。同じ一枚のはずの二つが、まるで違う年月を歩んでいた。
この一枚が語るのは、書いた者と署名した者が別だということだけだ。わたしの潔白までは、証してくれない。証明できるのは、いつも紙の側の嘘だけだった。それでも、指先の震えはもう止まっていた。物が語り始めれば、あとは黙って聞けばいい。
では、この本文を書いた手は、誰のものか。
「文字は、いくらでも書き換えられます。——けれど、書き換えた日を書き換えることは、誰にもできません」
母の言葉ではない。院に古くから伝わる言い習わしだ。物だけが、それを証してくれる。
「比べれば、それと分かるものですか」
リュカが、控えめに問うた。
「同じ束の中でしか、比べられません」
わたしは答えた。
「焼けの進みは、置かれた場所で変わります。日の当たる棚と暗い棚では、同じ年月でも顔つきが違ってまいります。——この一枚の中でだけ、公平に比べられます」
棚の隅に、神殿の綴じの祈祷書が積んである。撚りの緩い糸に、蝋を引いていない——文書院の綴じとは、手に取らずとも見分けがつく。視線を戻した。
紙面から目を上げると、燭台の炎はまだ静かだった。休めとも、まだかとも、彼はひとことも言わない。
書庫に置き去りにしたままの問いを、この二日、何度も思い返した。答えは、まだ見つからない。傍らで、この人は紙の上に光を置き続けている。
ジョスランの腕は、最後まで一度も揺れなかった。
検分を終え、副本をリュカに返す。「本日はここまでで」と、彼は言った。次の閲覧がいつになるかは、聞かされていない。
「そういえば、注文帳のことですが」
去り際、リュカが思い出したように言った。
「ヴェルナ工房の注文帳、監査の名で借り出す手続きが進んでいるそうです。請われた方にはお伝えする決まりですので」
「分かりました」
それだけを答え、深くは尋ねなかった。監査院の名で、あちこちが動いている。あの紙も、この注文帳も、同じ手が動かしているのかもしれない。だが今は、証拠にならない疑いを並べている場合ではなかった。
リュカの足音が階段の向こうに消えると、書庫にはまた、灯りひとつの静けさが戻った。
灯りを一段落とし、今日見たものを帳面に書き記した。窓が閉じた紙のこと。焼けの違うインクのこと。積み上げたところで、まだ疑いが晴れたわけではない。それでも、今日という一日を、無駄には終わらせなかった。
減っていく日数と、増えていく物証。どちらが先に足りるか、今はまだ分からない。
わたしは帳面に、もう一行を書き足した。
書いた者と、署名した者は、別です。




