第002話 あなたに頼みがある
紙に証言してもらう、と誓った翌朝。儀まで、あと三十九日。
わたしは書庫へ続く階段を、また一人で下りた。石段は湿って冷たく、爪先に染みる。
昨夜は、燭台の届く範囲しか目に入らなかった。今朝は、見回す余裕が少しある。
記録官から写字生へ。婚約者から、他人へ。肩書きも立場も、一日でこれほど変わるものなのかと、他人事のように思う。
だが、物には感情がない。物を相手にする仕事なら、今のわたしにもできる——そう言い聞かせて、石段を下りた。
蝶番の軋む扉を開けると、埃と紙魚のにおいが鼻をついた。棚という棚に、綴じの解けた台帳が積まれている。窓は小さく、朝の光もわずかしか届かない。
二度と開かれない記録を仕舞うためだけの部屋なのだと、昨日、そう聞かされた。今日から、ここがわたしの持ち場になる。
任官してから二年、記録を読み解く側に立ってきたわたしが、今日からはただ写す。その落差を数え始めると、きりがない。棚を見渡しても、人の気配はなかった。
机の上には、書きかけの写しと、簡単な指示書きが残されていた。今日中に写し終えるべき台帳の番号が、二つ。誰が置いていったのかは分からない。
写字生とは、名も告げられずに仕事を渡される身らしい。昨日までは、渡す側だった。
あの一枚を、もう一度この目で見ないことには、何も始まらない。写字生の身で閲覧が請えるものかどうかも、まだ分からなかった。
道具箱を机に置こうとして、足が止まった。
棚の陰、光の届かない一角に、人影がある。
継ぎの当たった上着。無精髭。長い脚を投げ出すようにして座り、驚いたふうもなく、こちらを見ている。
差し込む朝の光の中で、埃だけがゆっくりと舞っていた。
心臓が、大きく跳ねた。書庫に人がいるとは、誰からも聞いていない。
物取りだろうか、道に迷った誰かだろうか。どれも確かめようがない。声を上げるべきか、後ずさるべきか、判断がつかなかった。
助けを呼ぼうにも、この階段の先まで声が届くとは思えなかった。
「……どなたですか」
道具箱を抱えたまま、一歩後ずさる。すぐそこの扉まで、何歩で戻れるか。頭の隅で数えていた。
男は、ゆっくりと立ち上がった。長身が、棚の影から光の中へ出てくる。
両手は、上げも下げもせず、ただ体の脇に添えられている。害意はなさそうだ、と思う一方で、警戒は解けなかった。
「あなたに頼みがある。俺がいたことを、書いてくれ」
前置きも、名乗りもなかった。ただその一言だけを、まっすぐに置いてくる。
「……はい?」
意味を掴みかねて、聞き返した。
「俺は、どこにも載っていない。生まれも、育ちも、この三年ここにいたことも——この国のどの記録にも、俺の名はない」
淡々とした声だった。哀れみを誘う響きも、脅す響きもない。ただ事実を並べているだけ、というふうに。
「書いてくれれば、それでいい」
頼み事のはずなのに、断られることを端から勘定に入れているような声だった。
わたしは、彼を注意深く見た。粗末な身なりに反して、言葉遣いは崩れていない。物乞いにも、狂人にも見えなかった。
「誰かに、覚えていてもらうのでは、駄目なのですか」
「人の記憶は、人と一緒に消える」
男は静かに言った。
「あなたなら、紙に残せるだろう」
——道具として、求められている。
そう気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。婚約者にも、昨日、似た扱いを受けたばかりだ。
都合のいい手として使われることに、慣れてはいない。それでも、腹の底で何かが冷めていくのを、顔には出さないよう努めた。
「物の記憶を読む術があるなら、この国に文書院は要りません。記録があるのは、術がないからです」
道具箱を机に下ろしながら、わたしは答えた。誰かの記憶を辿って真実を知る方法など、この世にはない。
あるのは、紙とインクと、それを読む目だけだ。母から、そう教わった。
「だから、記録がすべてだと?」
「はい。人の言葉は、変わります。物は、変わりません」
男は、少し黙った。それから、初めてわずかに口の端を上げた。
「筋は通っている」
そう言われても、褒められた気はしなかった。
「お名前は」
「ジョスラン」
それだけだった。家名も、続きもない。
名乗りに家名がないことが、彼の言う「記録にない」の意味を、言葉より雄弁に語っていた。
家名とは、どこから来て誰に連なるかを示す証だ。それを持たない者を、わたしは一人も知らなかった。
「ジョスラン様。……あなたは、どうしてここに」
「三年前から、住み着いている」
三年。思わず眉を寄せた。三年もの間、誰にも気づかれずに暮らせる場所などない——そう思いかけて、思い直す。二度と開かれない記録の部屋になど、誰も好んで足を運ばない。ここでなら、あるいは。
「院長は、ご存じなのですか」
「知っている。記録にないから、雇用でもない。給金も出ない。……だが、追い出しもしない」
黙認、ということだ。文書院の面子を守るためか、別の事情があるのか。理由までは、彼も語らなかった。
「他に、知っている方は」
「さあ。訊いたことがない」
投げやりな答えではなかった。ただ、本当に考えたことがないのだろう、という声だった。
「……昨夜も、わたしはこの部屋におりました。声をかけてくださればよかったのに」
「昨夜のあなたは、まだ、ここの人ではなかった」
答えになっているのか、いないのか。ただ、昨夜も彼はそこにいたのだと分かった。
誰にも数えられない三年を、この男は独りで過ごしてきたらしい。棚の隙間の古い外套、隅の僅かな荷物——仮住まいでなく、生活そのものだった。
食事はどうしているのか。訊けば済むことばかりだったが、初対面で踏み込みすぎる気がした。
初日の仕事は、待ってくれない。わたしは机の指示書きに従い、写しの遅れている台帳を棚から引き出した。
写字生の初仕事は、写本の複製と綴じの点検だという。任官していた頃とは、扱う紙の重みが違って感じられた。
頁を繰りながら、丁付けを数える。指先で追っていた数が、途中でずれた。
もう一度、頭から数え直す。やはり合わない。表紙に記された丁数と、綴りの実際の枚数を突き合わせる。何度数えても、一枚分、足りなかった。
「ここ、一葉足りません」
つぶやくと、ジョスランが顔を上げた。
「よく分かるな」
「対になる頁の数が、合いません。数えれば、誰でも分かることです」
理由の分からない欠けを、そのまま棚へ戻す気にはなれなかった。虫食いにしては、縁が整いすぎている。何かの都合で、抜き取られたようにも見えた。
だが今は、先を急ぐ仕事がある。あとで確かめよう、と頭の隅に留めて、わたしは筆を執った。
「その字は、手本があるのか」
「はい。官定の書体——オルドの手本のとおりに、と決まっております。払いの角度も、跳ねの深さも、外れれば正本になりません」
使うインクも、公文書には院の黒のみと定められている。払い出しは出納にすべて記録され、勝手に多く受け取ることもできない。
自分の下書きには、安い煤のインクを使う。にじみやすく、色も浅いが、記録に残らない分だけ気楽だった。
「なぜ、使い分ける」
二つの墨壺を見比べて、ジョスランが尋ねた。
「下書きにまで院の黒を使えば、出納の帳面が合わなくなります。数を、誤魔化せなくなるので」
ジョスランは、それ以上尋ねなかった。ただ、前の写字生が残した反故の山を、少しの間だけ眺めていた。
書ける文字の色一つにも、この国の記録は縛られている。記録に縛られたことのない者だけが持つ身軽さも、あるのだろうか。
対葉を数え直すため、ジョスランに頁を示す。
「ここから、ここまでです」
彼の指が、同じ頁に伸びてきた。わたしの指のすぐ隣で止まる。
爪の形も、指の太さも、記録官のものではなかった。荒れた指先には、力仕事の跡らしき硬さがある。触れはしなかったが、それだけで妙に意識してしまい、先にわたしのほうが手を引いた。彼は、何も言わなかった。
書庫の隅には、見習いの写した頁が山になって溜まっている。墨継ぎの位置がまちまちで、線の太さも安定しない。
修行の跡だと分かった。わたしの筆も、継ぎ目のわずかな滲みまでは消せない。それが、この仕事に染みついた癖というものだ。四年前に亡くなった母の筆にも、同じ癖があった。ただ、継ぎの位置まで同じになることは、決してない。
「この一冊は、綴じ糸まで院の規格です」
昼近く、綴じの緩んだ一冊の古い糸を解き、新しい糸に替えた。
「糸で、どこの綴じか分かるのか」
「はい。文書院の規格は撚りが強く、蝋を引いてあります。撚りも、蝋の香りも、工房ごとに違いますので。……神殿の綴じ糸とは、手触りからして違います」
糸を通しながら、ふと視線を感じた。
顔を上げると、ジョスランがこちらの手元をじっと見ていた。半拍、間があってから、彼は目をそらした。
何を見ていたのか、尋ねる勇気はなかった。針を持つ手つきか、糸の結び方か——それとも、もっと別の何かか。
写本の作業に戻る。同じ語が続けて並ぶ行で、目が一つ先へ滑りかけた。すんでのところで気づき、書き損じる前に手を止める。
写しは、誤りを継承する。一度間違えて写せば、次の写しにもその誤りがそのまま移る。
だからこそ、一字も気を抜けない。母がいつも言っていたことを、今日はやけに強く思い出した。慣れない机での長時間の写字は、思っていた以上に肩と目を疲れさせる。
「集中しているな」
「気を抜くと、間違いを次に残します」
筆は止めずに、わたしは答えた。
「それだけで、そこまで」
「一枚の誤りは、いつか誰かを疑わせます」
言ってから、その言葉の重さに自分で気づいた。今のわたしが、まさにそうなのだから。
「失礼ですが……本当に、生きている方なのですか」
尋ねると、ジョスランは片眉を上げた。
「幽霊に見えるか」
「誰にも記録されていない方に、初めてお会いしたので」
「俺も、誰にも疑われずにいる記録官には、初めて会った」
不思議と、身構えずに言葉が出た。
「わたしは今、誰にも疑われずには、いませんが」
「なら、お互い様だ」
軽口とも本気ともつかない調子だった。互いに、存在を疑われた者同士だ——そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
今日一日で、初めてのことだった。婚約者にも、院長にも、こんな顔はできなかった。誰かの前で気が緩むのは、ひどく久しぶりだった。
指先の墨が乾く頃には、窓の外はもう真昼の色をしていた。昼の鐘が鳴り、道具を片付けていると、ジョスランが不意に口を開いた。
「……あなたは、俺のために、腹を立てているように見えた」
「……そう見えましたか」
台帳の欠けた一葉のことも、彼の名がどこにもないことも、確かに苛立たしかった。今日一日だけで、二つも見つけてしまった。
それは彼のためというより、記録が乱れていることそのものへの——そう言おうとして、うまく言葉が出てこなかった。
ジョスランは、答えを急かさなかった。ただ、そこに座ったまま動かない。
「……あなたは、俺がいないことに、腹を立てたのか」
窓の外から、微かな喧騒が届く。誰かが忙しく働く、いつもの昼だ。
書庫には、彼の問いだけが残っていた。




